第二章 玄永家の一族 ①

 ──困ったわ。

 智世は頭を抱えた。

 婚礼の儀を終えて、いざほんばしを渡り玄永家へ入ろうという段である。

 そこでようやく──智世は思い至ったのだ。

 結婚というものが、両親に花嫁しよう姿を見せて、夫の家で生涯暮らすという、ただそれだけではないということに。

 智世は真っ赤な頰を両手で押さえた。知らず立ち止まってしまう。

 料亭を出て両親や介添えのお手伝いさんたちと別れ、そこからほど近い玄永の家に向かう道中である。宵江に先導され、智世は数歩後ろをついて歩いていた。隣を歩くにはまだ気恥ずかしく、また宵江の周囲には玄永家の者らしき付き添いが何人かいたため、何となく近寄りがたかったというのもある。

 智世は前を歩く宵江の背中を見る。

 彼が着用している軍服のような制服は一見、智世の父が着ている警察の黒い制服にとてもよく似ている。だがよく見ると型が少し違う。智世の父は上着がすとんとした形のものを着ているが、宵江が着ているものは、上着の上から締められた帯革によって、より身体に沿って見える。帝国陸軍の軍服のように草色ではないし、内務省勤務の宵江が軍服を着るわけもない。だが初めて見たときから、制服というよりも軍服という印象だった。着ている宵江の背筋がすっと伸びていて、動作に無駄がないからだろうか。

 婚礼の場で同じく宵江を初めて見た母親は、まるでおとぎ話の王子様のような方ねぇ、と笑った。その通りだ。隣で父親が複雑そうな顔をしていたから、彼も異存はなかったようである。智世だって何も知らない娘時分であれば、無邪気に同調していただろう。

 ──けれど。

 宵江が振り返った。智世の足音がついてきていないことに気付いたのだろうか。

 智世はどきりとした。黒曜石の瞳がまっすぐにこちらを見つめている。視線を外すことができないでいると、宵江がこちらに駆け寄ってきた。

「大丈夫か」

 心配されるとは思いもよらず、智世はただうなずく。

 宵江はしかし智世の顔をのぞき込んでまゆひそめる。

「顔が赤い。具合でも悪いんじゃないか」

「ち、違います」

 智世は思わずあと退ずさった。一度好ましいと思った相手にこんな至近距離から覗き込まれるのは心臓に悪い。

「その……緊張してしまって」

 智世はようやくそう絞り出した。

 だが言外に含めた意味に、宵江はどうやら気付いていないようだった。智世の返事に、明らかにほっとした顔をしたのだ。

「……そうか。うちに来るのが嫌になったのかと」

 ──何故なのだろう、と智世は思った。

 この人はやはり、智世が嫁入りすることを殊の外喜んでいるように見える。そうしてもらう理由に心当たりがないのに。何だか申し訳なさすら感じてしまう。

 目の前に手が差し出された。美しい顔かたちとは裏腹に、男っぽくごつごつした手だ。さっきこの手に自分の手を握られたのかと思うと、差し出されたその手を再び取ることがどうしてもできない。心臓がずっと早鐘を打っている。

「あの……大丈夫です。一人で歩けますから」

 絞り出すようにそう言うと、頭の上から、そうか、という返答が降ってきた。智世はいつの間にか宵江の顔を見ることができず、自分の足もとを見ていたらしい。

 宵江はきびすを返し、歩き出した。智世はあんの息を吐き、その後をついて行く。

 玄永家の付き添いの人たちが、なぜだか居心地悪そうにちらちらとこちらを見ていた。


 玄永家の屋敷の門前に到着した途端、智世は目を見張って立ち尽くしてしまった。

 そう──屋敷なのだ。

 智世の実家も大きいほうだとは思う。官僚の父にお嬢様育ちの母、何人ものお手伝いさんに囲まれて育った。とはいえ自分の家をお屋敷だと思ったことは一度もない。ちょっと裕福な一般家庭、の域を出ない。

 だが目の前にそびえる玄永家の建物は、誰がどこからどう見ても、並々ならぬ人々が暮らす巨大な武家屋敷の様相なのだ。誰も何も教えてくれなかったが、ひょっとして玄永家は華族の家柄なのだろうか。そうだとしても全くおかしくない。

「……あの」

 智世はまた声を絞り出した。さっきから全く滑らかに言葉が出てこない。

「今するお話ではないかもしれませんが、宵江様はその、お仕事は、内務省では具体的に何を……?」

 お見合い写真がなかったことに端を発し、この婚礼には不可思議なことがありすぎる。

 智世はいざ輿こしれという今日に至ってまで、夫の職業すら詳細には知らなかったのだ。

 宵江はこちらを振り返らないまま答えた。

「その話はまた追々」

 宵江に促され、智世はおずおずと立派な構えの門を潜った。

 その瞬間──何かが稲妻のように身体を駆け抜けた。

 思わず立ち止まる。

 痛みではない。何か──しびれのようなもの。

(今のは──何?)

 宵江は何も言わない。付き添いの者たちもだ。異変を感じたのは智世だけだったということだろうか。しかし気のせいと断じるにはあまりにも──

「どうかなさいましたか?」

 付き添いの一人が智世に問う。全員襟の高いがいとうに制帽を目深にかぶっていて、顔はわからない。だがとても若い声だ。少年と言ってもいい。

「……いいえ。大丈夫です」

 智世は微笑んでみせた。

 ──あの異形の影と同じだ、と思った。

 智世以外、誰も気付いていない。智世さえ気のせいだと断じてしまえば、それはもう気のせいということになる。

(そんなはずないのに。あの恐ろしいものの影だって、きっと本当は……)

 智世はかぶりを振った。さしあたり目の前には、考えなければならないことが他にあるのだから。

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