第二章 玄永家の一族 ⑤

「お、おはようございます──宵江さん」

 宵江がどうもくした。横で流里が、おやおや、と薄笑いを浮かべている。

「……おはよう」

 どこか呆然としたような宵江に、智世は次に続く言葉を持たなかった。何しろ昨夜の事情が事情だ。あんなに気を遣ってもらってしまった後にどうすれば──

(──違う。私が事情を知ってること、宵江様──さんは知らないはずだわ)

 だったら、と智世は宵江をまっすぐに見上げた。

「あの、昨夜は急なお勤めお疲れ様でした。つつがなく終わられたようで何よりです」

「──ああ」

 宵江もようやくてんがいったらしく、ぎくしゃくとうなずいた。

「お陰でその──何事もなかった。心配をかけていたらすまなかった」

 違うでしょう、と流里が見かねたように半眼で口を挟む。

「謝るなら寂しがらせたことを──」

「る、流里さん!」

 言いかけた流里の言葉を遮るように、今度は居間の奥から声がかかる。十咬だ。

「今すぐこっちに来て綱丸のミルク用意してください! 今すぐ!」

「何ですか急に。そんなの綱丸が自分で──」

「いいからその場で余計な口挟まないでくださいって言ってるんです早く!」

「……まったく。わかりましたよ。あーあ、これじゃ進むものも進まない」

 流里は肩をすくめて、しかし薄笑いを浮かべたままで居間の奥に引っ込んでいく。十咬が愛想笑いを浮かべて智世と宵江を見た後、すぐにその扉はばたんと閉められた。扉の向こうで二人が何事か言い合っている声がする。

 何となく二人を見守ってしまっていた智世は、改めて宵江に向き直った。そしてどきりとした。

 宵江はじっと智世を見つめていた。

 もしかして──智世が流里たちのほうを見ていた間、ずっとだろうか。

 何だか気恥ずかしくてうつむいてしまう。そしてうかがうようにまたちらりと見上げる。

 朝の光の中で見る黒曜石のひとみは、夜に見るのとはまた違って見えた。昨夜が夜空の星々なら、今は朝露に降り注ぐ暖かな陽光のきらめきだ。

「その……着物は」

 思わずれていたところに話しかけられて、智世はびくっと肩を震わせた。

「き、着物?」

「その──用意させたものは、気に入らなかっただろうか」

「──え」

 人形のように美しいのに、宵江が人形のように見えないのはひとえに──一見無表情にもかかわらず──感情表現が豊かだからだ。

 宵江は智世の目から見ても明らかに悲しげだった。

「き」

 何かを考えるより先に口が動いていた。

「気に入らないはずありません! どのお着物も素敵だったから家事をするときに着るのはもったいないと思っただけで!」

「……着るのが嫌だったわけではないと?」

「あたりまえです!」

 智世が力いっぱい頷くと、宵江は表情を変えないまま、その顔にあんを浮かべた。

「……そうか。よかった」

「あの、私今から着替えてきます! 宵江さんは何色がお好きですか!?」

 勢い込んで問う。宵江は瞠目したまま首を横に振る。

「いや、そんな手間を掛けさせてしまうのは」

「私が着たいと思ったから着るんです! あなたのお好きな色を──その」

 言いかけて、智世は真っ赤になって口をつぐんだ。

 こんなの、まるで自分が宵江に喜んでもらいたがっているようではないか。

 そんな智世の胸中などいざしらず、いつからいたのだろう、長椅子の陰に隠れた茨斗がこっそり顔を出して「智世さん、敬語。敬語になってる」などと悪戯いたずらっぽくささやいている。

(急には無理よ! それに今それどころじゃ──)

 口をぱくぱくさせて必死に伝えようとするが、わかっているのかいないのか──恐らくわかっていてわざとなのだろうが、茨斗はにやにやと笑っている。そんな彼を、宵江は嘆息混じりにたしなめた。

「茨斗」

「はぁい。わかってますって」

 茨斗は素直に立ち上がり、両手を上げて降参のかつこうをした。そして、あ、と何かを思い出したような声を上げる。

「智世さん、よかったら俺の代わりに綱丸の散歩に行ってくれませんか?」

 思ってもみないその申し出に、智世は喜色を浮かべた。

「私が行っていいの?」

「はい。俺今から仕事なので、行ってもらえると助かります。何せうちのご主人様は今日一日非番なんで、俺がその分しっかり働かないと」

 すると宵江がなぜか不可解そうな顔をした。

「お前、綱丸の散歩なんて普段──」

「あー助かるなぁ! 奥様が直々に散歩に行ってくださるなんて俺とっても助かる! そんじゃ行ってきまーす! あっ今日も部下何人か連れていきますね!」

 片手を挙げてそう言うと、茨斗は勢いよく玄関から飛び出して行った。彼は昨日と同じ黒い制服に、がいとうと制帽姿だ。扉の外に何人かの部下らしき姿が見えたが、彼らは外套と制帽は身につけていない。制服自体も、茨斗のものよりいくらか簡素に見えた。

「……茨斗さん、とっても明るい方ですね」

「子どもの頃からずっと変わらない。にぎやかすぎて困っている」

 そう言いつつも、茨斗が出て行ったほうを見つめる宵江のまなしは穏やかだ。

 おさなみだと言っていた。当然のことながら、智世が知らない宵江のことを、茨斗はたくさん知っているのだろう。

 うらやましいな、と思った。

 まだ出会って二日目の相手だというのに、知らないことのほうが多いのだという今の状態をもどかしく感じる。知らなくて当たり前なのに。

(私は──まだ宵江さんの好きな色も知らない)

 と、宵江が今下りてきた階段に再び足を掛けた。

「待っていてくれ。綱丸の散歩ひもを取ってくる」

 頷くと、居間の奥の扉から十咬がひょっこりと顔を出す。

「宵江様、お出かけですか?」

「ああ。綱丸の散歩に行ってくる」

「綱丸の散歩? なんでまた──ああ、なるほど。そういうことですか」

 十咬はしたり顔で頷いた。宵江は半眼でうめく。

「茨斗もお前も、一体何なんだ」

「いえ別に。どうぞ行ってらっしゃいませ」

 十咬は言って、ずいと綱丸を差し出してきた。ミルクを飲んだばかりなのだろう、口の周りが白くれていて、それがまた赤ん坊のようで愛くるしい。

 と、智世は気付いて声を上げる。

「宵江さんも一緒に行ってくださるんですか?」

「? あなたが行くなら当然──」

 言いかけて、宵江はせきばらいをした。

「……昨日うちに来たばかりなんだ。まだこの辺りの道もよく知らないだろう、あなたは」

「あ。それもそうですね」

 あはは、と智世は思わず笑う。心なしか宵江の頰に赤みが差しているような気がして、智世もつられて赤くなってしまう。

 流里が十咬の後ろから顔を出して、戻られたら朝食にしましょう、と声を掛けてくれた。

 十咬に抱かれたままの綱丸が賛同するように、わう、と鳴いた。


 自慢ではないが、男性と二人きりで並んで歩いたことなど、それこそ父親相手ぐらいしかない。

 かちこちに固まったまま、智世は宵江の半歩ほど後ろを歩く。気を抜いたらもっと後ろに下がってしまいそうなのを、そのたびに宵江が立ち止まって待ってくれるのだ。

 綱丸は首輪や散歩紐など本当は必要ないのではないかと思うほど、利口に宵江の足もとにぴったりくっついて歩いている。ぬいぐるみのようにもふもふとした毛玉が一生懸命歩いているさまは、思わず抱きしめたくなるほどいじらしい。

 散歩がてら、宵江は屋敷の周囲を簡単に案内してくれた。同じ都内だし、しんばしにある智世の実家からもそんなに離れているわけではないが、景色はまったく別の場所に感じられる。明るい朝陽に照らされていることを差し引いても、何だか輝いて見えるのだ。

「──あの川向こうの商店は流里がよく使っているらしい。化粧品の品揃えがいいと言っていた」

「そうなんですね。後で流里さんにいろいろ聞いてみようかな。お詳しそうですものね」

 こんな具合で、さっきからずっと宵江は智世が興味を持ちそうな話題を選んで振ってくれている。それも、既に智世とあいさつを済ませている使用人たちの情報を織り交ぜて、智世がなるたけこの辺りの街並みにも、そして使用人たちにも、親近感を覚えるようにしてくれているように思う。向こうの通りを一本入ったところにある駄菓子屋は茨斗のようたしだとか、紘夜は意外と芝居小屋が好きで徹夜仕事明けでもよく通っているとか、川沿いの土手を街のほうに向かって十咬が歩いていると、道行く人によく異人に間違われてちょっと遠巻きにされるとか。

「……あの」

 街角の小さな公園に差し掛かったあたりで、智世はおずおずと切り出してみた。

「私、宵江さん自身のこと、もっと知りたいです」

 宵江は智世を見つめ返してきた。

 幼馴染みだという茨斗をはじめ、智世に声を掛けてくれた使用人たちは皆、宵江と付き合いが長く、仲が良い者たちだという。宵江が玄永家を継いだと同時に、先代の頃から仕えていた者たちの多くは、先代の隠居に合わせて、三区画向こうの別邸に引っ越していったらしい。呼べば彼らも手を貸してくれる、と宵江は言うが。

 そして茨斗が『部下』と呼んでいたあの制服姿の彼らは、敷地内にいくつかある離れで暮らす同じ一族──であるらしい。血のつながりがある者も、ない者もいて、まるで一つのさとであるかのような印象を智世は持った。

 その長が、宵江なのだ。

 そしてその妻が──自分。

 一家の当主となったからにはいつまでも独り身ではいられないだろう。どこの誰とも知れない者を嫁にもらうよりは、親同士が気心の知れた間柄だからその子ども同士を、と望むのも自然なことだ。

 けれど。

 ──今も宵江は、熱のもったひとみで智世を見ている。

「そして、私のことも、もっと知ってほしいです」

 自分は彼の期待通りの相手ではないかもしれないから。

(──そうか)

 それが怖いから、早く知ってほしいのだ、智世自身のことを。もし期待を裏切ってしまうなら、傷が浅いうちのほうがいいから。

 落胆する彼を見たらきっと自分は傷つく。それほどまでに、もう彼にかれてしまっている。

 宵江が口を開いて、何かを言いかけてやめた。視線を綱丸のほうにらしてしまう。

 綱丸は飼い主の様子がわかっているのかいないのか、愛らしく小首を傾げた。

「……お前もそう思うか」

「わふ」

 ……また会話が成立している。

 宵江は意を決したように智世の手を取った。どきりとするいとまもなく、公園の端にしつらえられた小さなあずまのほうへ導かれる。宵江は腰掛けを手ではたくと、そこを智世に示した。智世は大人しくそこに腰掛ける。宵江もその隣に腰を下ろした。

 否、隣と言えるほど近くはない。

 綱丸が困ったように二人の間を行ったり来たりしている。

「……俺は」

 足もとを見つめたまま、宵江が言った。

「好いた相手と添うことができたことを、今でも夢なのではないかと思っている」

「!……はい」

 ぼっ、と顔から火が出そうになった。なぜこの人はこんなにもまっすぐな言葉をくれるのだろうか。

「だからその、俺が何か、あなたの希望と違うことをしていたら教えてほしい。できるだけ使用人たちの意見もんで先回りできればと思ってはいるが、俺はその──どうも勘が鈍いらしいんだ」

 智世の脳裏を、新婚の夜を一人で過ごした昨夜の記憶や、たんいっぱいの美しい着物の数々、それに絶え間なく現れてはあれやこれや手を尽くしてくれる使用人たちの顔が駆け抜けていった。

 智世は思わず噴き出した。宵江がやや頰に朱を昇らせて、半眼でこちらを見る。

「なぜ笑う」

「いえ。お心遣いがありがたいなと思ったんです」

 智世は言って、勇気を出してほんの少し、宵江のほうに寄ってみた。

「あなたがしてくださることであれば、私は何でもうれしいです」

 そう言って微笑む。綱丸が何だか嬉しそうにこちらを見上げてくれているから、怖がらずに気持ちを言葉にできた気がした。

 宵江の手がこちらに伸びてくる。指先が智世の頰に触れた。

 黒曜石の瞳が間近にある。吸い込まれるように見入ってしまう。あるいは、魅入られて、か。

「俺のこと、玄永家のこと──俺たち一族のことは、これからゆっくり知っていってほしい。あなたがこれまで暮らしてきた場所とは、きっといろんなことが違うと思う。だから無理はせず、少しずつ知ってくれればいい」

 そのために、と宵江は不意に目を逸らした。

 智世は目をしばたたかせる。

「……そのために、何でしょう?」

「……言葉を」

 意図がわからず、促すように首を傾げてみる。

 宵江の手が頰からぱっと離れた。心地のい感触がなくなってしまい、名残惜しく思う。

 宵江はまた足もとに視線を落として、ひどく言いづらそうにつぶやいた。

「……茨斗たちとばかり、その、親しげに話すのは……」

 ──敬語、敬語、と脳内の茨斗が楽しげにわめいた。

 ああ、と智世は思わず両手で口もとを覆う。そうしないとまた笑いがあふれてしまって、目の前のかわいい人をますますねさせてしまいそうだったので。

「わかったわ、宵江さん」

 智世は宵江の手を取り、安心させるように微笑んでみせた。

「敬語を外すとあんまりおしとやかになれないから、当主夫人としてふさわしくないかもと思って不安だったの。でも、私もちゃんと自分の言葉で、あなたとお話ししたい。あなたと一日も早く仲の良い夫婦になりたいから」


 屋敷に戻り食堂に向かうと、はいぜんをしていた流里が目を丸くした。

「おやまあ、うちのご当主は一体どうしたんですか」

 智世は困惑しきった顔である。

「それが公園から戻ってくる間、ずっとこの様子で……」

 宵江はどこかめいていしたような、夢見心地のような、焦点の定まらない様子でふらふらと歩いては、ごん、と壁にぶつかったりしている。

 流里は内緒話でもするように智世にささやく。

「智世さん、宵江さんに何か言いました?」

「いえ、ひどいことなんて何も! ただ、早く仲の良い夫婦になりたいから、もっとお互いのことを知りたい、もっとお話ししたいと」

「あーはい、もう大丈夫です。わかりました」

 そんな、と半泣きの智世をよそに、配膳を手伝っていた十咬も素っ気ない調子で言う。

「宵江様のことは放っておいて大丈夫ですよ。なるべくしてそうなった、という状況なので」

「でも原因が私には何も──」

「さぁお二方、冷めないうちに召し上がれ」

 食事を用意してくれた流里にそう促されては、席に着かないわけにはいかない。

 智世はおろおろとしながら宵江の隣の席につき、おろおろとしながら宵江の挙動を見守る。

「宵江さん、大丈夫? 一人で食べられる? どうしよう……流里さん、私が食べさせてあげたほうがいいでしょうか?」

「智世さん、それ以上は宵江さんにとどめを刺してしまいますよ」

「えぇっ!?」

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