第1章 いないはずの隣人 ②
青和大学の図書館は、地上八階建て地下三階建ての、実に立派な建物だ。各種文献、新聞に週刊誌、映像資料もふんだんに所蔵されているし、Wi‐Fiもある。大きな採光窓から外の陽射しが入る一階の閲覧コーナーは大方席が埋まっているが、地下に下りれば下りるほどに人が減っていくことに気づいたのは、図書館に出入りするようになって三日目のことだ。地上階より天井が低くて圧迫感があるうえに、空調設備がいまいちで若干空気が悪いせいかもしれないし、単に図書の配置の問題かもしれない。
地下二階の壁際に設けられた閲覧席に陣取り、尚哉はスマホを取り出した。
先程高槻が話していた『隣のハナシ』を検索してみる。
出てきたのは、意外にすっきりしたデザインのサイトだった。様々な都市伝説の分類と例話、一般投稿されてきた未整理の話などが、整然と並んでいる。
サイトのトップにあるのは、こんな一文だった。
【あなたの隣で話されていた不思議なハナシを、教えてください】
試しに、一般投稿のページを開いてみた。
新着の一番上にあったのは、こんな話だった。
『結構前のことなんですけど、美容院で隣の席だった女性が美容師さんに話していた内容がちょっと面白かったので、投稿します。
彼女が子供の頃の話だそうです。
当時彼女の家には、黒い全身タイツのおじさんがよく出没していたそうです。
別に何をするわけでもなく、ただ家の中をばたばた走り回ってたりするだけだったらしいんですけど。彼女の家族は誰一人としてそのおじさんに気を留めている様子もなく、彼女もその存在を自然に受け止めていたんだそうです。
で、ある日、彼女が小学校から帰ってきたら、そのおじさんが、物干し
それを見た彼女は、「ああ、お母さんに洗われちゃったんだな」って思ったそうです。「洗濯されて、干されてるんだ」と。
そして、それ以来、おじさんは姿を消したそうです。
子供心に彼女は「きっと、洗われちゃったから、いなくなったんだな」って思ったらしいです。
現代の
読み終わり、尚哉はなんとも言えない気分で首をかしげた。
人から聞いた話を投稿しているだけだから当然なのだろうが、オチがない。というか、そもそもの内容自体が、どう判断していいのかさっぱりわからない。
全身タイツのおじさん、という時点で、ホラーというよりギャグの領域になっている気がするが、もしそれが実は妖精でも妖怪でもなく人間だったとしたら、ただの変質者だ。そう思うと怖い気もする。しかし、彼女の家族が気に留めていない時点で、やはり何らかの超自然的な存在のようにも思える。洗濯されて干されてしまったからいなくなった、というのも全く意味がわからない。
高槻はこの話をどのように分類し、学術的に位置づけるのだろう。
『民俗学Ⅱ』の初回講義を聴いてわかったのは、大学というのは、自分の興味のある事柄であれば、何であろうと学問として研究の対象にできるらしいということだ。
尚哉は、
まだ空きコマにしてあった水曜の三限に、『民俗学Ⅱ』と書き込む。
それから尚哉は、蔵書検索サービス用の端末を探すために、席を立った。
高槻が講義で話した『古事記』も『日本書紀』も『和漢三才図会』も、この図書館に所蔵されているはずだ。それらに本当にツチノコについての記述があるのか、確かめてみようと思ったのだ。
高槻彰良という男は、確かに面白い人物のようだった。
というか、講義が進むにつれて徐々にわかってきたのは、『意外に残念なイケメン』ということだった。
ある日の講義で、珍しく高槻が遅刻してきたことがあった。
講義開始時刻を十分ほど過ぎてから慌ただしく教室にやってきた高槻は、マイクの電源を入れるのもそこそこに、
「遅れてごめんね! 陽のあたる机に放置してたフルーツサンド、まあ大丈夫だろうと思って食べたらやっぱり駄目だった! お腹壊してしばらくトイレにこもってました、ごめんなさい!」
……そういうことはあまり大声で言わない方がいいと、たぶん教室にいた誰もが思ったはずだ。
また別の日の講義では、口裂け女の姿の変遷を黒板に図解してくれたのだが、これがまたとてつもなくひどい絵だった。最初は長い髪にマスクという特徴のみだったのが、そのうちに赤いコートに白いパンタロンになったり、赤い帽子になったり、赤いスポーツカーに乗り始めたりしたらしいのだが──黒板に書かれたそれらの絵を見て、尚哉の後ろの席の学生はぼそりと「なんかあれ、幼稚園で見る『おかあさん』の絵にそっくりだよね」と言った。……確かに、大体そんな感じの絵だった。
とはいえ、講義自体はやはり聴きやすく、興味の持てる内容だった。他の講義では徐々に出席する学生の数が減っていき、とうとう大教室から中教室に格下げになった講義まで出たというのに、相変わらず高槻の講義は盛況だ。初回講義ほどではないにしても、毎回教室の八割ほどは埋まっている気がする。
逆の言い方をすれば、高槻の講義でもサボる者がいるということなのだが──これに関して、高槻という人物を語るうえでもう一つ特徴的なことがあった。
前の週で《紹介編》を終え、今週は《解説編》というとき、高槻は毎回のように、教室を見渡しては一部の学生に目を留め、こう言うのだ。
「君と君、あと、そこの君と君と君は、前回の講義にも補講にも出てなかったけど、今回の講義には出るんだね? 大丈夫? 前回の資料、渡した方がいいかな?」
それが一番前の席の学生であろうと、一番後ろの席の学生であろうと、同じように高槻はそう尋ねる。視力も良いのだろうが、どうやら記憶力が恐ろしく良いらしい。毎回出席している学生の顔を覚えているようなのだ。二百人以上いるはずなのに。
そして、そんな高槻に、尚哉が顔どころか名前まで覚えられることになったのは、六月初めのことだった。
講義が終わり、学生達が席を立とうとしたその瞬間、高槻が一度切ったマイクの電源を再び入れて、こう言ったのだ。
「ああそうだ、忘れてた。文学部一年の深町くん、深町尚哉くんはいるかな?」
「……え、あっ、はい! い……います」
いきなり呼ばれて、尚哉は席から跳び上がりそうになった。高槻が誰かをこんな風に指名するのは初めてだ。とりあえず片手を挙げて、ここにいますと主張してみる。
高槻がこっちを見た。
「先日提出してもらったレポートの件で、ちょっとお話があります。この後、時間あるかな? ないなら、また後日あらためて僕の研究室に来てほしいんだけど」
「あ……あり、ます。大丈夫、です」
尚哉が答えると、高槻は「よかった」と言ってうなずき、尚哉を手招きした。尚哉は仕方なく、教室の後ろの扉から出て行こうとする学生達の流れに逆らって、教壇の方へ向かう。今日に限って、後ろの方の席に座っていたのが裏目に出た。
レポートというのは、先週の講義の際に、高槻が出した課題だ。
内容は、それまで扱ってきたテーマの中からどれか一つについて、自分なりにまとめてみろというものだった。だが、なぜいきなりその件で呼び出されることになるのだろう。何か余程の不備でもあったのだろうか。
尚哉がようやく教壇前にたどり着いたときには、もうほとんどの学生が外に出た後だった。教室の中は静かで、高槻は黒板に書いた文字を消しているところだった。
英国風の上品なスーツをまとったその背中に向かって、恐る恐る声をかける。
「あの、俺が書いたレポートが、何か……?」
「ああ、ごめんね。皆の前で急に呼びつけたから、びっくりしたよね」
高槻が振り返り、チョークの粉がついた指を払った。
「これから僕の研究室に来てもらってもいいかな? この後の講義の予定は?」
「今日はもうないです。水曜は三限までしか入れてないんで」
「それはよかった。じゃあ、行こうか」
自分の鞄を手に取り、高槻が歩き出した。
黒板脇の出入口は、基本的に学生は使わず、教員の出入り専用となっている。高槻が
教壇と階段教室の座席、という距離感以外で高槻を見るのは初めてだった。こうして並ぶと、その背の高さがあらためてよくわかる。身長一七二センチの尚哉からすれば、ちょっと見上げるほどだ。たぶん一八〇は超えているだろう。脚が長いので、歩幅も広い。尚哉はやや速足に高槻と並んだ。
教員用の出入口は、そのまま校舎の外に直結していた。階段教室なので、後ろの扉は二階にあるが、教室の一番下は一階なのだ。
陽射しの降り注ぐ中庭を突っ切って歩きながら、高槻が言った。
「そんなに緊張しなくていいよ。君のレポートは、よく書けてた。毎回講義に出てたし、ノートも取ってたみたいだからね。真面目な学生だなあって思ってたんだよ」
にこりと笑って、高槻が尚哉を見る。
光に透けたその
西洋人の明るいブルーアイズとは違う。もっと
「深町くん? どうかした?」
思わずまじまじと高槻の顔を見上げていたら、
先程のは光の加減だったのだろうか、今はもう普通の焦げ茶色の瞳に見えた。
「あ、いえ、何でもないです。……あの、先生」
「何?」
「講義に出てる学生の顔、本当に毎回覚えてるんですか?」
「覚えてるよ。僕は昔から、他の人より少し記憶力がいいんだ」
高槻がそう言って笑う。少しどころの話ではない気がするのだが。
この時間の中庭は、ちょっとしたカオス状態だ。四月を過ぎるとサークル勧誘は下火になったが、本来の活動の方が勢いを取り戻したらしく、そこかしこで学生達が様々なことをやっている。音楽をかけながらステップを踏んでいるダンスサークル、円になって発声練習をしている演劇サークル、何かわからないがかなりの人数で大縄跳びをしている連中、ジャグリングに
高槻はそれらの間を器用にすり抜け、研究室棟と呼ばれる建物へと歩いていく。
尚哉は尋ねた。
「レポートに問題がないなら、何で俺は呼び出されたんですか?」
「うん。実は、話を聞きたいのは、レポートのおまけの方についてなんだよね」
高槻が答える。
レポートのおまけというのは、高槻が学生達にレポートを課した際、「書ける人だけでいいけど、誰かから聞いた不思議な話とか、自分の奇妙な体験談とか、そういうのをおまけでつけてくれたら、ちょっと加点するよ。ただし、前にも言った通り、創作と噓は駄目だからね」と言ったものである。
尚哉はそれに、子供の頃にあった奇妙な出来事の話を書いたのだ。
「確認するけど、あれは他の人から聞いた話や、何かで読んだものじゃなく、君自身の体験なんだね?」
「……はい」
「そう。とても興味深い話だったので、ぜひもう少し詳しく──」
そのときだった。
突然、高槻の真横で、何かが羽ばたく音がした。
尚哉も驚いて、思わずそちらを見る。
真っ白な鳩が二羽、ばさばさと飛び去っていくところだった。シルクハットとステッキを持った学生二人が、慌ててその後を追いかけている。
「……マジック研究会、ですかね。帽子から鳩を出す手品の練習なら、室内でやった方が……先生?」
そこで尚哉は、傍らに立つ高槻の顔がひどく
高槻の手から
「高槻先生? 先生、大丈夫ですか!?」
と、高槻が手で軽く額を押さえつつ、口を開いた。
「……ああ、ごめん。びっくりさせたね」
その声はまだ少し力ないが、口調はしっかりしている。
「ちょっと経ったら自然に治るものだから、心配しないで。大丈夫だから」
「貧血、ですか?」
「うん、まあ、似たようなもの。……僕ね、鳥が怖いんだ」
「は? 鳥が……ですか?」
確かに、こうなる直前、高槻のすぐ傍を鳥が飛んで行った。
だが、鳥といっても、さっきのはただの鳩だ。
「怖いって、どうして……鳩は人間を襲ったりしないですよ?」
「そう言われても、鳥全般怖いんだよ。恐怖症なんだ」
高槻がそう言って、立ち上がる。顔色は戻りつつあるが、まだふらつくようだ。
「恐怖症って、何でそんなに鳥が怖いんですか?」
「深町くんは、ヒッチコックの『鳥』って映画観たことない?」
「ないです」
「じゃあ、ぜひ観るといい。きっと君も、鳥が怖くなる」
「自分の恐怖症を他人にまで広めないでください」
「いやまあ、別にその映画のせいってわけでもないんだけどね。──昔から、どうも苦手なんだ。スズメとかインコとか、小さい鳥ならまだ大丈夫なんだけど……ああでも、あれも数がたくさんになると駄目だな。あのばさばさいう羽の音が、どうしても耳についちゃって」
顔をしかめて高槻が言う。どうやら本当に苦手らしい。だが、
「保健室とか、行かなくていいんですか?」
「大丈夫、研究室で休むよ」
「あ、じゃあ、荷物持ちます」
せめてと思って、高槻が拾い上げようとした鞄に手をのばす。
高槻は驚いたように何度かまばたきして尚哉を見て、かすかに笑った。
「ありがとう。でも、資料とかパソコンとか入ってるから、結構重いよ?」
「だったら、なおさら持ちます」
取り上げた鞄は、高槻の言葉通り、それなりの重さがあった。まだ足元のおぼつかない人間が持ち運んでいいものではないと思う。
高槻の鞄を手に歩き出した尚哉に向かって、高槻が言った。
「深町くんは優しいんだねえ。電車の中でお年寄りに自然に席を譲れるタイプだ」
「……別に。普通です」
「普通の定義はとても難しいんだよ。でも、君の中で、弱ってる相手に親切にするのが普通であるなら、それはとても人として好ましいことだと僕は思う」
「すごく学者っぽい言い回しですね、それ」
「これでも学者なものでね」
先程よりははっきりと、高槻が笑う。だいぶ気分が回復してきたのかもしれない。
高槻の研究室は研究室棟の三階にあった。各部の教諭と院生の巣となっている建物なので、一年生はあまり用のない建物だ。各研究室の扉にはそっけないナンバープレートと一緒に小さく教諭の名前が掲示されている。
高槻の部屋は、304だった。
尚哉もその後について部屋の中に入ろうとし──そこでぎょっとして足を止めた。
床の上に人が倒れている。
髪の長い女子学生だ。部屋の中央に置かれた大きなテーブルと壁際の本棚の間に、行き倒れたようにばったりと横たわっている。だぼっとしたシャツに年季の入ったデニムという格好。辺りには本が散乱し、ちょっとした事件現場のような様相を呈している。高槻が部屋に入っても彼女はぴくりとも動かず、開いたまま置かれた本にのばされた指はダイイングメッセージでも示しているかのようにしか見えない。
「え? え!? あっ、あの、きゅ、救急車とか、呼んだ方が……!?」
「ああ、大丈夫だよ。いつものことだから」
動揺する尚哉に対し、高槻は平然とした口調でそう言うと、
「おーい、
「んー……?」
高槻に肩を
「あー……あれ? アキラ先生?……やだ、寝ちゃってましたか、私……」
「まったくもう、研究発表が近いからって、あんまり無理したら駄目だよ? 煮詰まってるなら相談に乗るから、後で見せなさい。とりあえず床で寝るのはやめようね、ほっぺたに床の跡ついてるよ」
「あー……すみません、床が冷たくて気持ち良かったもんでー……」
高槻が差し出した手につかまり、瑠衣子が手近なパイプ椅子に腰を下ろす。高槻の言った通り、頰に床の継ぎ目の跡がくっきりついていた。フレームの赤い眼鏡をかけているが、それもずれかかっている。適当に引っ
と、瑠衣子の視線が尚哉に向いた。ずれた眼鏡の下の目がぼんやりとまばたきし、
「んー……? アキラ先生、誰ですかこの可愛い子……一年生? 君、名前は?」
「あ、ええと、文学部一年の、深町です」
「ああそう、あたしも一年よ、博士課程だけど。名前は
化粧気のない顔にふにゃふにゃした笑みを浮かべて、瑠衣子が言う。まだ相当
床に散らばる本を拾い上げながら、高槻が言った。
「瑠衣子くん、深町くんはお客さんだから、あまりちょっかいかけちゃ駄目だよ。とりあえずコーヒー入れてあげるから、それ飲んでもうちょっとしゃっきりして──あれ? 瑠衣子くん、君、今日は塾講師のバイトの日じゃなかった?」
その途端、瑠衣子がびくりとした。
ずれた眼鏡をようやく直し、手首にはめた腕時計に目を落とす。かっと目を見開き、がたんと椅子を鳴らして立ち上がると、
「しまった、忘れてた!……えっとえっと、今から帰って着替えてメイクして……よしっ、ギリ間に合う! それじゃあたし失礼しますっ、アキラ先生思い出してくれてありがとうございましたーっ!」
机の下に
思わずぽかんとして瑠衣子を見送った尚哉に、高槻が苦笑いして言った。
「深町くん。念のため言っておくけど、あれは割と駄目な院生の見本だよ。僕の研究室の子が皆ああなわけじゃないからね?」
「はあ……院生って大変なんですね……」
とりあえず色々駄目な感じらしいことはよくわかった。
「まあ、彼女はとても真面目で熱心ないい子だし、発表前の院生なんて研究室や図書館に半分住んでるみたいになるものだけどね。──さて、深町くん。
尚哉の手から自分の鞄を取り上げてテーブルに置きつつ、高槻が言った。研究室の奥へと歩いていく。
「せっかく来てもらったんだから、飲み物くらい出すよ。何がいい? 選択肢はココアとコーヒーと紅茶とほうじ茶。紅茶とほうじ茶はティーバッグ使用、ちなみにココアはバンホーテンだ!」
「あ、じゃあ、コーヒーお願いします」
「お薦めはココア……」
「甘いもの苦手なんです」
バンホーテンの袋を片手に心底残念そうな目で見ないでほしい。
さっきまで具合の悪かった人に飲み物を作らせたりしていいのかと思ったが、高槻の顔色はもうだいぶ回復していた。本人の言葉通り、少しすれば治るものだったらしい。
尚哉はパイプ椅子に腰を下ろし、研究室の中を見回した。
高槻の研究室は、そこそこの広さがあった。中央に置かれた大きなテーブルの他に、パソコンが載ったデスクが部屋の隅に二つある。入口の正面の壁には大きな窓があるが、残りの三方は全て本棚で埋め尽くされていて、なんだかちょっと古本屋のような匂いがする。専門書に交じって月刊ムーやらサブカル系の都市伝説の本やらがたくさん置かれているのが、とても高槻らしい。
窓の前には、湯沸かしポットとコーヒーメーカーが載った小さめのテーブルが置かれていた。その横の食器棚からマグカップを取り出しながら、高槻が言う。
「深町くん、研究室棟に入ったのは今日が初めて?」
「あ、はい。……ドラマとかに出てくる研究室って、意外と正しいんですね。なんか雰囲気とか、こんな感じだった気が」
「僕の研究室はだいぶ大人しい方だよ。考古学の
「……三谷先生って、市松人形の研究でもしてるんですか?」
「いや、単に三谷先生の趣味らしいよ。
飲み物を作りながら、高槻がそう言って笑った。
やっぱり聞き心地のいい声だなあと、その声を聞きながら尚哉は思う。
柔らかな声質やいつも楽しげな口調のせいもあるだろうが、それ以上に、高槻は噓を言わないのだ。講義のときと、さっき教室からここまで歩いてくる間しか声を聞いたことはないとはいえ、なかなか珍しい。
人は、息をするように自然に噓をつくものだ。相手を楽しませようとして多少話を盛るのだって、結局は噓と同じだ。なのに、高槻にはそれすらない。だからとても聞き心地が良い。この声ならずっと聞いていても安心できる気がする。
そう思った途端、心のずっと深いところで、声がした。
──だからといって、この先ずっとあの男が噓をつかないわけはないぞ、と。
びくりと
あいつだって、いずれ必ず噓をつく。そうに決まっている。
信用するな。線を引け。向こう側に踏み込むな。
だってお前は。
お前は『──』になったのだから──
「……深町くん?」
ふいに、すぐ間近で高槻の声がした。
驚いて顔を上げると、いつの間にか、トレーを手にした高槻が傍らに立っていた。役者のように出来のいい顔が、そこまで近づかなくてもいいのではというくらいの至近から尚哉の顔を
「どうかしたの、急に怖い顔して」
「あ、いえ……」
何でもないです、と答えようとしたとき、間近で見る高槻の両の
まただ。まるで田舎で見上げる夜空のような、深みのある
子供の頃よく訪れていた祖母の家で見上げた夜空が、ちょうどこんな色だった。ずっと見ていると、そのまま吸い込まれてどことも知れぬ虚空に投げ出されてしまいそうで、怖くなるほどだった。
「──先生って、ハーフかクォーターなんですか?」
思わずそう尋ねると、高槻はきょとんとした様子で首をかしげた。
「え? 違うけど、どうして?」
「あの……たまに、目が青っぽく見える気がして」
高槻はトレーをテーブルに置きながら、少し困ったような顔をした。
「それ、時々言われるんだけどね。自分じゃわからないんだよなあ……まあ、
高槻がトレーからコーヒーの入ったマグカップを取り、尚哉の前に置いた。全面にサイケデリックな絵柄の大仏が描かれた、なんというか前衛的なカップだった。
「……なぜ大仏?」
「ああ、それね、前に研究室の学生の一人が、奈良に行ったお土産にくれたんだ。深町くんは大仏は嫌いかい?」
「いや、嫌いとかそういう問題じゃ……ていうか先生、それ……」
「ん? 何か変かな?」
言いながら、高槻が尚哉の隣の椅子に腰を下ろす。
高槻が手にしている青いマグカップには、なみなみとココアが入っていた。しかも、上にはマシュマロまで載っている。漂う甘い香りに頭がくらくらしそうだ。
「……先生、甘党なんですね」
「
ということは、この人は普段からこんなでろ甘そうなものを摂取しているのだろうか。それでよく太らずにいられるものだと思う。まあ、この甘い顔立ちなら、甘ったるい飲み物も似合わなくはないが。
「さて深町くん、それじゃ本題に入ろうか。──君の書いた不思議な体験の話だ」
カップの中身を一口飲んで満足そうに微笑み、高槻が言った。
「同じように不思議な話を書いてくれた学生は何人かいたけど、大半はネットや本から引き写したものを多少アレンジしたもののようだった。でも、君の書いたあれは、そういうのとは違っていた。ああこれは本当に体験したものなんだろうなって思える雰囲気でね。だから呼んだんだよ。そう、あれは……こういう話だったね」
そう言って、高槻は、ふっと空中を見つめるような目つきをした。
口を開く。
「『僕が小学生のときのことです。
田舎にある祖母の家に遊びに行ったとき、一度だけ、真夜中にお祭りをやっていたことがありました。
お祭り自体は毎年あって、僕も行くのを楽しみにしてましたが、その年は、僕は熱を出してお祭りに行けませんでした。でも、夜中に目を覚ましたら、太鼓の音が聞こえて、それで、まだお祭りをやってるんだと思って、こっそり一人で祖母の家を抜け出していきました。
お祭り会場に着くと、やっていたのは盆踊りだけで、屋台は全部閉まっていました。
見たこともない青い
朝になって、そのお祭りの話を家族や祖母にしてみたのですが、皆「そんなお祭りは知らない、そんなものやっているわけがない」と言うばかりでした。
もしかしたら夢だったのかもしれませんが、自分の体験した不思議な話ではあるので、一応書いておきます』」
まるで空中に文字が書いてあるのを読み上げているかのようだった。
尚哉はびっくりして高槻を見た。
尚哉自身、正確に自分が書いた内容を覚えているわけではないが、高槻が今言った通りだった気がする。もしかしたら一言一句同じかもしれない。
「先生、俺が書いた文章全部覚えてるんですか?」
「さっきも言ったでしょう、僕は他の人より少し記憶力がいいんだ。一度読んだことは覚えてしまえるんだよ」
「それって……『瞬間記憶能力』とか『超記憶症候群』とかいうやつ、ですか?」
前に何かで読んだことがある。見たものや聞いたもの、起こった出来事を全てそのまま記憶してしまえる人達がいるという話だった。
「うん、まあ、そんな感じかな。この職業においては結構便利で助かってるよ」
あっさりした口調で高槻が言う。どうりで、講義に出席した学生の顔を毎回覚えているわけだ。他の学生が書いたものを引き写しと断じたのも、以前ネットや本で読んだ文章を全て正確に記憶しているからなのだろう。
「僕のことより、深町くんのこの体験の方が大事だよ。幾つか質問させてもらいたいんだけど、いいかな?」
「はい。……昔のことなんで、もうそんなに覚えてないですけど」
「じゃあ、覚えてる限りでいい。──小学生のときというのは、具体的にいつのことだったの? 何年生だった?」
「四年生でした」
「そう。じゃあ、もう結構大きいね。知恵も知識もだいぶついている頃だ。田舎っていうのは、どこのこと?」
「長野です。長野の、駅から遠い山の方……具体的な住所とかはよくわからないんですけど。あの頃は毎年行ってたけど、住所とか意識したことなかったから」
「『見たこともない青い提灯』という表現が気になったんだけど、これは? 普段のお祭りでは、青い提灯は使ってなかったということかな?」
「はい。いつもは赤い提灯で、真ん中にお店の名前とか書いてあったんですけど……あんな青いのは初めて見ました。その後も、見たことはないです」
その次の年に
高槻は興味深げな顔でうなずいている。メモを取ったりしないのは、その必要がないからだろう。
「あのレポートには、お祭りに行った後に君がどうしたのかが書いてなかったね。一緒に盆踊りをして、朝までそこにいたの?」
「あ、いえ……一緒に踊ったりはしなかったです。その……輪の外で、見てただけで。それで、気がついたら朝で、いつの間にか布団の中に戻ってて。だから夢だったのかなって思ったんですけど」
「そう。それはよくあるパターンだ。でも──『あれは夢ではなく、本当に体験したことだったのかも』と思わせる何かが、あったんだよね?」
高槻の問いに、尚哉は一瞬答えに詰まった。
その隙をつくように、高槻はさらに続ける。
「ただの夢だと思っているなら、君はこの話をレポートに書かなかったはずだよ。夢じゃないと思わせる何かがあったんだ。真夜中の祭に参加した証拠となるような何かがね。それは何? 一体君は何をもって、あれは夢ではなかったと判断したの?」
さすが鋭い。やっぱり頭のいい人なんだな、と尚哉は思った。
……どこまでなら、話しても大丈夫だろう。
即答できなかったのをごまかすように手元のカップを口に運びながら、慎重に考える。サイケな大仏柄にさえ目をつぶれば、コーヒーの味自体は悪くなかった。
あの夜のことを全てありのまま話したところで、信じる者などいない。それに、あの夜の話をするのであれば、この耳の事情まで話すことになってしまう。だが、それこそ誰も信じないような内容だ。話さない方がいい。
カップを置き、尚哉は口を開いた。
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