四章 君のための一皿③


 


 *  *


 最初は、卵の代わりに折り畳んだきんを卵焼き用の四角い銅なべに載せ、手首のスナップを利かせながら、さいばしで向こうから手前に卵を畳む練習を繰り返す。

 それが出来るようになったら、今度は鍋の幅に合わせてカットしたこんにやくで、同じ練習をする。蒟蒻は滑るので、布巾よりずっと難しい。

 その初歩的な段階をクリアするだけで、すでにうしどきになっていた。

 それから、だし巻きの命である一番だしを取り、だしと卵を合わせて卵液を作る練習を始めた頃には、空が白み始めていた。

「ええか、まずは卵をといて、白身と黄身がええ感じに混ざったら、だしを合わせる。ほんで、滑らかに均等に仕上がるように、卵液を必ず裏ごしせえ」

 そんな丁寧な手を掛けた調理は、海里にとって初めての経験だった。

 何しろそれまでは、五分でプレゼンテーションまで持っていかなくてはいけないので、いかに時短で済ませるか、というのが大命題だったのである。

 卵液が調製出来るようになって初めて、彼は鍋を火にかけることを許された。

 そこからは、まさに地獄の自主練習である。

 夏神は、焼き方を口頭で教え、一度だけやってみせると、「ほな、俺寝るわ」と二階へ去ってしまった。

 知識は与えた、技術も教えた、あとはお前の努力次第だ……ということなのだろう。

「よーし……!」

 海里は、夏神愛用の、すっかり油のんだ鍋に丁寧に油を引き、教わったとおり、強めの火加減で卵を焼き始めた。

「手首を返して、向こうからこっち……うわっ、何だよ、全部いっせいに滑ってきた!」

 悲鳴に似た声と共に、卵の最初の層が、みるみるうちに乱れたシーツのような無様な形で固まっていく。

「あああ……! 何だこれ。くっそ、初手から失敗かよ~」

 無論、そこで卵を無駄にするわけにはいかないので、練習がてら最後まで焼いてみたが、もたついているうちに卵が焦げ、しかも両端で明らかに太さが違う。

 切ってみると、焼き加減もまちまちで、火が通りきっていない卵がドロリと流れ出す部分があれば、カチカチに焼き切ってしまった部分もあり、どう考えても「美味おいしそう」には見えない。

「さ……最初はこんなもんだよなっ?」

 それでも失望を押し隠し、強がりを言う海里に、朝になって眼鏡に戻ってしまったロイドも、カウンターの上から力強く応援する。

「ええ、そうですとも! 必ず、我が主ならやり遂げられます。このロイド、ずっと見守っておりますよ」

「おう、頼むぜ!」

 けんこうな二人のやり取りを、夏神は階段の上でこっそり聞いていた。

「……あの元気が、いつまで続くやろか。昼にはべそかいとるやろなあ」

 そんな笑い交じりのつぶやきを漏らすと、彼は大あくびをしながら、居間兼寝室へ引き上げたのだった。


 ところが、夏神のそんな予想は、見事に外れた。

 海里は、数回、闇雲に卵を焼いては無残に失敗するというパターンを繰り返した後、かんしやくを起こして一度は鍋を放り投げたのだが、ロイドの諭しもあって、気を取り直した。

 そして、再び濡れ布巾での練習に戻ったのだ。

 卵を焼いたときに失敗した段階を、濡れ布巾と蒟蒻でかんぺきに克服する。

 そして満を持して卵を焼き、また失敗したところを代替品でやり直す。

 根気強い練習を、ほんの短い休憩を経て延々繰り返した海里は、とうとう午後七時前、夏神が「まあ、ええん違うか」と合格点を出すようなだし巻き卵を焼き上げることができた。

 そのときには既に、鍋を振りすぎた海里の左手首はれ上がり、前腕の筋肉は石のように固くなっていた。男にしてはれいな手にも、あちこちに油が跳ねて痛々しい水ぶくれが出来ている。

 火にあおられて頰を赤くし、ヘトヘトに疲れ果てながらも、海里はとても高揚した気持ちだった。

「本当に、美味しゅうございますよ、我が主」

 日没を待ちわびて人間の姿になったロイドは、満面の笑みでだし巻き卵を頰張った。

 どうやら、海里の練習を見守りながら、ずっと食べてみたいと思っていたらしい。驚くほど器用にはしを使っている。さすが日本育ちというべきだろうか。

 夏神も海里もだし巻き卵を注意深く味わい、笑みを交わした。

 火加減は均等で、ギリギリ火が通ったふんわりした軟らかさを保っている。えて巻きで形を整えなくても、ふっくらしたシルエットはそのままで美しく、焼き色はほとんどついていない。

 太さはどこも均一で、箸で軽く押しただけで、極限までたくさん含ませた香り高いだしが、層になった断面からじゅわっとあふれ出してくる。

 卵とだし、そして太白ごま油の優しいこく。どこに出しても恥ずかしくない、立派なだし巻き卵である。

「よう頑張ったな」

 夏神は、ホロリとした笑顔で言った。しかし海里は、真顔になってかぶりを振る。

「その台詞せりふは、全部終わってからもらう。まだ、準備が済んだだけだから」

 ぜんとした態度でそう言い放った海里に、夏神は本気で驚いた顔をし、それから「ほおう」と、いかにも感心しきりの声を出した。

「な、何だよ」

「お前、面構えがちょっとだけ変わったで」

「え?」

「出会ったときは、何もかもがどうにでもなったらええっちゅうやけっぱちのすさんだ顔やったし、次の日からも、飼い主に捨てられたワンコみたいな顔やった。けど、昨日お前が言うたみたいに、ようやく、地面を踏みしめて、しっかり立っとる男の顔や」

「……夏神さん……」

「頑張れや、イガ。俺はこれ以上、何もしたれへんけど、応援だけはガンガンするからな」

「いや、そんなこと言ってる場合じゃなくて、店開けなきゃ」

 壁掛け時計に目をやり、海里は夏神にそう言った。だが夏神は、ゆっくりとかぶりを振った。

「今日は、従業員研修につき臨時休業」

「は!?」

「……て、張り紙してあるねん。今朝、寝る前に出してきた」

「えっ……? ちょ、俺のためにそんな……大損じゃん! 駄目だよ、そんなの」

 海里は焦ってウロウロと視線を彷徨さまよわせる。

 それでも夏神は、泰然とした態度で、海里の頭をぽんぽんとたたいた。

「金銭的には損かもしれへんけど、この店で初めて、幽霊が救われるかもしれへんのや。それは、俺がしとうてずっとできへんかったことやから。お前がやり遂げてくれたら、俺もうれしいんや。せやからええねん」

「……なんか……お人し過ぎだよ、夏神さん。行きずりの俺なんか拾っちゃって、ここまでしてくれて」

 夏神は、だし巻き卵の最後の一切れを、ロイドの抗議の視線をあっさり無視して頰張り、あっけらかんとした笑みを浮かべる。

「そう言うお前も、行きずりの眼鏡を拾ったやないか。師弟で似たり寄ったり、ええこっちゃ」

「うん。……だな。何かいいな、お人好し師弟って」

「せやな」

「へへっ」

 ひどくはにかんだ、芸能人時代は決してしなかった無防備な笑みを浮かべ、海里は片手を上げる。夏神は、その手に自分の一回り大きな手のひらを勢いよく打ち合わせた……。



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