贄の花嫁 優しい契約結婚

沙川りさ/角川文庫 キャラクター文芸

プロローグ

 結婚に夢を見たことはないけれど──と、ともは思う。


 鏡に映る花嫁しようを身にまとった自分の姿を、改めてまじまじと見た。まるで現実味などない。慣れない角隠しの感覚だけが、辛うじてこれが今自分の身に起こっている紛れもない現実なのだと、智世にそう言い聞かせているようだった。

(人生って何があるかわからないわ……)

 華やかな模様が入った黒の引きふりそでは、先頃二十歳を迎えた智世によく似合っている。まさか自分が袖を通す日が来るとは思っていなかったから、まだ何だかくすぐったいような気恥ずかしいような心地がする。

 けれど胸の中には、美しい衣裳に身を包んで舞い上がる気持ちと同じぐらい──ふつふつとこみ上げる怒りのようなものがあった。

 いや、怒りというほどには強くない。怒りを覚えるほど、智世はその相手のことを知らないからだ。それはむしろ憤りに近い。なぜ、と問い詰めたいような、いらちに近いような。

 ──結婚に夢を見たことはないけれど。

(まさか婚礼の日に花婿と初対面だなんてね)

 鏡の中の花嫁がちよう気味に笑った。

 半年ほど前だ。予定通りであれば両家揃っての結納がちやみずの料亭で行なわれるはずだった。それをなんと花婿がすっぽかしたのだ。それも「どうしても外せない仕事ができた」とか何とか、そんな理由でだ。

 そもそも父親の強い勧めで受けたお見合い話だった。なぜか相手のお見合い写真もないまま、顔を合わせる機会すらないままに話が進んだから、結納の日に初めて夫となる相手の顔を知るはずだった。その機会さえも、当の花婿の都合でなくなってしまったのだ。その後先方から丁重な謝罪はあったものの、さらにあれよあれよという間に月日が過ぎた。だから今日に至るまで、智世はこれから先、生涯添い遂げる相手の顔を知らない。

 いくら何でも、そんなことってあるだろうか?

 同級生の中には一回り以上も──自分の父親にも近いような年齢の相手と結婚した者もいる。全然好みの見た目ではないと愚痴をこぼす者も。夫が美男子である必要はないけれど、智世とて乙女、不安はどうしてもつきまとう。子煩悩な父親があれほど強く勧めてきた相手なのだから、あまりにもひどいということはないだろうとは思うものの、会ってみないことには判断できない。

 それでも──女としてこの世に生まれたからには、人生に一度の晴れ舞台、自分の中で最も美しい姿で臨みたいと思うのは、至極当然のことだろう。

 智世はやや緊張した面持ちで、崩れてもいない髪を手で整え、化粧の具合を鏡で入念に確認した。

 そこからどんな段取りで控え室を出て、婚礼の席に向かったのか、はっきりと覚えてはいない。自覚はなかったがとても緊張していたのだと思う。誰かが呼びに来てくれて、その人について料亭の長い廊下を歩いたはずだ。そして示された場所に座り、花婿の到着を待ったように思う。終始夢の中にいるような、ふわふわとした心地だった。

 次にはっきりと意識が戻ったのは──自分に向けられた、あまりにもきらきらと美しく輝く黒曜石のようなひとみと、視線が合った瞬間だった。


 ──なんて美しいの。

 智世の目は、その瞳にくぎけになった。

 こんなに美しく光る瞳を他に知らない。

 夜空に敷き詰められた星々をぎゅっとひとまとめにしたら、きっとこんなふうなのに違いない。


 一瞬、その輝きに見とれてぼうっとしていた。

 そんな智世の意識を引き戻したのは、その黒曜石の瞳の持ち主が扉を開けて入ってくるなり発した一言だった。

「まさか、本当に来てくれるなんて」

 その声はどう聞いても──初対面の智世が聞いてもはっきりとわかるほど、喜びに弾んでいた。

 あれ、と智世は首を傾げた。

 改めて相手の顔を見る。智世より三つか四つ年上に見える彼は、どこか感情を抑えようとしつつも、隠しきれないほどの喜びに満ちあふれているように見えた。感情を抑えているというのならさっきの一言だってそうだ。あまり抑揚のない声音だった。努めてそうしたのだと思う。だって、声からも、彼が抱いているであろう歓喜が隠せていなかったのだから。

 智世は困惑した。そんなに喜んでもらう理由がない。何しろ自分と彼は、今この瞬間が初対面なのだ。

 彼はおずおずと──どう主観を差し引いたとしても、明らかに駆け寄ってきたいのを抑えているふうな挙動で、智世に歩み寄ってきた。

 手を差し出されたので、躊躇ためらいつつもその手を取り、促されるままに立ち上がる。

 見上げた彼の顔は恐ろしいほど整っていた。もし何の表情も浮かべていなかったら、人形か何かだと思ったかもしれない。けれど、漆黒の髪に彩られたその顔はやはり歓喜に満ちている。

 美しい黒曜石の瞳が収まるのなら、この美しい顔以外にはない、そう思った。

 彼は智世の手を握ったまま、やはり努めて抑えたような声で言った。

「俺はしようだ。はるなが宵江」

 宵江と名乗った、黒い軍服姿の彼は、手を何度か──智世を抱きしめようかやめようか迷うような動きをした後、やはり控えめに智世の手を握り直して、続けた。

 表情を抑えているのかと思ったが、ただ単に笑顔を浮かべるのが下手なのだろうか。それでも喜びを溢れさせたままで。

「あなたが来てくれるか、今日までずっと不安だった。──嫁に来てくれて本当にうれしい」


 不器用な夫の、不器用だけれどもまっすぐな言葉に、智世は急激に心拍数が上がり、頰が熱くなるのを感じた。

 この、何だかかわいらしく思えるような美しい人の妻に、自分は今日からなるのだと──手をしっかりと握られたまま、ようやく智世は自覚した。

 そしてそれは智世の人生において初めてとも言える、恋の始まりだったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る