第一章 婚礼の日に ②

「──またつじ斬りですか!?」

 夕食の席で母親がとんきような声を出した。物騒な言葉の内容に反して、声はどこか間延びしている。これは彼女の生来の気質だから仕方のないことではあるのだが。

 ともあれ、やや深刻そうに話を切り出した父親のほうは、調子が狂わされたようではあった。せきばらいをして話を続ける。

「ああ。なんとも時代錯誤なことだが」

「怖いわ。今月に入って、もう二度目ねぇ」

 さほど怖くなさそうに聞こえてしまうのも、仕方のないことなのだ。穏やかな家庭で平和に育った箱入り娘である母親は、実のところ智世から見ても、父親のことが時々哀れに思えてしまうほどのほほんとした気性である。

「お父様や局内の皆さんは大丈夫?」

 思わず智世が助け船を出すと、父親はあからさまにほっとした顔をした。

「さすがに部下たちも近頃ぴりついている。だがそんなに心配しなくていいぞ。事件が起こるたびに犯人を捕まえることはできているからな。それに辻斬りと言っても明らかに素人仕事だ。御一新を生き抜いた剣豪の方々が見たら嘆くに違いない」

 父親は顔をしかめた。

「刀で斬るというより、適当にたたきつけたような感じなんだ。幸い死人も出ていない。ただまぁ、刀というのは下手な者が斬ると、傷の治りも遅いし、何より激しく痛む。被害者は皆、傷は浅いし命に別状もないが、その点では気の毒としか言いようがない」

 智世は思わず口もとを押さえた。

 ここ帝都──東京は、おおむね平和だ。軽犯罪はしょっちゅう起こるし、殺人事件もないではないが、少なくとも智世の周囲で誰かが事件に巻き込まれたことは一度もない。

 ただ──少し前から時折、辻斬り事件が起こる。

 父親の言うように、時代錯誤も甚だしいことだ。そのたびに犯人は捕まっているとはいっても、こうも続くとたちの悪い模倣犯が複数いるとしか思えない。犯行の場所もばらばらで、被害者には共通点が何もないらしい。つまり、気をつけようがないのだ。その点においては交通事故に遭うのとあまり変わりがないし、交通事故よりも辻斬りのほうが現実味がはるかに薄い。だから母親の、わかっているのかいないのかわからないような反応こそが、きっと普通なのだ。

 でも、と智世は父親のほうを見る。

 父親は内務省の、警察行政を管轄する警保局で働いている──らしい。要は事務や技術職を担い、現場に出る警察職員を後方から支える仕事だ。それ以上の詳しいことは、智世は知らない。いても教えてくれないのだ。家族とはいえ部外者には秘めなければならないことも多いのだろうから、そういうものなのだろうと納得はしている。しかしそのことと、娘として父親を心配する感情とは別だ。

「そんな顔をするな。お前たちを心配させたいわけじゃない」

 父親は智世と、そして母親とを安心させるように微笑んだ。

「お前たちにも気をつけていてほしいと、そう言いたかっただけなんだ。知っているのといないのとじゃ、心構えも変わってくるからな」

 その言葉に、母親が身体ごと父親に向き直る。

「あなたも、どうか気をつけてくださいね。あなたのお仕事のこと、私は何もわかりませんけど、危険なことだけはしないでくださいましね」

 しんにそう言い募る母親は、なんだかとてもいじらしく見えた。

 心配するな、と父親は優しい口調で返した。その言葉は確かに、何の心配もいらないのだとこちらを安心させてくれるものだった。


 智世にお見合いの話が舞い込んできたのは、そんな辻斬り事件が、いよいよ無視できない頻度で起こり始めていた頃だった。

 街の路地で、田んぼのあぜみちで、どぶ川のへりで、商店の裏口で。あらゆる場所で辻斬りの被害が相次いだ。狙われる者に相変わらず共通点はまったくない。死者も出ていないものの、やはり犯人の刀さばきは決して達者とは言いがたいもののようだ。今まで他人ひとごとの顔をしていた東京市民にとっても辻斬り事件はにわかに現実味を増し、身近なものになった。

 そんなさなかのお見合い話である。

 その頃、智世は仕事が終わるとまっすぐ帰宅するようになっていた。これまでは早上がりの日には同僚とお茶をして帰ったり、百貨店をのぞいたり、ちょっと遠回りをして公園の大きな池の周りをぐるりと散歩して帰ったりしていたが、それもあまりしなくなってしまっていた。別段、辻斬り事件は夕方や夜にばかり起きているわけではない。それでもなんとなく、暗い時間に出歩くのはやめよう、となってしまうのが若い女性の常である。

 ──父の知人の子息だというその人は、先頃家を継いで、若くして当主となったらしい。

 父と同じく内務省の警察組織内の一員として、国のために働いているそうだ。しかも一部隊を率いる長の役職に就いているのだという。家柄も職業も申し分ない、と父はそう言った。

 ただ問題は、先方のお見合い写真がないということだった。

 顔もわからない相手との縁談など、それこそ辻斬りと同じぐらい時代錯誤だ。どうにか写真を取り寄せてもらえないかと父に頼んでも、それはできない、難しい、とかわされてしまう。

 智世も二十歳、両親を安心させてやりたい気持ちはもちろんある。仕事を続けたいから独身を貫きたいし、既婚の友人の話を聞くだに自分には向かないとは思うけれど、別に結婚そのものを憎んでいるわけでもない。正直、仕事にある程度区切りがついたらいつかは自分も結婚するのかもしれない、という程度の覚悟はあった。

 それにこのところの辻斬り騒ぎで、仕事を終えた暗い時間に恋人や夫が迎えに来てくれる同僚のことを、ほんの少しうらやましく思っていたのも確かである。

(でも、そんな理由で夫を決めるなんて、相手の方にも失礼だし……)

 断る大きな理由もないが、乗り気になる理由もない。しかし今回に限って父親はなぜか熱心に勧めてくる。今回に限って、相手の顔もわからないのに。

 ──玄永宵江。

 美しいお名前だわ、と智世は思った。

 入り江から見上げる、くろい宵の空。

 それはきっと星々の瞬きを水面みなもが反射して、まるで黒曜石のように美しいことだろう。


 顔も知らないお見合い相手と、会う機会すらなぜか一度も得られないまま、しばらく経ったある日のことだった。

 智世はまた例の『見間違い』をした。今度は昼日中だ。休日に友人と昼食を取った帰り道、それも人通りの絶えない往来でのことだった。だから智世はそれを、今度こそは自分の見間違いだと信じた。辻斬りの件をきっと自分でも思いのほか不安に感じていて、だから本来見えるはずのないものが見えるような気がしてしまうのだ、と。

 そうして帰宅したら、何だか家の中が騒然としていた。

 嫌な予感が急激に胸をのぼってくる。普段、穏やかに家の中を掃除したり、食事を用意したりしてくれている何人かのお手伝いさんが、血相を変えてばたばたと走り回っている。どうしたのかと声を掛ける前に、としかさの一人が智世に気付いた。

「智世お嬢さん! 奥様が……!」

 その言葉にはじかれたように、智世は応接間に走った。さっきからそこにひっきりなしに人が出入りしているのだ。部屋に入った瞬間、こちらに背を向けて置かれている長椅子の、そのひじ掛け部分から、足袋たび穿いたほっそりした爪先が覗いているのが見えた。

「お母様!」

 長椅子の傍には医者がひざまずいていた。母親は真っ青な顔で長椅子に横になっている。腕を医者のほうに伸ばして、包帯を巻かれている最中だった。傍には血染めの手ぬぐいが山になっていて、智世は思わず息をむ。

 医者が振り返り、場に似合わない静かな声音で言った。

「大丈夫。出血は多く見えますが傷は深くありません。傷口もれいですから、ほとんどあとも残らないでしょう」

「お買い物の最中、何者かに斬りつけられたのです」

 傍に立っていたお手伝いさんが、そうはくな顔でそう言った。

「お荷物はすべて私がお持ちしていましたので、奥様はとつに両手で身をかばわれて……」

 それは不幸中の幸いだった。もし両手がふさがっていたら、下手をすれば致命傷になっていたかもしれない。ぞっとして智世は思わず自分で自分の身体を抱きしめる。それでも今は自分がしっかりしなければと、気丈に彼女に問いかける。

「それで、お母様を斬りつけた犯人の顔を見た?」

「いいえ、動転してしまって何も覚えておらず……それに気付いたときにはもう誰もいなくて。申し訳ございません……」

 縮こまる彼女に、智世は首を横に振る。その場に居合わせて目撃してしまった彼女だってつらかったに違いないのだ。

「ああ……、寒い、寒いわ」

 母親が力なくうめいた。別のお手伝いさんが慌てて駆け込んできて毛布をかける。既に何枚も薄手の毛布がかかっているにもかかわらずだ。あまりに普段と違う母親の姿に、智世は立ち尽くした。

「──何か」

 私にできることは、と問う声が震えた。

 医者はかばんに道具をしまいながら、傍にいて差し上げてください、と気遣わしげな表情で答えた。


 父親はその日の夜遅くに、ひどく疲れた顔で帰宅した。普段は何事に対しても怠けることなく迅速にこなす父親が、今夜は帰るなり上着も脱がずに居間の長椅子に腰を下ろし、根が生えたように動かなくなった。

 通いのお手伝いさんは皆帰った後である。智世は父親に紅茶をれて、長椅子の傍の座卓に出すと、自分も隣に腰を下ろした。

「母さんの様子は?」

 そう問いかけてくる声も疲労でややしわがれている。智世は努めて明るく答える。

「さっきまた痛み止めを飲んで、ぐっすり眠ってるところ。夕方に比べて顔色もかなりよくなったわ。明日あしたの朝にでも様子を見てあげて」

 そうか、と幾分か気が軽くなったような声音で父親が答える。

 智世は自分の分の紅茶を一口飲んだ。濃いめに淹れたはずだがまるで味がしない。

「……それで、お母様を斬りつけた犯人って……」

「ああ。捕らえた。──母さんを傷つけた相手を、父さんが許すはずがないだろう」

 その言葉に智世はようやくあんで全身の力が抜けていくのを感じた。鼻の奥に急激に濃い紅茶の香りが戻り、そしてティーカップを持つ両手が今さらながらにかたかたと震えてきた。

「……そうよね」

 今日一日、医者の他にこの家を訪れたのは、父の直属の部下だという壮年の男性職員だけだった。お手伝いさんが、医者を呼んですぐに父にも連絡を入れたと言っていたから──あるいは通報を受けてか──恐らく父がしたのだろう。その彼も、母親の容態を確認するとすぐに立ち去った。世間をにぎわすつじ斬り事件の被害者がここにいるというのに、何の捜査も行なわれなかったのだ。一日中ずっと気が気でない思いで慌ただしくしていたから気付かなかったが──これは何だか妙ではないだろうか?

 父親は危険と隣り合わせの仕事に就いている。だが現場に出ることはない。だから辻斬りも刀も、斬られた人間がどうなるのかも、智世にとってはすべては想像の中での出来事だった。身近な誰かがそんな目に遭うのが、こんなにも恐ろしいことだったなんて。できれば知らないままでいたかった。

 不意に横から伸びてきた手が、智世の手を取った。かたかたと音を立てていたティーカップの震えが止まる。

「通報を受けてすぐに精鋭部隊に犯人を追ってもらった。彼らには感謝している。だが彼らは私に済まなそうに謝ってきた。事件が起きる前に防ぐことができていれば、と」

「そんな……どこで誰が辻斬りに遭うかなんて、そんなの誰にもわかるはずない。その方たちが謝る必要なんてないわ」

 すると智世の手を取ったまま、父親はようやく小さく微笑んだ。

「……そうだな。父さんもそう思う」

 それに、と父親は智世から手を離し、座卓から自分の分のティーカップを取った。

「できないことを悔やんでも仕方がない。悩む時間があるなら、その時間で一つでも自分にできることをしたほうがよほどいいよな」

 智世も微笑み、うなずく。

 父親のこういうところが、智世はとても好きだ。職業婦人にあこがれたのも、そもそもは父親のようになりたいと思ったからだった。母親のように女性としての幸せをおうする生き方も素敵だと思うが、それよりも智世は父親のように、自分の力で、誰かのために何かをしてみたかったのだ。

「……ねえ、お父様」

 非日常の一日を過ごした後、あかりをほとんど落とした居間で横並びに座り、温かい紅茶を飲んでいる今なら、きっと普段ならけないようなことも訊ける。

 そう思って、智世はお見合い相手のことを訊いてみようと口を開いた。

 しかし実際に口からこぼれ落ちたのは、まったく違う内容だった。

「私、実は……たまに妙なものを見るの」

 言ってから、智世ははっとして口を押さえた。が、もう遅い。

 父親は驚いたような顔で智世を見ている。目顔で促されたので、智世は先を続けるしかなくなった。

 それに──本当は、お見合い相手のことなどよりももっと、ずっと打ち明けたいことだった気がする。

「……子どもの頃からなの。気のせいだと思って、誰にも言ったことはなかったんだけど。普通に通りを歩いてる人の影が、その……何か、人でないものみたいに見えることが」

 言ってしまった、と智世は居たたまれない思いでぎゅっと目を閉じる。こんな話、誰が聞いたって馬鹿げていると思うだろう。こんな、母親が大変だった非常時に、仕事で疲れ切った父親相手にする話ではない。

 だが──父親は明らかに顔色を変えた。

「それは本当か、智世」

 恐る恐る目を開くと、父親がどこか緊張したような面持ちで智世を見ている。おずおずと頷くと、父親は智世から視線を外し、自分の目もとを手で覆ってうつむいた。そして深く息を吐く。

「……そうか」

「あの……お父様?」

 明らかに様子がおかしい。しかし問いただそうとするより先に、父親が俯いたまま、きっぱりと言った。

「智世。玄永くんは、いい人だ」

「……え?」

「彼に嫁いでくれるなら、父さんは安心できる」

 それっきり、父親は口をつぐんだ。

 なぜ父親が急にそんなことを言い出したのか。智世の打ち明け話を聞いてどう思ったのか。それも訊けないまま、夜が更けていった。


 翌朝、目覚めた母親の顔色はすっかり元通りになっていた。智世は結局眠ることができずに、母親の傍で一晩中様子を見続けた。父親も何度か様子を見に来た。疲れ切っているだろうに寝室に戻っている様子はなく、ずっと書斎にいたようだ。

「斬られたとき、生まれて初めて、自分は死ぬんだと思ったの」

 傷は浅く、それも腕だから致命傷には到底遠いのだが、噴き出す自分の血を見て正気を保つなど無理な話だろう。智世を産んだ当時、母親は産後のちが悪かったらしい。しかしそのときにも、自分が死ぬとは思っていなかったそうだ。物事をあまり深刻に受け止めすぎない性分は何よりも母親の長所だった。

 その母親が、智世の手を取って、ぼろぼろと涙を流した。

「私、大事な一人娘の花嫁姿も見ずに死ぬのは嫌だわ……」

 智世の手の甲に、母親の涙のしずくが落ちた。その熱さに胸が締め付けられる。

 ──あまりにも非日常的なことが自分の身に降りかかってきて、弱気になっているのだろうと思う。智世の知る母親はこんなことで泣くような人ではなかったはずだ。「あらやだ、斬られちゃった。痛いわねぇ」と笑いさえするかもしれないと、そんなふうにすら思っていた。それに母親は、智世が選ぶ道に対して自分の意見を押しつけてきたことは今まで一度もない。

 けれど。

(……もしお母様の傷が腕じゃなかったら。もし、もっと深く斬られてしまっていたら)

 自分は母親の、今まで秘めていたのであろうこの切なる願いを、永遠にかなえられなかったかもしれないのだ。

 それはせっかく就くことのできた憧れの職業を手放すことよりも、何倍も何十倍もつらい。

 ──玄永くんは、いい人だ。彼に嫁いでくれるなら、父さんは安心できる。

 智世は母親の手を強く握り返した。

「大丈夫よ、お母様。──私、玄永様のところへお嫁に行くわ。私の花嫁姿を見るために、早く元気になってちょうだいね」

 母親の涙にれたそうぼうが智世を見上げる。父親もはっとしたように智世のほうを振り向いた。

 智世は力強く頷き、微笑んでみせた。

 人が自分の人生の行く先を決意するのはこういう時なのだろう。だからきっと後悔はない。

 ──胸の奥に、かすかな喪失感があるような気がするけれども、きっとすぐに忘れられるだろう。

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