第1章 いないはずの隣人 ⑤

 奈々子を駅まで送った後、山口に薦められたスーパーに行ってみると、確かにお買い得なスーパーだった。

 弁当とそうざいとお茶のペットボトルを買い、ついでにおやつを買おうとする高槻を遊びじゃないんだからといさめて、奈々子のアパートに戻った。

 食事を終えてしまうと、することは特になくなってしまった。

 何か起こるまで好きに過ごしていいよと言われて、尚哉は鞄に入れていた文庫本を取り出した。高槻は自分の鞄からノートパソコンを取り出し、ちやだい代わりのローテーブルに置いてキーボードをたたいている。男二人でお泊まり会、などと高槻は楽しげに言っていたが、実態は思いのほか静かなものだった。

 そのうち本を読むのにも飽きてきて、尚哉は顔を上げた。

 高槻はまだノートパソコンに向かっている。

「どうしたの? 飽きちゃった?」

 尚哉の視線に気づいたのか、高槻がキーを打つ手を止めて、顔をこちらに向けた。

 尚哉は文庫本を置き、座り直した。

「そうですね、少し」

「まあ、こういうのって、野生動物の観察と同じで、何か起こるまで待つのが基本だから。いつ起こるかもわからないし、意外と根気がいるんだよね」

 高槻が軽く肩をすくめて言う。

「あ、そういえば、深町くん。くの忘れてたんだけど」

「何ですか?」

「深町くんって、一人暮らしだっけ?」

「……はい」

 尚哉はうなずいた。

 高槻は「そっか、よかった」とつぶやく。

「何がよかったんですか?」

「ああ、もしも実家で暮らしてて、家に帰ったらお母さんの作った美味おいしいごはんとかが待ってるんだったら、申し訳ないなあと思って。その場合、僕は深町くんのご実家に電話をかけて『すみません、息子さんにお世話になっている高槻と申しますが』ってあいさつしないといけないしね」

「……いや、いいでしょ別に。挨拶とか」

「よくないよ、そういうのはきちんとしないと!──深町くん、実家はどこなの?」

 続けて問われて、尚哉は一瞬口をつぐんだ。

 出身地に関する質問なんて、ごくありふれたものだ。高槻だって、別に深い意味もなく訊いたのだろう。

 ずっと黙っているわけにもいかないので、尚哉は正直に答えた。

「横浜……です」

「横浜? あれ、でも、深町くん、一人暮らししてるよね?」

 高槻が当然の疑問を持つ。何しろ大学のキャンパスは千代田区にあるのだ。横浜からなら十分通える。

「早く実家を出たかったんです。一人暮らし、してみたくて。親と相談して、なんとか許してもらえたんで、それで」

「ふうん。そう」

 高槻がうなずいた。

 変だと思われたかな、と尚哉はそっと高槻の様子をうかがった。家庭に問題があるんじゃないかとか、余計な勘繰りをされた末に勝手な同情の目を向けられるのはごめんだ。

 が、高槻はふわりと笑って、

「そっか。じゃあ、僕と同じだねえ」

 そう言った。

「え……同じ、って」

「僕も大学入学を機に一人暮らしを始めたから。実家は都内で、大学も都内だったんだけど、深町くんと同じで早く一人暮らしをしたかったんだよ」

「そう、なんですか」

「うん。そう」

 高槻はそれ以上は何も言わなかった。資料でも作っているのか、またキーボードを叩き始める。だから、尚哉もそれ以上は尋ねなかった。

 だけど──少しばかり、意外な気はした。

 普段の高槻の、いつもにこにこしていて誰にでも優しい様を見ていると、何一つ不自由のない幸せな家庭で、皆から愛されて育ったような人に思えるのだ。早く実家を出たかったというのは、なんとなく、そんな高槻の印象とそぐわない気がする。まあ、ただ単に一人暮らしにあこがれていたから、という程度の理由だったのかもしれないが。

 でも、高槻が言わないなら、こちらからは尋ねるべきではないと思う。

 相手の事情に深く踏み込むのは禁止行為だ。こちらが相手の事情に踏み込めば、相手もこちらの事情に踏み込んでくるかもしれない。相手と自分の間に引いた線は守らなくてはならない。

 話題を変えよう。そう思った。

「先生」

「うん、何かな? 深町くん」

「……先生は、今回のこと、本当に幽霊の仕業だと思ってますか?」

「さあ──それはどうだろうね」

 キーボードを叩きつつ、返ってきたのは予想と違う回答だった。山口の前では、あんなに霊の仕業を期待するようなことを言っていたのに。

 長い指をキーボードの上で軽やかに躍らせながら、高槻が言葉を続けた。

「あのね、深町くん。怪異っていうのは、『現象』と『解釈』の二つによって成り立っているんだよ」

「『現象』と『解釈』?」

「そう。たとえば、深町くんは、雷が何だか知ってる?」

 いきなり話が飛んだ。

「何って言われても……雷は雷ですよね。ばりばりって音がして、稲光が走る……自然現象、ですよね」

「そう。実は雷が発生する原理についてはまだまだ研究中らしくてね、諸説あるんだ。現代でもそんな感じなんだから、昔の人にとってはもう全くわけのわからない恐ろしい現象だった。ただの自然現象だなんて、とても思えなかったんだよ。だから昔の人達は、『雷様』ってものを考えついた。雷という『現象』について、輪太鼓を背に負った鬼が天にいて、太鼓の音をとどろかせて地上に雷を落としている怪異なんだと『解釈』したんだよ。平安時代に内裏に雷が落ちたときには、その前に流刑されたすがわらのみちざねが雷神と化してたたったのだと考えたりもした。もしそんな解釈がなければ、それは祟りじゃなく、単に『雷が落ちた』っていうだけのことなのにね。──つまり、怪異を怪異たらしめ、お化けを生み出すのは、大抵は人の心なんだよ」

「何でわざわざそんな怖い解釈をするんですか? 現象のまま放っておけばいいのに、あえてそこで神様やらお化けやらを生まなくてもいいじゃないですか」

「現象のまま放っておいた方が怖いからだよ。説明のつかない事態を、人は恐れる」

 高槻が言う。

「宗教なんかが、良い例なんじゃないかな。なぜ人は死ぬのか。死んだらどこへ行くのか。生まれる前はどうなのか。そういうよくわからないことについて説明してあげて安心させるのが、宗教の役割の一つだ。他の現象にしてもそう。雷を見てわけもわからず怖い思いをするより、『あれは天にんでる鬼がやってるんだ』と解釈してしまった方が、気持ちが落ち着く。ようかいの仕業なら、回避する方法があるかもしれないからね。怖いものを怖いままで置いておきたくないから、人はそこに物語を作って与える。解釈をすることで世界を定義し、自分の理解できる範囲に置こうとするんだ。多少非現実的でも、全くわからないよりはましだから」

「そんなもんですか?……それともそれは、高槻先生の『解釈』ですか?」

「うん、まあ、そうかもしれない。学者っていうのは解釈するのが仕事だからね」

 くすりと小さく笑って、高槻が言う。

「でも、説明できないことが怖いっていうのは、割と一般的な意見だと思うよ。──深町くんは、『リング』ってホラー映画観たことある?」

 今度は映画の話になった。

 高槻の話はぽんぽんとあちこちに飛ぶ。講義のときもそうだ、鎌倉時代の仏教説話から現代の週刊誌のネタまで、自由奔放に飛んでいく。たぶん高槻の頭の中にしまわれた膨大な知識は、彼の中でどれも等しく扱われているのだろう。そして、高槻の中で、それらにはきちんとつながりがいだされているのだ。

「……ええと、井戸からさだが出てくるやつですよね。一作目なら観ました」

「そう。あれって、ハリウッドでリメイクされてるんだけど、そっちは観た?」

「あー、日本版しか観てないです」

「そう。機会があったら、両方観て比べてみるといい。日本とアメリカの、恐怖に対する姿勢の違いがよくわかる。比較文化の上で、とても興味深いよ。──日本版とハリウッド版、両方観た人に、『どっちの方が怖かったですか?』って尋ねるとね。大抵の人が、日本版の方が怖いって答えるんだよ」

「それは、脚本や撮り方の問題ですか?」

「確かに、撮り方の問題もあるとは思う。光や色が全然違うからね。日本版の、あのぬらりとした青白い色味は、ハリウッド版にはない。ただ、映像技術はハリウッド版の方が高いから、的にはとても怖いんだよ。──でも、やっぱり日本版の方が『リング』は怖いんだ。その理由は、ストーリーにあるんだと僕は思う」

 まるで講義のときのような口調で、高槻はそう言った。子供じみた言動がなりを潜めると、やはりこの人はどこまでも『先生』だし『研究者』だった。

 よくわからない人だな、と尚哉は思う。子供のようにはしゃいでいる常識知らずの姿と、今のこの落ち着いた研究者の顔と。どちらが本当の高槻なのだろうか。

 柔らかく聞き心地の良い声が、解説を続ける。

「ハリウッド版の『ザ・リング』はね、とても丁寧なんだ。日本版の貞子にあたるサマラというキャラクターの背景を、きちんと描いてる。その分、ドラマとしてはよく出来てると思うよ。サマラに対して、同情すらしたくなる。だけど、日本版の『リング』では、貞子が何者なのかについては漠然としかわからない。わからないからこそ、そこにはより恐怖が生まれる。……まあ、サマラの方がテレビから出てきた後の動きがシャキシャキしてて怖くないとか、観る人によって怖くない理由は他にもたくさんあるとは思うけどね」

 シャキシャキ、と言いながら、高槻が両手をそれっぽく動かしてみせる。尚哉は思わず笑ってしまった。

 それから高槻はあらためて尚哉を見て、言った。

「わからないものは怖い。だから、人はそこに理由づけをする。解釈を行う。──大事なのはね、深町くん。現象に対して、どんな解釈をするかということだよ。解釈をするときは、気をつけないといけない。なぜって、下手な解釈は、現象そのものをゆがめることがあるから」

「歪める……?」

「たとえば、『帰り道で、暗闇に髪が長くて白い服の女の人が立っていた』という現象があったとするよね。ある人はこれを『幽霊が立っていた』と解釈したとする。でも本当は、そこには単に長髪で白い服の生きた人間が立っていたんだ。この場合、解釈によって現象は歪められる。生きた人間は死者にすり替えられて、物語に変わる」

 解釈した本人にとって、それは噓ではないのだろう。そこにいたのが人間だったと知るまでは、彼にとっては『そこに幽霊がいた』がそのとき起こった事実となる。

 だが、それは、現実とは異なる。

 解釈することで、現実が──真実が、歪められることもあるのだ。

「そして、もう一つ気をつけなければならないことがある」

 高槻の手が、ぱたりとノートパソコンを閉じた。

 すっと視線を上げ、高槻は壁を見据える。

 隣の部屋との境の壁。

「世の中には、わざと間違った解釈へ誘導するために、現象を偽装する人がいる。それはもはや犯罪だ、誰かをだますための噓だよ」

 噓、という言葉に、尚哉はつい反応しそうになる。

 それをごまかすために、尚哉は高槻の視線を追うようにして、壁に目をやった。ノックの音が聞こえてくるという壁は、沈黙したままだ。何の気配も感じられない。

 だが高槻は、まるで向こうが透けて見えているかのように視線を壁からはずさない。

「今回のケースに話を戻すとね。起こっている現象は、『夜中に誰もいないはずの部屋から物音がする』、『二階のベランダに外から手形がついた』、『自分のものではない髪の毛が部屋の中に落ちていた』だ。これを、桂木さんは『霊現象だ』と解釈した。確かに、現象としてはいかにもそれっぽい。でも──これらの現象が可能なのは、何も霊だけじゃないよね」

 高槻の声を聞きながら、ああもしかして、と尚哉は思った。

 もしかして高槻は、とっくにわかっているのではないだろうか。

 この部屋で起こっている出来事の、解釈ではなく、真実について。

「先生。あの……」

 尚哉が言いかけたそのときだった。

 ばんっと、何かをたたきつけるような激しい音がベランダの方でした。

 びくりとして、そちらを振り返る。カーテンを閉めているのでベランダは見えない。

 尚哉と高槻はほぼ同時に立ち上がり、カーテンに歩み寄った。

 高槻が勢いよくカーテンを引き開ける。

「っ!」

 尚哉は一瞬息をんだ。

 べっとりと、ガラス戸に手形がついていた。ぬらぬらとした、まるで血のような真っ赤な液体で。

 ベランダに人の姿はない。昼間と何一つ変わらない、がらんとしたベランダ。

 だが、尚哉は真っ赤な手形からしずくが滴るのも気にせずに、ガラス戸を引き開けた。ベランダに出る。

 そのまま、迷わず隣の部屋のベランダとの仕切り壁に手をかけた。

 やはりだ。固定されているはずの仕切り壁が、簡単にはずれた。

 と同時に、隣の部屋のベランダで人の気配がする。慌てたように部屋の中に飛び込んだかのような足音、ガラス戸を閉める音。

 そう、これは幽霊の仕業などではない。

 人間の仕業なのだ。

「待て!」

 尚哉は隣のベランダに侵入し、逃げていく犯人を追いかけた。隣の部屋は照明もいておらず、真っ暗だったが、犯人が玄関の扉を開けようとするのがかろうじて見えた。まずい。このままだと取り逃がすかもしれない。

 犯人が扉を開け、外に飛び出していく。

 直後、怒号が響いた。「どけ!」というその声は、犯人自身のものだろう。

 尚哉ははっとした。まさかと思う。まさか高槻が、奈々子の部屋の玄関から外に出て、犯人を待ち構えていたのだろうか。いや、それはいくらなんでも無茶だ。あんないかにも育ちの良さそうなお坊ちゃん然とした人に、止められるわけがない。

 慌てて尚哉が玄関から外に飛び出したときだった。

 ずだん、という激しい物音が、廊下の床を揺らした。

 ああやっぱり、と頭を抱えたい気分で、尚哉は床にのびた男の顔を見やる。

 そして──目を見開いた。

 床にのびていたのは、高槻ではなかった。

 がっしりした体つき。一見人のさそうな顔。

 不動産屋の山口だった。

 高槻はその向こうで、にこにこしながらジャケットの襟を直している。

「せ、先生……? い、今、一体何を……?」

「何って、背負い投げ?」

「背負い投げって」

けんちゃん仕込みの護身術だよ。僕、こう見えて割と強いんだからね!」

 えへん、と高槻が胸を張る。

 健ちゃんって誰だ、ときたかったが、下の住人らしき人が階段を上がって様子を見に来たので、そこまでとなった。

 下の住人に事情を話して警察を呼んでもらい、その間に、倒れている山口の様子を確認する。山口は気絶しているわけではないようだったが、背中を打ったらしく、まだしばらくはろくに動けなさそうだ。

「何で不動産屋が、自分の会社で賃貸してる人を怖がらせたりするかなあ……」

 あきれた気分で、尚哉は山口を見下ろした。山口は痛そうに顔をしかめたまま、目をそらす。まあ、詳しいことは警察が調べてくれるのだろうが。

 尚哉と同じように山口を見下ろしながら、高槻が言った。

「大方、桂木さんに気があったんじゃないかな?」

「え?」

 尚哉はげんな気分で高槻を見る。好きな相手をわざと怖がらせる理由がわからない。小学生が好きな子をわざといじめるのとは訳が違うだろう。

「だからさ、この人、この近所に住んでるわけでしょう。桂木さんが一度、夜中にコンビニに逃げ出したときに、山口さんに会って保護してもらったっていうようなことを言ってたよね? そのときに、偶然にしては出来すぎだなあって思ったんだ」

「ああ……それじゃ、先生はそのときに、全部この人の仕業なんじゃないかって気づいたんですか?」

 昼間の高槻の言動を思い返すと、わざと幽霊幽霊と騒ぎ立てていたように思えるのだ。まあ、普段から怪奇現象に対してはしゃぐ人なので、わざとか本当かの見分けは難しいのだが──今思えば、あれは山口に対するパフォーマンスだったのだろう。

「あのときってわけじゃないよ、もっと前から。正確には、壁につめあとがついてますよって僕が言ったときに、この人が動揺したときだね」

 高槻の言葉に、山口があからさまにぎくりとした顔をした。

 高槻は少し人の悪い笑みを浮かべて、山口を見下ろした。

「壁に傷をつけてるつもりはなかったんでしょう? 不動産屋さんだもんね、商品に傷はつけたくなかったよね。だから気をつけてたんだろうけど……あれ、たぶん、壁の上に何か紙を置いて、その上からがりがり引っいてたんじゃないかな? だから、桂木さんが聞いていた音が結構大きかったにもかかわらず、壁紙が傷んでなかったんだ。だけど、少し力を入れすぎたみたいだね。紙越しに、薄く痕が残ってしまった。──普段施錠されている部屋に入って壁を叩いたり引っ搔いたりできる人ってなると、大家か不動産屋しかいないからね。たぶん山口さんがやってるんだろうなって、そう思った。さっき不動産屋の店舗に行ったとき、髪の長い女性がいたしね。床に落ちてた彼女の髪を拾って、桂木さんの部屋に置いておいたんだと思うよ。桂木さんの部屋のかぎも山口さんなら手に入れられただろうし、ベランダからも行き来できたわけだしね」

 そういえば奈々子の部屋のベランダの前には、隣の家の桜の木がのびてきていた。暗くなってからなら、あれが目隠しになって、それほどとがめられることもなくベランダの行き来もできたのだろう。

「先生、そういえば、さっきの赤い手形は? あれはどうやったんでしょうか」

 山口の手は、左右共に汚れていなかった。あんな真っ赤な手形を残そうと思ったら、両手にインクでもつけないと駄目だと思ったのだが。

「あれはたぶん、あらかじめべっとりインクで手形をつけておいた紙を、ガラス戸に勢いよく叩きつけただけだろうね。僕ならそうする。手袋だと外すのに時間がかかっちゃうし、外すときに下手したら手や服にインクがつくからね。下の道路をよく探せば、証拠の紙が見つかるはずだよ。風で飛んでっちゃったかもしれないけど」

 山口はますます図星という顔で、目をそらしている。高槻の言葉は正しいらしい。

「本当は、手形をつけた後、そのまましばらく隣の部屋に隠れてるつもりだったんだろうね。なのに、深町くんがおびえもせずに隣のベランダに突撃していったから、動揺して逃げたんだ。──ねえ、深町くんはどうしてあれが幽霊の仕業じゃないと思ったの?」

「それは……その、なんとなく」

「なんとなく? でも君、最初から山口さんのこと疑ってたでしょう?」

 今度は尚哉がぎくりとして、高槻を見る。

 高槻は少し身をかがめるようにして尚哉の顔を近くからのぞき込み、言った。

「隣の部屋を山口さんに見せてもらった辺りからかな。深町くんが山口さんを見る目が、なんだかおかしかったんだよね。時々にらんだりもしてた。……ねえ、君は一体何を根拠に、この人が怪しいって思ったの?」

 近い。この人は相手に対する距離感が根本的におかしいのではないかと思う。

 なのに、なぜか高槻から目がそらせない。

 また、高槻のひとみあいいろに染まって見える。吸い込まれそうな夜空が、高槻の瞳の奥に見える。どこまでも深くくらい藍。

 目が──離せない。

「ねえ、深町くん。──答えてくれる?」

「それは……だってあのとき、この人が噓をついてたから」

 気がついたら、尚哉の舌は、実に素直にそんな言葉を高槻に差し出していた。

 ぱちり、と高槻が一度まばたきする。その途端、高槻の瞳から夜空の色がかき消え、尚哉ははたと我に返った。

 今、自分は、言ってはいけないことを言ってしまった気がする。

 なぜ噓だとわかったのかと尋ねられたらおしまいだ。まずい。

「あ、あの、俺、人間観察が趣味で! 相手の態度とか様子を見てたら、そういうの、なんとなくわかっちゃうんです。何を根拠にって言われても、上手うまく答えられないんですけど、その……『今この人噓ついたな』って、わかることが多くて」

 これ以上踏み込まれる前に、慌てて自分で答えを並べて予防線を張る。

 正直、この程度でだませる相手とは思えなかった。何しろ高槻こそ相手の様子をよく見ている。昼間の自分の様子をそんなに見られていたとは思わなかった。

「そう。人間観察、ね。──確かに君は、とても観察眼が鋭いみたいだ。人の噓が見分けられるなんて、すごいと思うよ」

 高槻がそう言って、ようやく身をかがめて尚哉の顔を覗き込むのをやめた。

 いつもの身長差からあらためて尚哉を見下ろし、にこりと笑う。

「ああ本当に、今回は深町くんを助手にして良かったなあ! 深町くんは常識があって、地図も読めて、観察眼が優れていて、そのうえ度胸もある。君が何の迷いもなくベランダから突撃してくれたおかげで、廊下側に逃げてきた山口さんをこうして捕まえられたからね。お手柄だよ、深町くん」

 そのとき、遠くの方から、パトカーの音が聞こえてきた。たぶん下の階の住人の通報で来てくれたものだろう。

 その音を聞いた途端、床に倒れたままだった山口がにわかに身を起こそうとした。

 が、その肩を、高槻がすかさず長い脚で踏みつける。

「──山口さん。お迎えが来るまでは、そのまま待機でお願いします。起きない、逃げない、騒がない。いいですね?」

「は、はい……」

 さわやかな笑顔と裏腹の容赦のない対応に、山口が再び床の上で長くなった。

 そんな高槻を見ながら、尚哉は、本当によくわからない人だな、と思った。無邪気な子供なのか、冷静な大人なのか、判別がつかない。


 それから数日後、尚哉は再び高槻の研究室に呼ばれた。

 先日バイトとして雇われた際、連絡用として携帯の番号を教えたのがまずかったらしく、実に気軽な感じで「講義の後、研究室に来てくれる?」と直接呼び出しがきてしまったのだ。

 そうして訪れた研究室で、尚哉は、桂木奈々子の部屋にまつわる事件のてんまつを教えてもらった。

 あの後、警察に連行された山口は、素直に罪を認めたという。

 高槻の言った通り、部屋を探しに来た奈々子を気に入った山口は、わざと隣室が空いているあの部屋を奈々子に勧め、奈々子の入居が済んで落ち着いた頃から、幽霊のふりをして隣室にこっそり出入りしていたのだという。そうやって怖がらせて、適当なところで助けに入って、あわよくば奈々子と関係を、と思っていたらしい。

「……そ、そんなので、どーして女が手に入ると思えるのかがわからない……」

 尚哉が頭を抱えてそうつぶやくと、高槻はあははと笑って、

「でも、もしかしたら上手くいってたかもしれないよ? 実際、桂木さんは深夜にコンビニで保護してもらった際、山口さんに対して悪い感情を持ってなかったみたいだからね。限界状態まで追い詰められた人間は、優しさに対して弱くなるものだよ」

「最低ですね、本当に」

「それについては僕も同意見だ。実に紳士的でない、卑しい行いだと思うよ」

 もしも高槻に依頼していなければ、奈々子はいずれ山口と付き合うことになっていたのだろうか。山口が全て仕組んだことだと気づくこともなしに。ひどい話だ。

 相変わらずマシュマロの浮かんだココアを片手に、高槻が言った。

「桂木さんは、やっぱりあのアパートから出ることにしたらしいよ。ルームシェアしてくれそうな友達が見つかったから、新しい部屋が決まり次第、引っ越すそうだ」

「まあ、その方がいいでしょうね」

 大仏柄のマグカップを片手に、尚哉はうなずいた。

 結局幽霊はいなかったが、代わりにストーカーまがいの不動産屋がいたのだ。気持ちが落ち着くまでは、一人暮らしもやめておいた方がいいだろう。

「ああそれにしても、つまらないなあ! 結局今回も、本物の怪異じゃなかった。残念だなあ、今度こそはと思ったのになあ……」

 心底残念そうな高槻の呟きには、不謹慎ですよと突っ込むべきなのかもしれない。

 だが、もはや尚哉は、高槻に常識担当として雇われている身ではないのだ。

 今日呼び出されたのは、ただ単に高槻が尚哉に事件のその後を伝えておこうと思ったからだろう。その辺りは律儀そうな人だ。

 このコーヒーを飲み終わったら、席を立って、この部屋を出る。それでもう高槻と尚哉は、元通りの立ち位置に戻るのだ。教壇に立って教える側と、席に座ってそれを聴く側。この人とは、たぶんそのくらいの距離感で対面しているくらいがちょうどいいのだと思う。やたら近い位置から顔を覗き込まれることも、こんな風に飲み物を振る舞われることも、もうないだろう。サイケな大仏柄とも、これでさようならだ。

 ──と思っていたのに。

「あ、でもね、深町くん。実はこんな相談が新しく来てるんだけど」

 高槻がそう言って、ノートパソコンを手元に引き寄せた。

 危うくコーヒーを噴き出しそうになった尚哉に向かって、高槻はにこにこしながらメール画面を見せてくる。

「早速話を聞きに行こうと思うんだけど、深町くんはいつなら空いてる?」

「なっ……何で、俺の予定を……?」

「だって、バイトするって言ったでしょう、深町くん」

「バイトならもう終わったじゃないですか、あれ一回きりのはずでしょう!」

「一回きりだなんて、僕は言った覚えはないけど?」

 高槻がきょとんとした顔で言う。

 尚哉は眩暈めまいを覚えた。そういえば、あのとき高槻は期限については一言も言わなかった。この人は一体いつまで自分を雇うつもりでいるのだろう。

「そう言われても、俺は一回きりのつもりだったんですけど。それに、バイトなら、他にもっと普通のバイトを探してるところです。この先は他の学生に頼んでください。俺はこれ飲み終わったら帰ります」

「え、やだよ、僕は他の子より深町くんがいい!」

 もう一回コーヒーを噴き出しそうになった。

「……子供かあんたは! もっとちゃんとした言い方できないんですか、准教授でしょあんた! もっと学者らしい言い回しがいくらでもできるでしょうが!」

「えー、ちゃんとした言い方って言われても……ええと、『必要な適性をかんがみた結果、私の研究の補助として、深町くんの他に適任はおりません』?」

「ああ駄目だ、言い直してもそもそも内容が全然駄目だった! 一応言っときますけど、常識があって地図読める学生なんて山ほどいますからね!?」

「でも、他の学生じゃ、深町くんのようにはいかないでしょう? ──僕が欲しいのは深町くんの、噓が見分けられる力だもの」

 尚哉はぐっと言葉に詰まる。やっぱりおかしなことを言わなければよかった。

 マグカップの中身を見下ろしてみると、まだ三分の一ほどが残っていた。いっそのこと一気飲みしてさっさと席を立つべきだろうかと思う。だが、下手に口に含んでいるときにまた何かおかしなことを言われたら、今度こそ間違いなく噴く気がする。

 ──尚哉の、噓を見分けられる能力が欲しいと、高槻は言った。

 何でこの人は、平然とそんなことが言えるんだろう。

「……気持ち悪くないんですか? 俺のこと」

 ぽろりと、そんな問いかけが尚哉の口から漏れる。

「え? 気持ち悪いって、どうして?」

 高槻が首をかしげた。まるでビクターの犬みたいだ。

「だって、普通は……噓が見分けられるとか言うと、皆、気持ち悪いって言いますよ。ていうか、それ以前に、普通はなかなか信じないし」

「信じるも信じないも、僕は深町くんが実際に噓を見分けるところを見たからね。素晴らしい観察眼だと思うよ」

 相変わらずにこにこと笑って、高槻が言う。

 観察眼なら高槻の方が余程優れているはずだろうと、尚哉は思う。奈々子の部屋の件だって、途中から高槻は何もかも見抜いていたようだった。

 だが、高槻の声に一切のゆがみはなく、全て本心で言っていることもわかる。

 この人は本気で、尚哉を傍に置きたいと思っているのだ。

「僕は手放したくないなあ、君のこと。これからも、僕を手伝ってほしい」

 ふわりと耳に心地よい、真正直な声が言う。

 明るい笑顔は、まるで青空みたいだ。何の曇りもなく、晴れやかで。

 ……本当はひとみの奥に、夜空を隠してるくせに。

 ふいに、心の奥底の方で、自分の抱えている事情を何もかも高槻にぶちまけてしまいたいという衝動が頭をもたげた。

 あの真夜中のお祭りのことも、この耳のことも。全て高槻に話してしまったら、はたしてこの人はどんな顔をするのだろう。

 それはとても面白い話だねと、いつものように目を輝かせるのか。

 あるいは、それは大変だねと同情するのか。

 それとも──奈々子の部屋の怪異のように、謎を解き明かそうとしてくれるのか。

 ……馬鹿馬鹿しい、やめておけ、と自分でその考えをねじ伏せて、尚哉は大きくため息を吐いた。

 話してはいけない。話すべきではない。

 だってそれは、線を越える行いだ。

 高槻と自分の間に引いた線。ここから先は立ち入り禁止の線。

 それでも高槻が線の間際までわざわざ近寄ってきて、こちらに向かって手をのばすのなら──線を越えない範囲で、尚哉もそれに付き合ってもいい気がした。

 その程度には、高槻という人物は面白い。

「……わかりました。やります、バイト」

「本当!?」

 高槻がさらに目を輝かせる。それを見て、ああ仕方ないなと尚哉は思う。

 かつて実家で飼っていたゴールデンレトリーバーに、やっぱりそっくりだ。名前はレオだった。高槻の顔は、散歩に行くよと言われたときのレオの表情と全く同じなのだ。そして尚哉はあの顔に、とても弱かったのだ。



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准教授・高槻彰良の推察 民俗学かく語りき 澤村御影/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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