第一章 婚礼の日に ①

 帝都が誇るぎんの目抜き通りを、路面電車が走り抜けてゆく。

 人々は装いも華やかに、どこか誇らしげな面持ちで背筋を伸ばして往来をかつする。柳の並木に彩られた西洋の香り漂う街並みを歩いて、カフェーで珈琲コーヒー片手に学問や芸術、それにこの国の来し方行く末の話に花を咲かせるのだ。

 女学校を卒業してから、あこがれの職業婦人として気ままな生活をおうしている智世も、その中の一人である。

「それでね、お義母かあさんったら酷いのよ。あたしが作るおしる、しょっぱいだけで味がないって言うの」

 軍の将校だかに嫁いでもう四年になる友人が、なみなみと珈琲の入ったカップを手にしたまま口をとがらせた。さっきから愚痴を零すのに夢中で、珈琲は一滴も減っていない。

 同じテーブルを囲んでいる別の友人がそれに同調する。

「うちなんて、だんがお義母様の肩を持つんだから。お義父とう様はお義母様のしりに敷かれてて役に立ちやしないし」

「あなたは自分でお料理する必要ないじゃないの。なんたって華族様なんだから。お手伝いさんが何でもやってくれるんでしょ」

 将校夫人がじっとりとにらむと、華族夫人は、とんでもない、と目を見開いた。

「自分でお料理したほうがいくらかマシよ。うちは母が関西の人だから、私だってたまには西の味付けのものが食べたいのに、出てくるお料理ときたらみーんな関東の味付けなんだもの」

「家事をしてくれる人がいるっていうのも、それはそれで大変なのねぇ」

 テーブルの四方のうち、残りの一方に座っている友人があいづちを打った。聞き上手の彼女は、自分の分の焼き菓子をすっかり食べ終わっている。

「あなたはいいわよね。あたしたちの中で唯一恋愛結婚だもの」

 将校夫人がそう言いながら、ため息交じりにようやく珈琲を一口飲む。

 恋愛結婚夫人は、他の二人よりもやや地味な自分の着物に目を落とした。

「……そうね。あなたたちに比べて裕福ではないけれど、毎日幸せだったわ」

「……だった?」

 不穏な言葉を聞きとがめて、智世と友人二人が声を揃える。

 すると恋愛結婚夫人は突然テーブルに突っ伏して、わっと泣き出した。

「あの人、職場に出入りしてる年上の色っぽい女とい引きしてたのよ! 許せない!」

 わんわんと泣く彼女の声は、幸いにも店内のけんそうき消されている。誰もが自分たちの談合に夢中で、こちらのことを気にしている者は一人もいないのだ。不幸な彼女を既婚の友人たちが二人がかりでなだめすかしている様子を見ながら、智世はミルクをたっぷり入れた珈琲を一口飲み、そして深く嘆息した。

 夫人たちが揃ってこちらを見る。

「智世さん、あなた今日は静かね」

「……結婚って大変なのね、って思いながら聞いてたの」

 智世がそう答えると、三人の友人たちはめいめいの表情で、それでも一様に納得した顔をした。誰もが同じことを思っているのだ。部外者の智世だけでなく、当事者の彼女たちでさえ。

 女学校の同級生たちの中には、在学中に嫁ぎ先が決まる者も少なくなかった。卒業してからは、いちな恋愛をついに成就させた同級生たちからの吉報も相次いだ。智世だって人並みに恋愛話に加わったことはある。すべて友人たちの話に相槌を打ったり、役に立つのやら疑わしいようなもつともらしい助言をしただけだけれど。

 恋する彼女たちはれいだったし、その笑顔は華やいでいた。ただ、それらはすべて、智世にとっては他人ひとごとだった。

 そして二十歳を迎えた今となっては、彼女たちの口に上るのは旦那の愚痴にしゆうとめの愚痴、子育ての愚痴、愚痴、愚痴ばかりだ。

 もともとなかった結婚願望が、さらに煙のように消えていく。

 智世さんは、と華族夫人が上品な仕草で首を傾げた。

「とっても綺麗なのに、昔から結婚のけの字もないわね」

「そうよ、もったいない。引く手あまたなんじゃないの? 美人で、しかもお父様は内務省の官僚でいらっしゃって」

 口々に言う友人たちに、智世はあいまいな笑みを浮かべた。

「ありがとう。引く手あまたなら嬉しいんだけどね。でも、きっと私には向いてないわ。それにせっかく憧れの電話交換手になれたんだもの。結婚を機に辞めるなんてもったいないし」

 智世にも人並みにお見合いの話が持ち上がったことは何度かあった。しかし智世自身が乗り気ではなく、両親もさほど熱心に勧めてきたわけではなかった。智世が働くのを楽しんでいることを知っているし、母親などは「本当にご縁がある相手なら、急がなくてもいつか巡り会うはず」と夢見がちなことを言って笑っている。智世は一人っ子だから、両親に孫の顔を見せてやりたい気持ちもないではないが、今は甘えさせてもらえる環境が正直ありがたかった。

「恋をするより働くのが好きだなんて、変わってるわ」

「最先端の現代女性って感じね」

 友人たちの、褒めるようなけなすような言葉に、智世は小さく肩をすくめた。

 ──まだ仕事を上回るだけの恋に出会っていないだけかも、と思わないわけではない。

 けれどもう、長いこと好きな人もいないし、誰かに心をときめかせたりもしていない。

 昔、子どもの頃、憧れていた人はいた。いたけれど、もう顔も覚えていないような遠い記憶だ。


 カフェーを出て友人たちと別れ、智世は帰路についた。街が徐々に夕焼けに染まっていくこの時間が、智世はあまり好きではない。同じく家路につく人々や、あるいは早めの夕食を外で取ろうと繰り出す人々の間を、足早に通り抜けていく。

 夕暮れは、智世をとても不安な気持ちにさせる。

 昼間はいいのだ。と行き遭っても、明るい太陽の光さえあれば、まだしも立ち向かえそうな勇気がもらえる。夜はもっといい。が現れないから。

 黄昏たそがれ時は──だめだ。

 智世はわずかに息が上がるほど歩を速める。寄り道をせず、脇目も振らず、まっすぐに自宅へ向かう。

 不意に、視界の端に何か黒いものがちらついた。

 道の端を中年の女性が歩いている。特に目立ちもしない、ごく普通の女性だ。

 その女性の足もとの影が──何か、奇妙な形に見えた気がした。

 思わず立ち止まり、女性の影を見る。何も問題はない。他の人々の足もとにあるのと同じ、ごく当たり前の影だ。

 智世はほっと息をついた。そして再び足早に歩き出す。

 こんなふうに──見間違いや思い違いをしてしまうことが、小さな頃からたまにある。

 子どもの頃はそれが今よりももっと怖かった。友達と遊んで、夕方一人でこうして帰り道を歩いていたら、視界の端で、そこにいる人の影がなんだか奇妙な形に見えるのだ。けれど次に見たらもう普通の影に戻っていて、そのたびに、なんだ見間違いか、とあんする。

 安堵する──ように努めている。

 それはしょっちゅうあるわけではないが、忘れた頃にまた見間違えてしまうので、いつからか夕暮れ時そのものが何だか苦手になった。黄昏時は──かれ時は、よくないものを見てしまうかもしれないと、次第にそんなふうに思うようになった。

 見間違いをした日の夜は、空に浮かぶ星を見ると心が慰められた。

 あの黒曜石のようなきらめきを見ている間なら、智世を不安にさせるものは現れない。星々が出ている夜のうちは、誰かの足もとにくっきりと影が落ちることはないからだ。

 自宅に到着すると、智世はすぐに門を閉めた。そうしてようやく深く息を吐く。

 別に誰かが智世を追いかけてきているわけでもない。何がこんなに不安なのか、智世自身にもわからない。

(……もし、私が結婚していたら)

 こんな不安な気持ちのときには、旦那様が手を握ってくれたりするのかしら。

 そんな自分の考えに思わず笑い、智世はかぶりを振って玄関の扉を開いた。

 もしそんなことが現実にあるのなら、それだけで結婚する意味も、価値もあるような気がするのだけれど。

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