第一章 婚礼の日に ①
帝都が誇る
人々は装いも華やかに、どこか誇らしげな面持ちで背筋を伸ばして往来を
女学校を卒業してから、
「それでね、お
軍の将校だかに嫁いでもう四年になる友人が、なみなみと珈琲の入ったカップを手にしたまま口を
同じテーブルを囲んでいる別の友人がそれに同調する。
「うちなんて、
「あなたは自分でお料理する必要ないじゃないの。なんたって華族様なんだから。お手伝いさんが何でもやってくれるんでしょ」
将校夫人がじっとりと
「自分でお料理したほうがいくらかマシよ。うちは母が関西の人だから、私だってたまには西の味付けのものが食べたいのに、出てくるお料理ときたらみーんな関東の味付けなんだもの」
「家事をしてくれる人がいるっていうのも、それはそれで大変なのねぇ」
テーブルの四方のうち、残りの一方に座っている友人が
「あなたはいいわよね。あたしたちの中で唯一恋愛結婚だもの」
将校夫人がそう言いながら、ため息交じりにようやく珈琲を一口飲む。
恋愛結婚夫人は、他の二人よりもやや地味な自分の着物に目を落とした。
「……そうね。あなたたちに比べて裕福ではないけれど、毎日幸せだったわ」
「……だった?」
不穏な言葉を聞き
すると恋愛結婚夫人は突然テーブルに突っ伏して、わっと泣き出した。
「あの人、職場に出入りしてる年上の色っぽい女と
わんわんと泣く彼女の声は、幸いにも店内の
夫人たちが揃ってこちらを見る。
「智世さん、あなた今日は静かね」
「……結婚って大変なのね、って思いながら聞いてたの」
智世がそう答えると、三人の友人たちはめいめいの表情で、それでも一様に納得した顔をした。誰もが同じことを思っているのだ。部外者の智世だけでなく、当事者の彼女たちでさえ。
女学校の同級生たちの中には、在学中に嫁ぎ先が決まる者も少なくなかった。卒業してからは、
恋する彼女たちは
そして二十歳を迎えた今となっては、彼女たちの口に上るのは旦那の愚痴に
もともとなかった結婚願望が、さらに煙のように消えていく。
智世さんは、と華族夫人が上品な仕草で首を傾げた。
「とっても綺麗なのに、昔から結婚のけの字もないわね」
「そうよ、もったいない。引く手あまたなんじゃないの? 美人で、しかもお父様は内務省の官僚でいらっしゃって」
口々に言う友人たちに、智世は
「ありがとう。引く手あまたなら嬉しいんだけどね。でも、きっと私には向いてないわ。それにせっかく憧れの電話交換手になれたんだもの。結婚を機に辞めるなんてもったいないし」
智世にも人並みにお見合いの話が持ち上がったことは何度かあった。しかし智世自身が乗り気ではなく、両親もさほど熱心に勧めてきたわけではなかった。智世が働くのを楽しんでいることを知っているし、母親などは「本当にご縁がある相手なら、急がなくてもいつか巡り会うはず」と夢見がちなことを言って笑っている。智世は一人っ子だから、両親に孫の顔を見せてやりたい気持ちもないではないが、今は甘えさせてもらえる環境が正直ありがたかった。
「恋をするより働くのが好きだなんて、変わってるわ」
「最先端の現代女性って感じね」
友人たちの、褒めるような
──まだ仕事を上回るだけの恋に出会っていないだけかも、と思わないわけではない。
けれどもう、長いこと好きな人もいないし、誰かに心をときめかせたりもしていない。
昔、子どもの頃、憧れていた人はいた。いたけれど、もう顔も覚えていないような遠い記憶だ。
カフェーを出て友人たちと別れ、智世は帰路についた。街が徐々に夕焼けに染まっていくこの時間が、智世はあまり好きではない。同じく家路につく人々や、あるいは早めの夕食を外で取ろうと繰り出す人々の間を、足早に通り抜けていく。
夕暮れは、智世をとても不安な気持ちにさせる。
昼間はいいのだ。恐ろしいものと行き遭っても、明るい太陽の光さえあれば、まだしも立ち向かえそうな勇気がもらえる。夜はもっといい。恐ろしいものが現れないから。
智世はわずかに息が上がるほど歩を速める。寄り道をせず、脇目も振らず、まっすぐに自宅へ向かう。
不意に、視界の端に何か黒いものがちらついた。
道の端を中年の女性が歩いている。特に目立ちもしない、ごく普通の女性だ。
その女性の足もとの影が──何か、奇妙な形に見えた気がした。
思わず立ち止まり、女性の影を見る。何も問題はない。他の人々の足もとにあるのと同じ、ごく当たり前の影だ。
智世はほっと息をついた。そして再び足早に歩き出す。
こんなふうに──見間違いや思い違いをしてしまうことが、小さな頃からたまにある。
子どもの頃はそれが今よりももっと怖かった。友達と遊んで、夕方一人でこうして帰り道を歩いていたら、視界の端で、そこにいる人の影がなんだか奇妙な形に見えるのだ。けれど次に見たらもう普通の影に戻っていて、そのたびに、なんだ見間違いか、と
安堵する──ように努めている。
それはしょっちゅうあるわけではないが、忘れた頃にまた見間違えてしまうので、いつからか夕暮れ時そのものが何だか苦手になった。黄昏時は──
見間違いをした日の夜は、空に浮かぶ星を見ると心が慰められた。
あの黒曜石のような
自宅に到着すると、智世はすぐに門を閉めた。そうしてようやく深く息を吐く。
別に誰かが智世を追いかけてきているわけでもない。何がこんなに不安なのか、智世自身にもわからない。
(……もし、私が結婚していたら)
こんな不安な気持ちのときには、旦那様が手を握ってくれたりするのかしら。
そんな自分の考えに思わず笑い、智世は
もしそんなことが現実にあるのなら、それだけで結婚する意味も、価値もあるような気がするのだけれど。
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