第二章 玄永家の一族 ④
新郎のいない新婚生活一夜目が明けた。
目覚めてまず最初に目に飛び込んできたのは、ポメラニアンの赤ちゃんの顔面だった。
「……え?」
はっはっ、という息が夢うつつに耳もとで聞こえるなとは思ったが、まさかの光景に智世は固まる。ついでに誰かが頰をたしたしと軽く
「……えーっと……」
とりあえず起き上がり、ポメラニアンと見つめ合う。
犬を飼っているという話は昨夜は聞かなかった。首輪はついていない。が、こんなに愛らしい
と──扉の外から十咬の声が聞こえた。
「
「わぅ」
ポメラニアンが一鳴きする。まるで人間との会話が成立しているかのようだ。
微笑ましく思っていると──扉が不意に開いた。
智世は固まった。寝起きですぐにポメラニアンと戯れていたため、寝間着の
外から扉を開いた姿勢のまま、十咬も固まっている。
彼は気の毒なほどに顔を真っ赤にして、音を立てて扉を閉めた。
「失礼いたしました!」
「え、あの、十咬くん」
「綱丸お前、智世様のお支度が
「わふ」
また会話が成立している。ポメラニアンは申し訳なさそうに、きゅーん、と上目遣いで智世を見上げている。智世は浴衣の胸もとを整えてから、ポメラニアンを抱き上げた。そして扉の外に声を掛ける。
「十咬くん、ごめんね。私なら大丈夫だから、どうぞ」
するとおずおずと扉が開いて、申し訳なさそうに十咬が入ってくる。今日はあの制服姿ではなく、紺色のズボンにぱりっとした白いシャツ、それにいかにも育ちのよさそうなベスト姿だ。朝日に透ける金髪も相まって、まるで異国の令息のように見える。
十咬は手に洗面道具を持っている。智世は慌ててしまった。
「十咬くん、そんなことまでしてくれなくていいのよ。私、自分で支度できるから」
「いえ、僕にやらせてください。せっかく宵江様から賜った大事なお役目ですから」
そう言われては食い下がるわけにもいかなかった。与えられた仕事を奪うのは職を奪うのにも等しい。雇い主側としてはそれは決してしてはいけないことなのだと、父親からも、そして勤め先でも智世は学んでいる。
「替えのお召し物は、そこの
十咬は慌てて口を押さえて
「我々がご用意した分です」
目を丸くする智世に、十咬はてきぱきと部屋の説明を続ける。下着類は触らずに置いたままにしてあるから自身で
一通りの説明を終えた十咬が退室すると、智世は寝台の傍に置かれた時計を見た。針は七時を指している。もう少し早く目覚めるつもりでいたのに、やはり昨夜緊張でなかなか寝付けずにいたためか、思っていたよりも寝入ってしまったようだ。
(急いで支度しなきゃ)
智世は十咬が持ってきてくれた洗面道具で顔を洗い、手早く化粧を済ませた。そして右側の簞笥に手を掛ける。
(……宵江様が用意してくださったって言ってた)
十咬はそうは言っていないが、言ったも同然だった。興味を抑えきれずに左側の簞笥を開いてみる。そこには智世が手に取ったこともないような高価な生地の着物から、
こんな贈り物を用意してくれているなんて、昨日、宵江は一言も言わなかったのに。一着選ぶのだけでも大変だろうに、こんなにたくさん。
智世は右側の簞笥を開けて、持参した
そういえばお台所の場所も知らないな、と思いながら階段を駆け下りると、居間に流里がいた。捜していた人物に一番に出会えたことに感謝しながら駆け寄る。
「おはようございます、流里さん」
流里は美しく化粧を施した顔に柔和な笑みを浮かべた。今日も
「智世さん。おはようございます」
流里は智世よりも、宵江よりも年上に見える。三十になるかならないかぐらいだろうか。まだ出会って丸一日も経っていないのに、なんだか姉のように感じる。
「こんなに朝早くにどうしました? まだお部屋でゆっくりなさっていればいいのに」
そう言われて、智世は目を丸くした。
「朝ごはんの支度です。ごめんなさい、本当はもっと早起きするつもりだったのに」
え、と今度は流里が目を丸くする。
「朝食の支度ならとうに済んでいますよ。我々女中の仕事ですから、智世さんにやっていただくことなんて何もありません」
今度こそ智世は
「家の者が事前に何も説明しなかったんでしょうか。玄永家では、奥方様には家のことは何一つしていただく必要はないんですよ。掃除や洗濯も、そのお役目を頂いている使用人がいますから」
それじゃ、と智世は
「私は……一体何を……」
と──
「──智世さん?」
階上から声が掛かった。その声を聞いただけで、何だか心が浮き立つような心地で智世は振り返る。
宵江が階段の上からこちらを見下ろしていた。着流し姿で、昨日の隙のない制服姿とは雰囲気ががらりと違って見える。無論、どちらもとても似合っていて素敵だ。
階段を下りてくる宵江に
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