四章 君のための一皿②





 そんなこととは知らない海里は、夜の十時過ぎ、店内に客がいなくなると、カウンター越しに幽霊の青年と向かい合った。

「なあ! 昨夜、俺の顔を見て、俺の声を聞いて、俺の真似したろ? 『ディッシー!』ってさ。あっ」

 昨日よりはずっと控えめに、しかしその分、青年の顔に自分の顔を近づけて、海里はかつての決めポーズと決め台詞ぜりふをもう一度再現してみせた。

 やはり、青年のお面のような無表情が揺らぎ、うつろな目にほんの少し力が戻ったのがわかる。青年は、ずっとひざの上に置いていた右手を、昨夜ほどではないにせよ、軽く上げてみせた。

「やっぱり……。やっぱりお前、俺のこと知ってるんだな。俺の料理コーナー、見てくれてたんだよな?」

 海里はき込むように問いかけたが、青年の首は、ゆっくりとうなれていく。ただ、カウンターの上にぱたりと落ちた彼の右手から、カウンターの木目模様が透けて見えた。

 それを見て、海里のまゆが曇る。

「おお、この幽霊は、もはや消えかかっていますね。今夜ではないにせよ、明日あしたの夜か、明後日あさつての夜か……近いうちに、消えましょう」

 不意に、傍らで痛ましげな声がした。見れば、いつの間にかロイドが人間の姿になっている。海里は、青い顔でロイドをカウンターの反対側に引っ張っていき、ささやき声で問い詰めた。

「消えるって、どういう意味なんだ? この世に心残りがある人間が、幽霊になるんだろ?」

「まあ、たいていはそうでございますね。強い未練、執着、恨み、悲しみ……何にせよ、この世に強い想いをのこした人間が、そのまま現世を去りがたく、命を落とした場所の近辺をうろうろ彷徨さまよってしまう。それが幽霊というものでございましょう」

 ロイドの説明は、常に話の長い彼にしては、実に簡潔だった。海里は押し殺した声で問いを重ねた。

「それが薄くなって消えてくって、どういうことなんだ? 想いが薄れるってこと? この世に居残った理由が、もうどうでもよくなるってことか? 消えるって、幽霊にとっては安らかなことか?」

 そうであってほしいと願う気持ちがこもった問いかけに、出会ったときから……彼いわくの「眼鏡生最大の危機」にあっても常にひようひようとしていたロイドが、初めて甘やかな顔をゆがめた。

 どこかつらそうに、言いにくそうに、彼は数秒の沈黙を経てから、実にエッジの鈍い口調でこう言った。

「恐れながら、我があるじ。幽霊の消滅は、人間の眠るような死とは違います」

 夏神も、たまらず会話に割って入る。

「どういうことや? 未練が薄れるから、姿も薄れるんと違うんか?」

 ロイドは目を伏せ、小さく嘆息してからかぶりを振った。

「いいえ。肉体を失った魂は、いかにこの世に想いを遺そうとも、長く姿を保つことはできないのです。何一つ報われぬまま、手に入れられぬまま、ただ、強い想いを抱いたままおのが魂が崩れ、ちりと化していく刻々を味わうしかありません。たとえるならば……」

「たとえるなら? 何だよ、もつたいつけんなよ」

 海里の声は上擦っていた。三人の話になど興味がない様子で黙然と座っている幽霊を見やり、それからロイドに視線を戻す。

 苦痛に耐えるような低い声で、ロイドは囁いた。

「たとえるならば、生きながら、つま先より獣に食われるようなものでしょうか。徐々に虚無が己をんでいくのを、おそらくは最期の瞬間まで味わい続けて消えるのです」

「そんな……」

 まるで託宣のような言葉を受け入れがたくて、海里は、今度こそロイドの襟首をわしづかみにした。ロイドに罪がないのはわかっていても、「生きながらつま先より獣に食われる」という彼のたとえは、あまりにも恐ろしく、衝撃的だったのだ。

「冗談じゃねえぞ。じゃああいつ、何も見てない、何も考えてないみたいな顔して、ここに来てる間ずっと、ホントは苦しんでるのか?」

 ロイドは主の蛮行をとがめようともせず、ただされるがままになりながら、つま先を軽く浮かせ、瞬きでうなずいた。

「わたしは幽霊になったことがありませんし、前の主は安らかに亡くなったので、幽霊にはおなりになりませんでした。ですが……幽霊とはさようなものだと、前の主より聞き及んだことがございます。前の主の専門は、中国の古いじゆつでございましたゆえ、魔のたぐいにはたいそう詳しいお方でした」

「……じゃあ、ホントは違うのかも?」

「いえ、今、付喪神……でしたか。そのようなものに己がなってみると、あの幽霊を見ると感じるのでございます。彼の、態度に表せぬ悲嘆を。徐々に己の存在をあきらめねばならない悔しさを」

 海里の両手から、ゆっくりと力が抜けていく。襟元を直しながら、ロイドは同じくらいの身長の海里の顔を、自分の顔を幾分斜めにしてのぞき込んだ。

「我が主よ。あなた様は、あの青年の哀れな魂を救いたいと思っておられる。何故です?」

 夏神は、そっと二人から離れ、スツールに静かに腰を下ろした。自分がかかわるより、今の話は海里とロイドの二人に任せておいたほうがいいと判断したのだろう。

 海里は、つい最近まで自分が身を置いていた世界について、短くロイドに語った。

 突っ立ったままじっと耳を傾けていたロイドは、ああ、と深く頷く。

「なるほど、我が主は心優しきお方。わたしを助けてくださったように、あの若者に救済を与えたいと願っておられるのですね」

 海里は戸惑い顔で首を振る。

「救済とか、そんな大層なもんは無理だよ。だけど、せめて安らかに消えさせてやることって出来ないのか?」

 しばらく考えてから、ロイドは真剣な面持ちで答える。

「彼の心残りは、彼の死により、決して果たされぬこととなりました。ですが、せめて温かなもの、暗い念を中和するような幸せな想いで彼の心を満たすことができたなら、あるいは」

「どうやったら、その温かなものとか、幸せな想いとかをあげられる? 俺はあいつが俺のファンだったってことだけしか知らない。どこの誰かも知らないし、それを知ったところで、何をしたらあいつが幸せに思うかもわかんないだろ」

「…………」

 再び、思慮深い表情で、形のいいこめかみに片手を当てて考え込んでいたロイドは、やがて手を下ろし、真っ直ぐに海里を見つめた。

「な、何だよ、急に真面目くさった顔になったりして」

「いつもにやけているようにおつしやらないでください。わたしの命を救ってくださったお礼が、ささやかながらできるかもしれません、我が主よ。これまで一度も試したことがないので、上手うまくいくかはわかりませんが」

 海里の涼しげなひとみに、熱がこもる。

「お前が力を貸してくれるってことか?」

 ロイドは頷き、右手を胸元に恭しく当てた。

「微力ながら。……わたしが眼鏡に戻りましたら、まずはレンズを外してください。両目ともです」

「だけど、前のご主人の目に合わせたレンズなんだろ? 大事なものなんじゃ……」

 海里は躊躇ためらったが、ロイドは微笑してかぶりを振った。

「いいえ。前の主はもうこの世にはいらっしゃいません。あの方の目にしか合わないレンズは、もはや用をなさないものです。そう難しくはありません。ゆっくりとレンズの中央を親指の腹で押していただければ、外れます」

「出来るかな。そんなこと、やったことないよ」

「大丈夫です。我が主でしたら、何の問題もなくお出来になります。そうしたら、わたしをお掛けになり、あの青年の顔を見てください」

「お前を掛けんの? 俺が? 丸眼鏡を?」

 いささか嫌そうに顔をしかめた海里に、ロイドはひどく傷ついた表情になる。

「何とも情けないことを仰る。あの青年を助けたいと思っておいでなのではないのですか? 大丈夫、きっとお似合いでございますよ」

「う、うう……うん」

「青年に、あなた様が今抱いておられる想いを、正直にぶつけてください。その上で、彼があなた様に救われたいと思ったならば、彼は秘めた想いを開くでしょう。それをあなた様が見られるよう、わたしがお助け致します」

「あいつの……心が見える?」

「おそらく。そうすれば、あの青年のため、あなた様が何ができるかも、おのずとわかろうというものです」

 海里は身体をねじって、ロイドと青年の顔を幾度か見比べ、それから頷いた。

「わかった。頼む。力、貸してくれよ」

「かしこまりました。では、あとはよろしくお願い致します」

 そう言うが早いか、ロイドは眼鏡の姿に戻り、海里のシャツの胸ポケットに潜り込む。

「……頑張れよ」

 夏神は、少し不安げな海里に向かって、あめめながらただ一言をかける。

「うっす」

 深呼吸して気を落ち着かせると、海里は眼鏡を取り出した。

「親指の腹で押す……ってことは、内側からだな。真ん中から、ゆっくり……おわ!」

 少し怖かったが、指の腹にジワジワと力を込めていくと、レンズは意外とあっさり外れた。どうやら、力を加える場所とタイミングにコツがあるようだ。

 ドキドキしながら二枚のレンズを外すと、海里はすっかり軽くなったフレームだけの眼鏡を、慎重にかけてみた。

「……わははは、うとんで」

 容赦なく笑う夏神を、海里は恨めしげににらむ。

「全然心がこもってねーし! くそっ、絶対、鏡なんか見ねえからな! つか、レンズ外しても大丈夫か、ロイド?」

『わたしのことはご心配なく、我が主。幸運を、お祈り致しております』

 すぐ耳元でささやかれているように、出会ったときより温かみの増したように思われるロイドの声がした。

「ありがとな」

 囁き返して、海里は幽霊の青年にゆっくり歩み寄った。カウンターの中から上半身を乗り出し、ふとそうしたほうがいいような気がして、卓上に置かれたままの青年の右手に、自分の左手を重ねてみた。

(あ、さわれる)

 まずは、幽霊に触れることに驚いた海里だが、人間に触れたときとは、まったく感触が違っていた。

 とにかく、冷たい。

 氷の塊を触っているように、肌がしびれるほどの冷たさを感じる。そのくせ、綿菓子に手を突っ込んでいるようなはかない触り心地しかしないのだ。

 これまで味わったことのない違和感を覚えつつ、海里は青年の心に届くように、ゆっくりと言ってみた。

「なあ。お前、俺のファンでいてくれたんだろ? 俺の料理コーナー、見てくれてたんだよな? すっげえうれしいよ。……俺は、お前がどうして死んだのか、知らない。お前が、幽霊になっちまうくらい、この世にどんな想いを引きずってんのかも知らない。でも……お前が今、ひとりぼっちですごく苦しんでるってことは、知ってる」

『…………』

 青年は何の反応も見せないが、海里は構わず、熱っぽい口調で話し続けた。

「ここに通ってくるってことは、誰かに助けてほしいんだろ? でも、お前自身も、どうすれば助けてもらえるのかわかんないんだろ? ……ファンでいてくれたお礼に、俺が、お前を助けたい」

『…………』

 助けたいという言葉にかすかに反応し、青年はゆるゆると顔を上げた。この機を逃してはいけないと直感し、海里は畳みかけるように言葉を重ねた。

「そんなこと言っても、何が出来るか、ホントに助けられるかはわかんねえ。でも、努力はさせてくれないかな。お前のためっつーより、俺のために。お前のこと、俺に教えてくれないかな」

 青年の生気のない瞳を見据えたまま、海里は一息にしやべり終える。

 だが、青年は何の反応も示さない。

(くそ、やっぱ駄目か……?)

 海里の心が不安に揺れ始めたとき、彼は、青年の目にほんの少しだけ、光が戻った気がした。

「あっ……?」

 気のせいかと思ったが、確かに、青年の目に意思の光が宿りつつある。彼は、自分の意志で、海里の目を見つめ返してきた。

 そして、半ば透けてしまった青年の右手が海里の手の下でゆっくりと動き、海里と指をゆっくりと組み合わせる。

 やはり、雲に触れているような軽い感触しかないのだが、それでも確かに、青年は海里に触れていた。

「お前……あ……これ、は……?」

 海里は息をんだ。

 不思議にゆがんだ、音のない、切れ切れの映像が、ちら……ちら……と目の前をよぎり始めたのだ。

 レンズが入っていないはずの眼鏡が、その映像を彼に見せている。

 つまり今見ているのは、おそらく青年の生前の記憶だ。彼の心に今なお焼き付いている、現世への執着そのもののはずだ。

 それに気付いて、海里は全身の神経をそこに集中させた。

(ああ……俺、この緊張感知ってる。ミュージカルの初日……いちばん最初に舞台に上がったときと同じだ。未知の世界に足を踏み入れるときの、ゾクゾクする感じだ)

 海里の心に、そんな想いが浮かぶ。懐かしさと緊張感が、同時にこみ上げてきた。

(頼むぜ、ロイド)

 そんなことをしても意味はないのかもしれないが、目を見開き、つなぎあった手に力を込める。青年の手の甲に指がめり込むような感覚があったが、気にしてはいられなかった。

(ああ……見える)

 古い無声映画を見ているような断片的な映像でも、彼がどんな人生を送ってきたのか、海里には痛いほどわかった。

 彼を取り囲んで、おそらくは悪口やとうの言葉を口にしているのであろう、学生服の少年たち。

 汚物に汚された靴。破られたノート。顔に近づけられるぞうきんや火の付いたマッチ。

 映像は突然白黒になったり、激しく乱れたり、そうかと思えばどぎつすぎる色彩になったりする。それは、当時の青年の心模様を反映しているのかもしれない。

 暴力を思わせる映像がしばらく続いた後、そこからは、墨絵のようなとろんとした重い空気が支配する光景が続いた。

 狭い室内。引いたままのカーテン。

 布団、天井、部屋の隅っこから見上げた本棚。

 通販書店のダンボール箱、テレビ、テレビ、テレビ、雑誌、テレビ……。

 部屋をのぞいては、暗いまなしで出ていく大人たち。扉の隙間から覗き見た、泣いている母親らしき女性の姿。

(つまり、中学か高校でいじめられて、引きこもったってことか。マジで家から出てない感じだな。きっついな、これ……)

 青年がかつて置かれた状況がリアルに胸に迫って、海里は息苦しさにせきをした。だが、次の瞬間、彼の心臓はドキンと胸壁に衝突する勢いで打った。

 テレビの画面で、笑顔をふりまいていたのは……海里だった。

 スタイリストに頼んで、オーダーしてもらったコック服とコック帽。メーカーとコラボした、洒落しやれたデザインのなべや包丁。

 青年の、灰色によどんだ部屋の中で、海里だけが鮮やかな色合いで輝いていた。

 必要以上にフライパンを大きくあおるアクションは、海里のお得意だった。ブランデーを注いでのフランベ、わざと油を跳ねさせて、あちち、と言って女性たちにアピールする仕草、そして……出来上がった料理を皿に盛り、「ディッシー!」という例の馬鹿馬鹿しい決めぜりふと共に、皿をカメラに向かって突き出す仕草。

(……恥ずかしくて死にてえな……)

 海里は顔にかあっと血が上るほどのしゆうを覚えた。

 調子に乗った自分、というのは、これほどまでに恥ずかしい存在なのだろうか。

 いかにも何から何まで自分で作ったような顔をしているが、野菜をれいに切りそろえてくれたのも、調味料を調整してくれたのも、盛りつけを撮影用に直してくれたのも、全部他人だ。それなのに、何故、自分はこんなにも得意げな顔をしているのだろうか。

(だけど……そんな俺を、こいつは素敵だって思ってくれたんだ。俺の姿が……俺だけが、こいつには輝いて見えてたんだ。こんなにまぶしく)

 初めて、ファンのむき出しの心に触れて、羞恥と同じくらいの感動が、海里の胸を満たす。

 だが、またしても画面が変わった。

 今度は、白っぽい世界だ。

 水道つきのシンクと、テーブルがいくつも並んだ、広い部屋。教室のようだ。

(理科の実習室か? いや、……調理実習室……あ、調理師学校だ! ああ、そういうことか)

 海里はぼうぜんとした。

 海里にあこがれ、青年は料理人を目指したのだ。きっと何年も閉じこもっていた部屋から再び外の世界に踏み出す勇気を、この青年は海里から得たのだ。

(俺が……こいつの人生を変えた……?)

 初めての実感に、胸が熱くなる。

 しかし……彼の調理師への道は、あまりにも険しかったらしい。

 テキストの最初のページに載っている料理の品目は、だし巻き卵。

 和食のコースなのだろう。教室の一番前で、平たい帽子をかぶった、いかにも料理人然とした初老の男性が、レクチャーをしている。

 そして、広い教室で、皆がいっせいにだし巻き卵を作り始める。ボウルに溶かれた卵の黄色、まだ真新しい、銅製の卵焼き器、長いさいばし

 明るい色彩は、彼の心の中に芽生えた希望そのもののみずみずしさだった。

(何だよ。すっげえ楽しそうじゃん。……あ)

「ああ……あ」

 思わず、海里の薄く開いた唇から、うめき声が漏れた。

 画面はまた、極彩色に転じた。彼が激しい苛めを受けていたときの、あの毒々しい色合いだ。

 紫やショッキングピンク、蛍光グリーンに彩られているのは、鬼の形相になった、あの和食の講師だった。

 きっと、厳しい指導がなされたのだろう。

 皿の上の、形の崩れただし巻き。また、違う形に崩れただし巻き。次は焦げただし巻き。

 無残に失敗しただし巻きが、次から次へとスライドを送るように映し出される。

 その合間に挟まる、講師の怒り顔、同級生たちのあきがお、テーブルに落ちる涙、火傷やけどを負った指……。

 目が痛くなるようなどぎつい色は突然消え去り、最後に一瞬映ったのは……彼がかつて閉じこもった自室とおぼしき部屋……そのクローゼットの取っ手に結びつけ、輪の形状にした電気コードだった。

「や……めろ、って」

 海里は、かすれた声を漏らす。

 何が起こったか、直感的に彼は理解していた。

 希望を持ったのも束の間、講師の厳しいしつせきに、苛められた記憶がフラッシュバックしたのだろう。そして、絶望した彼は、自室で首をった……。

 そう確信するのとほぼ同時に、重いシャッターが目の前で突然落ちたような衝撃が海里の全身を襲い、視界が暗転する。

「……が……イガッ!」

 気付けば海里は床にしりもちをついており、血相を変えた夏神が、背後から海里を抱き起こしていた。おそらく、こんとうしかけた海里を、危ういところで夏神が受け止めてくれたのだろう。

「あ……だ、だい、じょうぶ。あいつ……は?」

 呼吸が乱れ、鼓動が速くなりすぎて苦しい。それでも海里は、夏神の腕を借り、ヨロヨロと立ち上がろうとした。

「おい、無理すんな。とりあえず、座れ。幽霊やったら、お前がひっくり返ったんと同時に消えた」

 そう言って、夏神は海里をスツールに座らせ、ひっくり返らないように、自分は彼の背後に立つ。

「はあ……消え、た……!?」

『大丈夫、本当の意味で消滅したのではありません。ただ、ここから去っただけです』

「そっか……よかった」

 ロイドの説明にあんしつつも、全身の恐ろしいほどの疲労感に、海里は目を閉じた。

 鼻の上にずっと感じていた眼鏡の重みが消えたと思うと、今度は上のほうからロイドの静かな声が降ってくる。

「申し訳ありません。わたしとしても初めての経験でしたので、繫いだ記憶の切り時を見極められませんでした。生きながら、他者の死を体験するのは、さぞおつらかったことかと」

 そんないたわりの言葉と共に、ロイドのシャツ越しでも冷たい手が海里の肩に置かれる。

「や……ありがとな。見えた。って言っても……きっとあいつの人生のごく一部なんだろうけど……あいつが、つらいことばっかりの生活の中で、俺に……俺なんかに憧れてくれたことだけはわかった……」

 夏神は、海里の口元に、水を注いだグラスをあてがう。ごくごくとすべて飲み干し、海里はようやく長い息を吐いた。

 死のふちから戻ってきた人は、皆、こんな脱力感を体験するのだろうか。

 上半身を夏神のたくましい胸に預けて、海里は二人に自分の見た光景について話した。

 夏神は何も言わなかったが、ロイドはあまり大きくない目をさらに細め、「ご立派でした」と言葉少なく海里を褒めた。

 どうでもいいときにはじようぜつなくせに、肝心なときには言葉が出てこないらしい。ロイドのそんな意外な不器用さに気づき、海里は目を開け、ちょっと笑った。

「もっとたたえてくれてもいいんだぜ。……あいつ、きっと不登校や引きこもりや、せっかく行った調理師学校ですぐにせつしたことや……結局、何もやり遂げられないまま自殺したことが心残りで、幽霊になっちまったのかな」

「そうかもしれません。彼の心と、ほんの短い間でもつながったあなたがそう感じるのならば、おそらくそうなのでしょう」

 両手を後ろで組み、恭しくそう言ったロイドを、海里はまだ青白い顔で見上げた。

「けど、そんなあいつに、俺は何をしてやれる? 何をしたら、温かい気持ちをあげられるんだろうな」

「彼の人生を知ったあなたが、彼のために出来ると思うこと、してあげたいと思うことを素直に実行なされば、それがお二方にとって最上のことかと」

 ロイドの助言は、とても哲学的、抽象的だった。しばらく考えた海里は、重いまぶたを開き、迷いながらこう言った。

「俺……いじめられたことないから、苛められっ子の気持ちはわからない。引きこもったこともない。だけど、ミュージカルにしても料理にしても、失敗して、練習しても上手うまく行かなかった気持ちだけはわかる。だから……今の俺に出来ることといえば……。そうだな。あいつが上手く焼けなかった、だし巻き卵を作る……? とか?」

 何とも頼りない感じで語尾の上がった発言だったが、ロイドはそれを聞くなり、おお、と端整な顔をほころばせた。

「それは素晴らしいお考えです、我があるじ。どんな人にとっても、手料理というのは、心温まるものです。それが憧れの人の手によるものなら、なおさらでしょう。前の主も、晩年、亡き奥様の手料理を、ずっと恋しがっておられました」

 海里は、戸惑い顔で自分の両手を見下ろした。

「だけど俺、だし巻き卵なんて、作ったことねえし。フツーの卵焼きですら、オンエア中に失敗したんだぜ? 俺史上、最高の超赤っ恥回だったんだから」

「おけいなされば、作れるようになりましょう」

「けど、時間がないんだろ? あいつ、近いうちに消えちまうんだろ?」

「さよう……確実を期すなら、明日あしたの夜を最後の機会と考えるべきでしょうね」

「それまでに……それまでに、あいつを失望させないような美味おいしいだし巻き卵……うあああ、やっぱ無理だ!」

 海里は絶望の声を上げ、頭を抱えてしまう。

 そのとき声を発したのは、ずっと沈黙し、海里の背もたれに徹していた夏神だった。

「作りたい気持ちはあるんか?」

 海里は、すがるような目で夏神を見て即答する。

「そりゃあるよ! 気持ちだけだったら、二百五十パーセントだよ!」

 疲れていても力のある声を聞いて、夏神はのっそりと立ち上がる。

「それやったら、教えたる」

「えっ? 夏神さんが? マジで?」

 夏神は、ニッと笑ってうなずく。

「さっきお前、俺のことを料理の先生やて言うたばっかしやないか。それやったら、俺が教えなアカンやろ」

 海里は、自分の気持ちを落ち着かせるために、無意識に胸元を手のひらでとんとんとたたいた。

「それって、明日の夜までに出来るようにしてくれるってこと?」

「それはお前の努力次第やろが。俺は、作り方を教えたるて言うてるだけや」

 海里は胸に手を当てたまま数秒考え、そして、軽くよろめきながらも立ち上がった。

「じゃあ、教えてくれよ。俺、やるから。必ず、あいつがさすが五十嵐カイリって納得できるようなだし巻き卵を焼けるようになるから」

「よっしゃ。ほな、今から始めるか?」

「……お願いします!」

 海里は背筋を伸ばすと、頭がひざに付くほど深く、夏神に頭を下げる。

「我が主を、どうかよろしく御願い申し上げます。……その、わたしにも手伝えることがあれば、何でも致しますので」

 海里の半歩後ろに立ち、ロイドも優雅な仕草で一礼した。

「おう。任せとけ。久しぶりに、俺も燃えてきた。ビシビシ行くで!」

「はいっ」

 元イケメン俳優と眼鏡の付喪神は、揃っていい返事をする。

 しみじみ、あのとき店を閉めておいたのは正解だったと、夏神は自分の勘の良さを自画自賛しつつ、箱で買ったばかりの大量の卵に目をやった……。


 

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