第一章 婚礼の日に ③

 その喪失感の正体を、智世は最初、夢の職業を手放すことから来るものだと思った。

 だが──その夜、夢を見た。

 まだほんの子どもだった頃の夢だ。

 すっかり日が落ちてしまったというのに、智世は家の外にいた。友達と夕方まで遊んだ帰り道、確か例の恐ろしいものを初めて見たときだ。当時の智世はそれが本当に存在するお化けか何かのように思ってしまって、町の中をめちゃくちゃに走って逃げた。それで帰り道がわからなくなったのだ。

 そうしたら──智世よりも少しだけ年上の男の子が傍にやってきて、何か話しかけてきた。

 智世も何かを話した。何を話したのかは覚えていない。何しろその男の子の顔も覚えていないのだ。

 気付いたら智世は自宅の前に立っていた。

 気付いたお手伝いさんが半泣きで出てきて、智世を抱きしめてくれた。心配した両親に𠮟られたが、素直に謝ったらすぐに許してくれて、やはり抱きしめてくれた。

 恐ろしいものの話はその時、両親にはしなかった。その後もずっとだ。

 普通、すぐに誰かに打ち明けてしまいたいと思いそうなものだけれど。子どもならなおさらだ。それとも「誰かに話したら変に思われるかも」と思いでもしたのだったか。

 それに──あの男の子と話している間、何か美しいものを見たような気がする。その美しいものが、智世の心を不思議と慰めてくれた──気が、する。

 何も覚えていない。あの日、迷子だった自分がどうやって家に帰ったのかも。あの男の子に関することも。

 けれど、恐らくあれは自分にとって、憧れに近い淡い初恋だったのだ。

 だって彼と出会った後、胸に穏やかにともったように温かくて、それまでの恐ろしさがどこかへ飛んで行ってしまったのだから。


 長い間すっかり忘れていた初恋らしきものを夢に見て、智世は束の間の感傷に浸った。

 けれどすぐにそんな場合ではなくなった。退職までに仕事を後任の者に引き継いで、それと同時進行で、女学校卒業とともにすっかり記憶の彼方かなたへ消えてしまった花嫁修業の内容をすべて思い出さなければならなかったのだ。そんなこんなであっという間に時は過ぎた。

 ──そして例の結納すっぽかし事件である。

 すっかり覚悟を決めていた智世は拍子抜けしてしまった。母親は智世以上にぷりぷりと怒っていたようだったが、父親になだめられていた。そう、父親はなぜか結納をすっぽかした花婿の味方をするような姿勢だったのだ。それは傷ついた娘を慰めるためというよりも、本当に心からそう思っているためのようだった。両親が二人してそんなふうだったから、智世はかえって怒ったり悲しんだりする機会を逃した。ないがしろにされているようで憤りはしたものの、これも父親に宥められた。そうなっては智世にはそれ以上怒り続ける理由もなくなってしまう。何しろ怒りを継続させようにも、相手の顔も知らない状態ではあまりにも難しかったのだ。

 だから婚礼当日も、どこか他人ひとごとのような気がしていたのは否めなかった。

 もしかすると今日も花婿は式をすっぽかすんじゃ、というも内心あった。

 それでも娘の花嫁姿を見て泣く両親の姿には胸がいっぱいになったし、今日を境にいよいよ自分の人生が大きく変わるのだという期待も不安もあった。世の中に数多あまたいる、当たり前の花嫁と同じように。


「あなたが来てくれるか、今日までずっと不安だった。──嫁に来てくれて本当にうれしい」

 黒曜石のひとみを輝かせて、知らず弾もうとする声を押し殺しながら、夫となる人は智世にそう告げた。かっちりした黒い軍服に身を包んでいるその姿は、れするほどしい。

 智世は急激に心拍数が上がり、頰が熱くなるのを感じた。

 この、何だかかわいらしく思えるような美しい人の妻に、自分は今日からなるのだと──手をしっかりと握られたまま、ようやく智世は自覚した。

 しかしやはり困惑もしてしまう。なぜ彼はこんなにも、自分に好意を抱いている素振りを見せるのだろう。よしんば父親が娘を良く見せようと根回しのためにあれやこれや話していたのだとして、それでここまで好意的になるものだろうか?

 困惑が伝わったのか、彼は──宵江は慌てたようにぱっと智世の手を離した。

「す──済まない。急にその、失礼な真似を」

「い──いいえ」

 失礼だなんて思っていない。これから夫となり生涯をともにする相手だ。

 智世はしずしずと一礼した。そして告げる。

「初めてお目に掛かります。づき智世と申します。つつかものではございますが──」

 型通りのあいさつをしようと顔を上げたときだった。

 宵江がどこか寂しげな顔で、智世を見つめていた。何か、言葉を掛けなければならない雰囲気を感じて、智世は挨拶を途中で止める。

「あの……何か、失礼なことを申し上げたでしょうか」

 問うと、宵江は首を横に振った。

 しかしその寂しげな──智世よりもすらりと背が高いのに、どこか捨てられたいぬのような寂しげな様子に、智世は思わず抱きしめてやりたい衝動に駆られた。とても実行に移す度胸はなかったけれども。


 こうして雨月智世は、この日を境に玄永智世となった。

 それが何を意味するのか──智世がそれを知るのは、料亭での婚礼を終え、玄永家に入って、さらにしばらく時間が経った後のことである。


    * * *


 ──さだみつ、と、母親は彼をそう呼んだ。

 満足に口の利けない彼を、まるで実の子のように愛し、慈しみ、育てた女だ。

 実子は生まれたばかりの頃に流行はやりやまいで死んだらしい。夫も同じ病で死んだという。

 女は一人だった。

 彼が女に出会ったのは五つか六つか、そのぐらいの時分だ。

 彼も一人だった。

 彼に出会い、女は再び母親になった。みすぼらしい孤児を拾って育てようとするほど、女は孤独だったのだろう。女は再び生きる気力を得た。

 貞光という、かつて失った実子の名で呼ばれ、実子の穴を埋めるようにかわいがられる状況であっても、彼はそれをゆがんでいるとは思わなかった。

 否、歪んでいるのだとしても、それでよかったのだ。誰かの代わりでもよかった。自分を捨てた両親の代わりに愛してくれるなら。

 彼も孤独だったのだ。


 だが、彼は再び一人になった。

 女を──殺したからである。


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