第1章 いないはずの隣人 ③

「起きたとき、寝間着に草がついてたんです。熱が出て以来ずっと寝てたから、夜中に自分で外に出ない限り、草なんてつくわけなくて。それで、『ああ、あれは本当のことだったのかも』って思ったんです」

 噓ではない。事実そうだった。──もちろん、尚哉があれを夢ではないと判断したのは、それだけが理由ではないけれど。

「そう……」

 尚哉の言葉に、高槻は何かを考えるように少し目を伏せ、片手で軽くあごをなでた。

 それから、また尋ねる。

「盆踊りを踊っていた人達は、全員顔にお面を着けていたそうだね。……君は? もしかしたら君も、そのときお面を着けていたんじゃないのかな」

「何でわかったんですか?」

「君もお面を着けていたから、そのお祭りに参加できたんじゃないかと思ってね」

 高槻が言う。

「僕が思うに、それは、死者達の祭だったんじゃないかな」

「死者って……」

「もともと盆踊りには、お盆の時期に現世に戻ってきた死者や精霊を供養する意味があるからね。地方によっては、お面やかさきんで顔を隠して盆踊りをするところもある。それも、あの世から帰ってきた死者達が踊りに紛れ込んでもわからないようにするためだっていう説が有力だ。死者と生者が踊りの間だけは何の隔てもなく一緒に楽しめるように──あるいは、死者に顔を見られると、あの世に連れていかれるという説もある」

 高槻の言葉に、尚哉の胸にひやりと冷たいものが走った。

 ──もう駄目だ。気づかれてしまった。

 あのときの祖父の声が、耳の底でよみがえる。

 それを振り払うように、尚哉は口を開き、高槻に尋ねた。

「先生。青い提灯にも、何か意味があるんですか?」

「青い提灯自体は、普通にどこでもあるよ。ただ、普段そこでやってるお祭りでは使ってなかったというなら、きっと意味があるんだろうね。──そうだね、『青』という色から僕が連想するのは、江戸時代に百物語で使われていた青いあんどんかな」

「行灯?」

「そう。江戸時代は怪談ブームで、百物語の会がすごく流行はやったらしくてね。そのときに使ってたのが、青い紙を貼った行灯なんだ。寛文六年に出た『おとぎぼう』という本の中に「怪を語れば怪至る」という話があって、当時の百物語の作法が書いてある」

 そう言って、高槻はまた中空を見つめる目つきをする。

「『百物語には法式あり。月暗き夜行灯に火を点じ、其の行灯は青き紙にて貼りたて、百筋の灯心を点じ、一つの物語に、灯心一筋づつ引きとりぬれば、座中漸々暗くなり、青き紙の色うつろひて、何となく物凄くなり行く也』──つまり、月の暗い夜に、青い行灯に百筋の灯心をともして、怪談を一つ語り終わるごとに一筋ずつ灯心を抜いていき、だんだん暗くなるのを演出として楽しんでたんだね。このときにあえて青という色を使ったのが興味深いと、僕は思う。当時の人は、青という色に対して、異界とつながるようなイメージを持っていたのかもしれない」

「異界……」

「この世に対するあの世。あるいは、人の住む世界と対比する形で、人ならざるもの達が住む世界という意味でも使うね。深町くんがかつて参加したお祭りは、きっとそういうお祭りだったんだと思う。そこにいたのが全て死者だったのか、あるいは死者と生者が面をかぶることで互いをわからなくしていたのかは、わからない。いずれその場所に行って、詳しく聞き取りをしてみたい気がするね」

 子供のようにわくわくした目をしながら高槻はそう言って、またココアのカップを口に運んだ。

 それから、急に思い出したようにカップを唇から離し、尚哉を見る。

「そうだ、最後にもう一つ質問があった。──そのお祭りで、君は何か食べたり飲んだりした?」

 びくりと肩が揺れそうになったのは、どうにかこらえられたと思う。

 尚哉は眼鏡越しに高槻を見返し、尋ねた。

「どうして、そんなことくんですか?」

「どこかへ行って、そこにあるものを食べるというのは、そこの共同体に属するという意味があるんだよ。『古事記』に出てくる『黄泉よもつ戸喫へぐい』がまさにそれだ。イザナミは死者の国の食べ物を食べたから、もうその国の者となってしまった。もし君が、死者の祭で何かを食べろと勧められたり、実際に口にしていたなら──」

「た……食べてないです! 何も、何も食べてません!」

 尚哉は高槻の言葉を遮るようにして、早口にそう言った。

 口の中に、ねっとりと舌にからむような甘い味がよみがえる。尚哉は慌ててまたカップを口に運んだ。コーヒーの香りと苦味が、記憶の中の味をどうにか消してくれる。

 高槻はげんそうな顔で尚哉を見つめ、

「そう。それならいいんだけど」

「──あの。先生」

「ん? 何かな」

「先生は、どうしてそんなに不思議な話に興味があるんですか?」

 尚哉は高槻に向かって尋ねた。話題を変えてしまいたかったのだ。

「先生が作ってる『隣のハナシ』ってサイト、見ました。幽霊とか、化け物とか、ようかいとか、都市伝説とか、色々な話が載ってましたけど。先生はそういうの、全部本当のことだって信じてるんですか?」

「……全部本当だとは思ってないよ、さすがにね」

 高槻はココアのカップを両手で包むようにして、そう答えた。

「講義で話したように、多くの話には、それが語られるようになった背景がある。何らかの戒めや教訓のため、あるいは説明のつかない事柄に説明をつけるため。つまり、作られた話ばかりということだ。──でもね、もしかしたら、中には本物もあるかもしれないでしょう」

「……本物って」

「本物の怪異に遭った人による体験談。あるいはその伝聞。……僕が知りたいのは、はたしてこの世に本物の怪異は存在するのかってことだよ。本当にあるのであれば、ぜひ知りたい。会ってみたいし、遭ってみたい」

「物好きですね」

「よく言われる」

 あはは、と高槻が笑った。本当に、子供のような顔で笑う人だ。純粋そのものの子供が少しもひねくれることなくそのまま大きくなったら、高槻のような人間になるのかもしれない。

「あ、でもね、例のサイトを立ち上げたおかげで、一般投稿で結構色んな話が入ってきてくれてね。それで、中には僕に直接相談してくる人もいるんだよ」

「相談?」

「不思議な体験に遭った人が、怪異の謎を解き明かしてほしいってね。ちょうど今は、こんなのがきてる」

 高槻が腕をのばし、テーブルに置いてあったかばんを引き寄せた。中からノートパソコンを取り出し、少し操作してから尚哉の方に画面を見せる。

 メール画面だった。『隣のハナシ』のメールフォームから送られてきたものらしい。送り主は女性で、自分が借りているアパートが幽霊物件のようなので見に来てほしいというようなことが書いてある。

「幽霊物件って……」

「詳しくは書いてないけど、何かが出るみたいだね。気になるよね!」

 目を輝かせながら高槻が言う。

「それで先生は、これ、どうするつもりなんですか?」

「うん、ぜひ話を聞きに行って、調査したいと思ってる」

「先生、霊感とかあるんですか?」

「残念ながら、これっぽっちもない。でも、別に霊感がなくても調査はできるよ」

 どうやら本気で言っているらしい。そういえば、ツチノコの報告があったらツチノコを探しに行くと前にも言っていた。……やっぱり学者というのはどこかおかしいのかもしれない。

 とりあえず、レポートについての聞き取り調査はもう終わったようだ。ということは、そろそろ帰ってもいい気がする。ここから先は、尚哉には直接関係のない話だろう。

 尚哉はコーヒーを飲み干して自分の鞄を取り上げ、立ち上がりながら、

「それじゃ俺はそろそろ失礼します──」

 そう言いかけたときだった。

「待って、深町くん! 僕、今すごくいいことを思いついた!」

 突然高槻が大声を出し、尚哉の手をつかんだ。

 ぎょっとして高槻を見下ろした尚哉の手をまだ捕らえたまま、高槻が立ち上がる。途端に、見下ろす構図と見上げる構図が逆転した。尚哉は何事かという顔で高槻を見上げ、高槻は相変わらず目をきらきらさせながら尚哉を見下ろし、

「ねえ深町くん。君、バイトしない?」

「バ、バイトっ?」

「そう。具体的に言うと、僕の助手。この相談者に会いに行くとき、一緒についてきてほしい」

 尚哉の手を取ったまま、にっこり笑って高槻が言う。いきなり何を言い出すのだろうか、この人は。

「な、何で俺がっ……助手って言われても、俺、何もできないですよ!? 俺より院生の誰かを連れて行った方が、はるかに役に立つと思いますけど。さっきの先輩とか」

「うーん、皆忙しいからねえ。それに、別に専門知識はいらないんだ、それは僕が持ってるから。ええとね、必要なのは、普通の常識」

「……はい?」

「僕ねえ、困ったことに、たまに普通の人が持ってるような常識がわからなくなるんだよね」

 そんな本当に困ったような顔で、頭のおかしなことを言わないでほしい。というか、早く手を放してほしい。

「あと、もう一つ困ったことに、僕は初めて行く土地では必ず迷子になる」

「地図見たらいいじゃないですか」

もちろん地図は見るよ! でも地図って、情報が少ないでしょう? 道と建物は書いてあるけど、実際に行ってみると、そこにはもっと色々なものがあるじゃない。自動販売機とか、路上駐車してる自転車とか、お店の看板とか、店頭に並んでる品とか、通行人とか、通行人が連れてる犬とか。そういうのが一斉に目に入ってきちゃうと、情報が頭の中ではんらんしすぎて、地図と照らし合わせができなくなるんだよね……」

 自分のこめかみを軽く指でつついて、高槻が言う。

 どうやらこれは、高槻の人並み外れた記憶力があだとなった話のようだ。

 普通の人間は、一つの景色を見ても、必要なものや気になることにしか目が行かない。脳が無意識に情報を取捨選択して、不要なものをカットしたり、あるいは必要なものを補ったりする。だが、おそらく高槻の脳は、視界に入る全てのものを、どれも等しく鮮明な映像として頭の中に記録してしまうのだ。そして、その情報過多な映像と、シンプルすぎる普通の地図とでは、整合性を取るのが難しいらしい。

「だから、僕の助手に期待する技能は、普通の常識があることと、道に迷わないこと。どうかな、深町くんは、常識があって地図が読める人?」

「……はあ、一応は」

「じゃあ、決まり! 都合は深町くんに合わせるよ、いつなら大丈夫?」

 まだつかんだままの尚哉の手を上下にぶんぶん振って握手に切り替え、輝くような笑顔で高槻が言う。そうやって勝手に話を進める辺り、やっぱりこの人は多少常識に欠けるのかもしれない。

 だが、続いて提示された給料は決して悪い条件ではなく、己が懐事情をかんがみた結果、尚哉は高槻の提案を受け入れたのだった。


 そんなわけで、その週末、尚哉は高槻と共に、幽霊物件に住むという女性に会うことになった。

 相談相手の女性は、すぎなみ区に住むOLで、かつらという名前だった。

 奈々子との待ち合わせは、駅から徒歩一分の場所にあるカフェ。いくら高槻でもこれなら迷わないだろうと思ったが、念のため、高槻との待ち合わせは、駅の改札にしておいた。

 正解だった。

「……先生。そっち、違います」

「え? あれっ、違う?」

 試しに歩かせてみたら見事逆方向に歩き出した高槻を、慌てて引き戻す。最初の一歩から違う方向に踏み出せば、それは迷子にもなるだろう。

「先生、その年まで一体どうやって生きてきたんですか?」

「あー、周りに親切な人が多かったんだよねえ」

 尚哉のあきれた視線を笑顔でやり過ごし、高槻が言う。

「でも僕、一度歩いた場所だったら、必ず覚えてるから大丈夫なんだよ? 迷子になるのは最初だけなんだ」

「それ、たとえば何年か経って、街の風景が変わっちゃったらどうなるんですか?」

「あ、それは意外と平気。建物が幾つか建て替わったり、お店が替わったりしてても、道そのものが大きく変わらない限りは、どこかで整合性がとれるから。ほら、ずっと昔の白黒な風景写真と現在の写真を比べても、なんとなく面影が残ってたりするじゃない? あんな感じで」

「はあ、そんなものですか……とりあえず先生、目の前の景色を覚えるまでは、先に立って歩くのやめてください。俺が案内します」

 ごめんねごめんねと殊勝に謝る高槻を連れて、待ち合わせ場所のカフェに向かう。

 尚哉と高槻が店の中に入ると、中程の席に座っていた女性が、ぱっとこちらを見た。高槻と目を合わせて、小さく頭を下げる。どうやらあれが桂木奈々子らしい。高槻の顔は、あらかじめネットででも調べてあったのだろう。

 桂木奈々子は、肩までの髪を真っ直ぐのばした、おとなしそうな雰囲気の女性だった。二十代後半から三十代前半くらいだろうか。

 奈々子の向かいに高槻と並んで腰を下ろすと、奈々子は高槻に向かってあらためて頭を下げて言った。

「桂木です。わざわざありがとうございます」

「高槻です。こちらは、うちの学生の深町くん。僕の手伝いをしてくれます」

 そう言って、高槻が名刺を渡した。

 なまじ顔立ちが品良く整っているので、こんな風に柔らかく微笑んで理知的にしやべると、ものすごく信頼できる人のように見える。実態は、駅から徒歩一分の場所にも自力でたどり着けない困った人なのに。

 やってきた店員に、尚哉がコーヒーを、高槻がココアを頼み、注文したものがテーブルに届くと、高槻が奈々子にうながした。

「それでは、ご相談の内容について、詳しく聞かせていただいてもいいですか?」

 奈々子は一度小さくうつむき、それから、か細い声で話し始めた。

「私の住んでいるアパート、なんだかおかしいんです……」

 奈々子の話によると、奈々子がその部屋に引っ越したのは、二か月ほど前のことだという。二階建てのアパートで、1K。建物は古いが、内装は最近やり直したらしく、部屋はそこそこれいだった。

 最初に異変に気づいたのは、一か月前の深夜。

 こつこつ、こつこつ、というノックのような音が聞こえたのだという。それも、玄関の扉ではなく、壁の方からだ。隣室の住人が、部屋の壁をたたいているらしい。

 最初のうちは、無視していた。だが、それが何日も続くようになると、いつまでも我慢はできない。ある日、奈々子はとうとう隣の部屋に抗議に行った。

 だが、何度ノックしても、誰も出てこなかった。

 そもそもその部屋にひとはなく、表札を見ても、名前も出ていない。翌朝になってから大家に確認してみると、空き室だという。

 そんなはずはない、確かに誰かがいたのだと奈々子が主張すると、大家もさすがに顔色を変えた。勝手に誰かが上がり込んで住んでいるのかもしれないと、奈々子と一緒に部屋を確かめに行ってくれた。

「でも……かぎがこじ開けられたり、窓が破られたりしてたわけでもなくて。部屋の中も、どう見ても誰かがいる感じはしなかったんです」

 大家は奈々子に、引っ越したばかりで疲れてるんだろうと声をかけ、帰っていった。奈々子も、あの部屋の中を見てしまうと、それ以上は食い下がれなかった。

 だが、その後もノックの音は続いた。

 それどころか、そのうちに、ノックではなく、爪で壁を引っくような音に変わったのだ。がりり、がりり、と。

「私、怖くて……なのに、大家さんはもう全然取り合ってくれないんです。あの部屋には誰もいないからって」

 本当は引っ越してしまいたかった。だが、そう何度も引っ越しできるほど、財布に余裕があるわけでもない。

 やがて、怪異はさらにエスカレートし始めた。

 仕事を終えた奈々子が部屋に戻ってくると、部屋の中に、明らかに自分のものではない長い髪の毛が落ちていたことがあった。

 また別の日には、ベランダ側のガラス戸に、外からべったりと手形がついていたことがあった。二階なのに、だ。

「それで私、思ったんです。もしかしたらこの部屋で、前に誰か死んでるんじゃないかなって。だから、呪われてるんじゃないかって」

「つまりあなたは、その部屋が事故物件なのではないかと思ったわけですね?」

 高槻がそう確認すると、奈々子は思い詰めた顔でうなずいてみせた。

「だってもう、そうとしか思えなかったんです。たとえば部屋じゃなくて私自身が呪われてるとしたら、他の場所でも怖いことが起こるはずじゃないですか! でも、何かが起こるのは、必ずあの部屋の中なんです」

「でも、事故物件については、心理的ありとして、事前に告知する義務があります。その部屋を借りる前に、不動産屋から説明はなかったんですよね?」

「はい、ありませんでした。でも、私、どうしても気になって……アパートの仲介をしてくれた不動産屋さんに、直接聞きに行ったんです」

 当時担当してくれた男性がちょうどいたので、奈々子は、アパートの部屋で起きていることを話し、事故物件ではないのかと尋ねた。

 不動産屋は、「あの部屋は、いわゆる事故物件には当たりません」と答えた。

 だが、そのときの不動産屋の態度は、なんだか少し妙だった。まるで何かを隠すように、あいまいに言葉を濁している──少なくとも、奈々子にはそう思えた。

 その態度を見て、奈々子はますます疑いを深めた。

 自分の部屋は、事故物件なのではないか。

 だから、幽霊が出るのではないか。

 幽霊が存在するなんて、これまで本気で信じたことなどなかった。

 でも、今自分の身に起こっていることについて、他にどう説明をつければいいのかわからなかった。神社でおはらいをしてもらい、買ってきたお守りやお札を部屋に置いてみたが、何も効果はなかった。大家に尋ねてもみたが、「おかしなことを言わないでほしい」と逆に怒られてしまった。「変な噂を立てるようなら、出て行ってもらう」とまで言われたが、奈々子だって、できるものならそうしたいのだ。いわゆる霊能者や拝み屋に頼ることも考えたが、特につてがあるわけでもなく、ネットで調べてみても本物かいんちきかの見分けもつかなくて怖かった。

 そんなある日、奈々子は職場の友人に高槻の話を聞いた。青和大の准教授が怪奇事件の収集と調査を行っている、と。

 大学の先生なら身元も確かだし、奈々子の部屋で何か起きているかを解明してくれるかもしれない。

 そう思った奈々子は、わらにもすがる思いで高槻に連絡をしたのだという。

「お願いします、先生。どうか助けてください。私、もう頭が変になりそうで……!」

 奈々子がそう言って、高槻に頭を下げた。カフェの他の客が何事かという顔でこっちを振り返るほどに、必死な声だった。

 そんな奈々子を見ながら、尚哉はまゆを寄せた。

 というのも、ここまでの奈々子の話に、噓は一つもなかったのだ。

 彼女の声は時におびえて震えはしたが、ゆがんだりきしんだりすることはなかった。彼女が今語った出来事は、全て現実に起きているということだ。

 ならばこれは──まさか、本物の怪異というやつなのだろうか。

 そのときだった。

 高槻が口を開いた。

「どうか頭を上げてください、桂木さん。お話はわかりました」

 そして高槻は、奈々子に右手を差し出した。まるで握手を求めるように。

 頭を上げた奈々子が、おずおずとその手を取る。

 すると高槻は、そのまま奈々子の手をぎゅっと両手で握りしめた。

「えっ、あ、あのっ……?」

 驚いた奈々子が手を引こうとする。

 だが、高槻は奈々子の手を情熱的に握りしめたまま、放さない。

「桂木さん。──あなたにお会いできて、本当によかった。きっとこれは運命です」

「え……」

 テーブルに身を乗り出して奈々子の顔をのぞき込み、まるで愛の告白でもするかのような声で高槻がそうささやく。

 高槻の顔を見返した奈々子の頰が、みるみる赤く染まった。どうやら、目の前にある高槻の顔が思いのほか整っていることに、たった今気づいてしまったらしい。つい先程まで不安と恐怖で涙ぐみそうになっていたはずのひとみが、違う意味で潤み出す。

「桂木さん。今の僕の気持ちを、正直に伝えてもいいですか?」

「え、あ、そんな、私、まだ心の準備が……な、何でしょう……?」

「とてもうらやましいです」

「……はい?」

 ぽーっと高槻を見つめたまま、奈々子が首をかしげる。何かこの場にそぐわない言葉を聞いたという自覚はあるようだが、頭がついていっていないようだ。

 高槻はそんな奈々子に向かってさらに身を乗り出し、

「ああ本当に! 心底羨ましい! そんな素晴らしい部屋に住んでいるなんて、今すぐ僕と替わってほしいくらいです! 事故物件、幽霊騒動、なんて知的好奇心を刺激してくれる部屋でしょうね! 桂木さん、どうかぜひ僕にその部屋の怪異を調査させてください! そうですね、まずは部屋の中を見せてもらってもいいですか? ああ、わくわくするなあ、出るかなあ幽霊! 楽しみだなあ!」

 握りしめたままの奈々子の手を上下にぶんぶん振りながら、興奮した口調で言う。

 最初は曖昧な笑みを浮かべていた奈々子の顔に、だんだんと困惑が色濃く漂い始める。まずい、と尚哉は思った。明らかに引いている。周りの客の視線も痛い。話している内容自体がそもそもやばいのに、声が大きすぎだ。

 もしやこれは常識担当の出番だろうかと気づいた尚哉は、そっと高槻に耳打ちした。

「先生。ちょっと落ち着いてください。声が大きいです」

「落ち着け? そんなの無理に決まってるじゃないか、深町くん! 聞いてなかったのかい、幽霊が出るっていうんだよこの人の部屋には! 素晴らしいよね!」

 駄目だ。この三十四歳ときたら、全く周りが見えていない。だんだん高槻が、昔飼っていたゴールデンレトリーバーに見えてきた。お気に入りのおもちゃを前にして、目をきらきらさせながらぶんぶん尻尾しつぽを振っている犬にそっくりだ。

「……せ、先生、もう少し声の音量落としましょうか。他のお客さんがこっち見てますよ? あと、そろそろ桂木さんの手を放しましょうか。ほら、早く。はい、放して」

「ん? なぜだい、深町くん! こんな素敵な女性の手を放せだなんて、おかしなことを言う子だね!」

 優しくなだめてみたが、尻尾ぶんぶんは一向に収まらない。散歩中にすれ違った相手にわふわふと抱きつきに行く犬かと思う。周囲の視線はますますこの席に集中し、焦った尚哉は思わず高槻の腕をつかむと、

「──あーもうっ、いいからさっさと手を放す! そんで周りを見る! 他のお客さんがたくさんいるお店で大声出さない!」

 相手が大学の准教授だというのも忘れて、高槻を小声で𠮟りつけた。

 途端、高槻が、はっと我に返った顔になった。

 慌てて奈々子の手を放して座席に座り直し、恐る恐る周りを見回す。他の客の好奇の視線に気づき、肩をすぼめて、

「……ご、ごめんなさい、深町くん、桂木さん……」

 𠮟られた犬そのものの表情で、しょんぼりと高槻が言った。成程確かに、これは常識担当が傍についていないと厳しいわけだ。

 しょげ返った高槻に向かって、尚哉は己の常識担当としての職務を果たすべく、お説教を始める。

「いいですか、先生。桂木さんにとって、これは深刻な悩みなんです。調査するのはいいとして、わくわくするとか楽しみだとかは言うべきじゃないと思います」

「……はい。ごめんなさい」

「あと、いい年して、周りの迷惑になるような大声を出さない。初対面の女性の手も、そんな風に握っていいものじゃないです。ていうか、何であんたはそう気安く人の手を取りたがるんですか、欧米人ですか!」

「ごめんなさい。できればハグしたいとすら思ってました」

「駄目です。日本にハグの文化はまだ根付いてません。痴漢扱いされますよ」

「……私、別に高槻先生になら、ハグされてもかまいませんけど」

 ぼそりと、奈々子が言う。

「桂木さん! あなたまで何言ってるんですか、今はそんな『ただしイケメンに限る』を発動してる場合じゃないでしょうが!」

「あ、はい、すみません……」

 尚哉に言われて、奈々子が高槻と同じように肩をすぼめる。

 なぜ一番年下の自分が大人二人を𠮟っているんだろうと思いつつ、尚哉は今日これからのことを思って、内心で頭を抱えた。先が思いやられるとはまさにこのことだ。


 奈々子が住むアパートは、駅から十分ほどの場所にあった。

 閑静な住宅街の中にある、何の変哲もないアパートだ。だいぶ古びてはいるが、いかにもなお化け屋敷という感じはしない。二階建てで、部屋は全部で六つ。奈々子が言うには、埋まっているのはそのうち四つの部屋だという。

 奈々子の部屋は二階の一番奥の部屋だった。部屋の右側の壁のみが、隣の部屋と接していることになる。ちなみに一番手前の部屋の住人は会社員男性で、いることはいるのだが出張が多いらしく、留守がちなのだそうだ。

 とりあえず、まずは奈々子の部屋の中を見せてもらうことになった。

「ああ、れいな部屋ですね」

 部屋の中を見回し、高槻がそう言った。ここまで歩いてくる間に𠮟られたショックも抜けたらしく、普段通りの明るい声だ。

 高槻の言う通り、部屋の中は綺麗だった。外から見た古びた感じに比べると、内装は明らかについ最近やり直している。床はフローリングで、壁紙も新しい。

「不動産屋さんが言うには、リノベーションしたとかで。もとは畳敷きで、壁も古かったそうなんですけど、全部綺麗にやり直したばかりだって……でも私、それを聞いて余計に、何でそんな全部綺麗にやり直す必要があったのかなって疑っちゃって。あ、いえ、もちろんその方が借り手がつくからだとは思うんですけど、でも、もしかしたら、血の染みとかががあったからじゃないかなって……」

 奈々子が言う。恐怖は人を想像力豊かにするようだ。

「桂木さん。ノックや爪で引っく音が聞こえたのは、こちらの壁ですか?」

 高槻が壁を指差した。そちらの壁にはベッドが寄せられていた。

「はい、そうです。夜、ベッドに座ってくつろいでると、ノックの音が聞こえて……近頃では、ベッドの上にいるときは、イヤホンをして音楽を聴くようにしてます」

「そうですか。ああ確かに、結構壁が薄そうですね」

 ベッド越しにこつこつと壁をたたき、高槻が言う。

 それから高槻は、部屋の奥にあるベランダへつながるガラス戸に目をやった。

「手形がついていたのは、どの辺ですか?」

「大体この辺り……気持ち悪かったので、すぐき取ってしまったんですけど。あ、手形は別に血とかじゃなくて、普通に手をべたっと押し当てたような跡でした」

 奈々子が指差したのは、ちょうど顔くらいの高さのところだった。今は、昨日降った雨の跡が少し残っているくらいだ。

 高槻はガラス戸をがらりと開け、置いてあったサンダルを履いてベランダに出た。尚哉も、戸口からベランダの様子を眺めてみる。といっても、さして見るものなどない。普段は物干し場としてしか使っていないのだろう、何も置いていないがらんとしたベランダだ。隣の部屋とは、薄いプレートのような壁で仕切られている。

「あの木は、桜ですね? 春は花見が部屋の中でできていいですね!」

 高槻が言った。ベランダのすぐ外に、隣家の庭に植わった木が迫ってきているのだ。

 奈々子は高槻の言葉に苦笑を返し、

「ええ、引っ越してきた頃に、ちょうど見頃でした。それは綺麗だったんですけど、結構大きな木なので、ちょっと陽当たりに影響が……」

「ああ、確かに。でも、夏場は陽射しを遮ってくれるから、いいかもしれませんよ? それに、だいぶこっちに枝が広がってるから、目隠しの代わりになって、外からのぞかれなくて済みます」

「そうですね……夏まで、ここで暮らせるかどうかわかりませんけど」

 奈々子が暗い口調でつぶやく。

 高槻はにっこり笑って、言った。

「大丈夫ですよ。本物の幽霊付きの物件なら、先程も言った通り、僕が代わりにここに住みますから。桂木さんは僕のマンションに住めばいいです。そして、もし本物の怪異ではないのなら──原因を突き止めてしまえば、おかしなことは止みますよ」

 次に、隣の部屋を見てみようということになった。

 大家はすぐ近所の住宅に住んでいるそうなのだが、あいにく今日は用事があって出かけているらしい。だが、奈々子が事前に話をつけておいたので、隣の部屋のかぎは不動産屋が預かってくれているという。

 不動産屋の名前は、『ミツハシ・ハウジング』。駅近くにある店舗を三人で訪れてみると、ちょうど他に客はなく、カウンターの中にいた男性がこちらを見て立ち上がった。がっしりした体つきの、しかし人のさそうな顔をした三十代くらいの男性だ。

「こんにちは、桂木さん! はやしさんからお話は伺ってます、こちらへどうぞ」

 体つきの割にやや甲高い声で、男性が言う。林田というのは、アパートの大家のことだろう。

 と、奈々子よりも先に高槻がカウンターに歩み寄り、男性の前の椅子に座った。

 男性は目を丸くして高槻を見つめ、

「あの、あなたは……?」

「こんにちは。高槻と申します。桂木さんに頼まれて、彼女の部屋で何が起きているのかを調べているところです」

 愛想よく笑いながら、高槻が名刺を取り出して渡した。

「だ、大学の先生が、どうして……あ、失礼いたしました。私はやまぐちと申します。桂木さんがあのお部屋を借りられる際に、仲介をいたしました」

 男性──山口もまた名刺を取り出し、高槻に渡す。

 高槻はにこにこしたまま名刺を受け取り、

「では山口さん、単刀直入に伺いますが、あの部屋、もしくは隣の部屋で、以前人が死んでませんか?」

「た、高槻先生!」

 あまりに単刀直入すぎる高槻の言葉に、尚哉は常識担当として割って入ろうかと思った。失礼なことを言ったせいで、相手の対応が悪くなったら困る。

 が、山口はなぜか急に顔をこわらせ、さっと奥へ視線を走らせた。

 そこにはもう一人、事務担当らしき髪の長い女性がいて、こちらに目を向けて不審そうな顔をしている。

 山口は慌てたように立ち上がり、自分のかばんを取り上げると、

うらさん! 僕、ちょっと出てくるから! 何かあったら、携帯に連絡して!」

 奥の女性に向かってそう言って、こちらをかすようにして、店舗を出た。

 歩き出しながら、山口がはあと大きくため息を吐く。

「……困りますよ、いくら他にお客様がいなかったとはいえ、ああいうことを店の中で言われるのは。あの事務担当の女性は、うちに入ってまだ日が浅いんです。妙な誤解をして、周りに変なことを言いふらされたりしたら、うちの評判に関わります」

「これはどうも失礼いたしました。でも、あなたの様子を見るに、この件について、何か心当たりがあるのではありませんか?」

 悪びれた様子もなく、高槻がそう言った。

 確かに山口の態度は少しおかしかった。奈々子の部屋について、何か事情を知っているとしか思えない。

 奈々子が言った。

「山口さん。……先日もお尋ねしましたけど、あなた、やっぱり何かご存じなんじゃないですか? もしそうなら、教えてください。お願いします」

 山口は迷うように目を伏せ、もう一度ため息を吐いた。

 そして、小さな声で言った。

「すみません。周りに人が多いので、ここではちょっと。……アパートに着いたら、お話しします。鍵は持ってきましたので」

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