四章 君のための一皿①





 翌日も、「ばんめし屋」はいつもと変わらず午後七時前に開店した。

 いや、いつもと変わったことが一つだけある。そう、海里のシャツの胸ポケットに、あの眼鏡……いや、ロイドが入れてあることだ。

 実は開店前の自由時間に、海里はスクーターを借りてJR芦屋駅前に出て、ごくシンプルで安いコットンシャツと、眼鏡スタンドを買ってきた。

 みずから「お試し期間」だと宣言したわりに、どちらの品物もロイドのためである。

 ところが眼鏡スタンドはロイドには大いに不評だった。

『わたしのためのお買い物だということは、重々承知しております。ありがとうございます。しかし街中では気軽にしやべってはならないとの仰せでしたので、購入の折には何も申しませんでしたが……失礼ながら、これをお選びになるあなた様の美意識には、いささか難があると申し上げねばなりません』

 海里が帰宅して自室に行くなり、Tシャツの襟からぶら下がった眼鏡姿のロイドは、相変わらずのもってまわった言葉選びで苦言を呈し始めた。

「あ? 何が不満だよ。サイコーにいかしたアイテムじゃん。俺、これを見つけた自分にちょっとれしちゃうくらいだけど」

 そう言いながら、海里は紙袋をガサガサとあさり、戦利品である眼鏡スタンドを取り出して、半ば万年床と化しつつある布団の枕元に置いた。

「ほら。この何もかもが昭和じみた部屋では、めに鶴のお洒落しやれ感だぜ? しかも台湾製でお値段リーズナブルときた。言うことないだろ?」

 眼鏡スタンドは、アルミニウムだろうか、とにかく軽いメタル製で、つや消しの銀色に塗装されている。

 断面が丸い金属棒一本を曲げることにより、円形の土台と、斜めに立ち上がった部分を形作り、そこに眼鏡を引っかけるためのパーツを三つ取り付けてあった。つまり一つのスタンドで、眼鏡が三つも掛けられる。

 海里が自慢するとおり、実にシンプルで都会的なデザインの眼鏡スタンドと言ってもいいだろう。

 とはいえ、ロイドの不平も、ただの言いがかりではない。

 その「眼鏡を引っかけるためのパーツ」が、何を思ったか、実にリアルな「鼻」の形なのである。下から見ると、鼻の穴まできっちり空いている。

 つるを両方折り畳んで引っかけることにより、眼鏡がその鼻の上に、実に安定良くおさまる構造なのだが、ロイドはその金属の鼻を醜悪だと感じているらしい。

「何だよ、気に入らねえの?」

 海里は早速、いちばん上の「鼻」にロイドを慎重に掛けてバランスを取り、満足げに頷きながら問いかけた。

『おそれながら、ここに置かれるのはいささか不本意と言わねばなりませんね』

 ロイドはやはり眼鏡のままで答える。日が落ちるまでは、本当に人間の姿にはなれないらしい。

 海里はTシャツを脱ぎ捨て、まずはこれも今日買ってきたばかりのハサミをパッケージから取り出し、次に新品のコットンシャツを樹脂の袋から出しながら言い返した。

「なんで? すっげーかっこいいぞ、お前」

『……さようでございますか?』

 声だけでも、ロイドが大いにいぶかっているのがわかる。海里は、コットンシャツの値札を外し、襟元のタグをハサミで切りながらムッとした顔でうなずいた。

「さようでございますよーだ。メタルの鼻の上に、レトロな丸眼鏡だもん。最高にいかすよ。このギャップがいいんだよ。ちょっと待ってな。ほら」

 とりあえずシャツを畳の上に置いて、海里はバッグからハンディミラーを取り出した。それを眼鏡の前にかざしてやる。

「目もないのに見えるんだろ? マジでどんな仕組みなんだかなあ」

『おや、これは……。なるほど、思ったほど悪趣味ではございませんねえ』

 気取った口調で、ロイドは意外そうな声を出す。海里は得意げに胸を張った。

「へっへー。俺の趣味の良さを認めろよ」

 だが、人間のときの姿が性格に反映されるのか、ロイドもいんぎんな言葉使いながらも頑固に言い返す。

『いいえ、店でこの眼鏡スタンドを見たときは、確かに醜悪でございました。今、さほどでもないのは、そこに、このわたしが掛かっているからでございます。つまり、我があるじの趣味の良さより、わたしの品の良さが、環境改善に大いに役立っていると……』

「ああ言えばこう言う奴だな、ったく! こういうときは、ご主人様を立てるべきなんじゃないのかよ?」

『いえ、長い目で見ますと、やはり申し上げるべきことははっきり申し上げたほうが、我が主のためにもなると……』

「うっせえ黙れ。とにかく気に入ったんなら、黙って掛かってろ」

『まあ……当初、想像したほど絶望は致しませんでした。この高さからの眺めも、新鮮でよろしゅうございます』

「そうかよ。ったく、素直じゃねえな。気に入ったんなら、素直に気に入ったって言やあいいだろ。作った奴と前のご主人様と、どっちに似たんだ。いや、独自の性格って奴? 子供だって、親に似るとは限らないもんなあ」

 ブツクサ言いながら、海里はまだ真新しいせいで少しごわつくコットンのワークシャツにそでを通した。

『おや、我が主は、ご両親には似ておいでではないので?』

 そう問われて、海里はそでぐちひじまでくるくるとまくり上げながら答えた。

「父親はどうだろ。早く死んだから、あんま覚えてないんだ」

『これは無神経な質問をしてしまいました。申し訳ありません』

「別にいいよ、単なる事実だし、覚えてないってことは、悲しんだ経験もなかったんだろうし。母親には、優柔不断なとこが似てるかな」

『それはまた、お母君を語るには、いささかしんらつな評価ですねえ』

 ロイドの声音にわずかな非難の響きを感じて、海里は居心地悪そうに身じろぎしながら、弁解した。

「や、別にけなしてるわけじゃない。俺、年の離れた兄貴がいてさ。父親が死んだときはまだ高校生で、卒業したらバイトしながら大学行って、大学を出てもまだ勉強して公認会計士になって、そんで一家の大黒柱になってくれたわけ」

『たいへんご立派な兄君でいらっしゃいます』

「その通り。兄君がご立派過ぎて、うちの母親は、いつも兄貴に遠慮するんだ。青春を俺と母親の食いを稼ぐことに使わせちまったんだ、可哀想だとか、申し訳ないとか思うんだろうな。だから、兄貴が何言っても、逆らわないんだよ」

『ほう、遠慮なさるわけですか』

「そ。遠慮っていうか、家族が母親と兄貴と俺の三人だろ? 何かめると、たいがい二対一になるわけ。で、俺と兄貴はいつも意見が合わないから、母親がついたほうが勝ちって流れになる。うちの母親が、俺についてくれたことは一度もないんだ。いつも、兄貴の側」

『恐れながら、それは年長者であり、社会人としての経験の長い兄君のおつしやることが、客観的に判断してより正しいからでは?』

 礼儀正しく辛辣な突っ込みを食らって、海里は不満げに唇をひん曲げる。

「へいへい、どうせ兄貴は品行方正のお利口さんで、俺はチャラチャラしたお気楽な弟ですよ。……まあ、たいがい兄貴の言うことが、世間的には正しいんだ。だけどさ、俺には俺の考えとか夢とか理想とかがあって、せめて家族には、ちょっとくらいわかってほしいと思うの、我がままじゃねえだろ?」

『それは当然でしょうねえ』

「だろだろ? だけど、母親は百パー兄貴の側に立つ。そのくせ、いつも『本当はあなたの言いたいこともわかっているのよ』って言いたげな目つきをするんだ。それが余計に嫌でさ。何で親が兄弟の片方だけにへつらうんだよ。そりゃ、経済的にはまだ助けてあげられなかったけど、俺だって実の子供なのにさ」

 長年、仕方がないとあきらめつつも腹の底によどんでいた不満や憤りが、相手が眼鏡であるという気安さからか、妙なタイミングで噴き出してしまったらしい。

 ロイドがさすがに返すべき言葉を見いだせずにいるのに気付いて、海里は「わりィ」と肩をすくめた。

「聞き流してくれよ。眼鏡相手に愚痴とか、みっともないにも程があるな」

 しかしロイドは、人間の姿であればきっとかぶりを振りながら言ったであろう言葉を発した。

『いいえ、我が主のことでしたら、何でも覚えておきたいと存じますよ』

「こんなことは別にいいって。兄貴に実家から追い出されちゃったから、もう会うこともないだろうしさ。お前には関係ない人たちだよ」

『そうとは限りませんよ。家族のきずなは、強くもあり、もろくもあります。一度切れたらそれきりになる絆もあれば、何度切れてもつながる絆もあります』

 やけに哲学的なことを語り出す眼鏡を、海里はシャツの上からエプロンをつけつつ、面白そうに見下ろした。

「何だよ、それ。前のご主人様の家のことか?」

 ロイドはあっさりとそれを肯定する。

『はい。昨夜は、前の主は温かな家庭を築かれたと申し上げました。それは本当でございます。ですが、三人のご子息は皆様、主のお望みに反し、どなたも学者の道にはお進みになりませんでした』

「あー……跡継ぎ、いなかったんだ?」

『はい。前の主は、そのことでご子息がたを責めることは決してありませんでしたが、やはり落胆というのは、伝わるものでございます。後ろめたさからか、ご子息がたは徐々にご実家から足が遠のき……前の主は、ずいぶんと寂しい思いをなさったようでございます』

「なるほど。その頃はまだ、お前、しやべったり人間の姿になったりできなかったのか」

『はい。当時、口をきけましたなら、主をお慰めすることもできたかと。いまだに残念です。それでも三人のご子息がたの死の床には、前の主が必ず立ち会い、最期を看取られたのです。切れたように思われた絆でも、糸一本でも繫がっていれば、また太くり合わせることができましょう』

「ふーん。ま、そういう素敵な親子もあらあな」

 投げやりな口調でそう言い、海里は眼鏡スタンドからロイドをヒョイと取り上げた。ワークシャツの大きめの胸ポケットに、しっかりと眼鏡を収める。

『おや、これでは視界がひどせもうございますね』

 早速不平を述べる眼鏡の、わずかに飛び出したフレームを指先でパチンとはじき、海里はツケツケと言った。

「我慢しろよ。さっきスマホでちょちょっと調べたけど、セルロイドって熱にちやちや弱いって書いてあったぞ」

『……ああ、それは確かでございますね。大昔、前の主がわたしを煙草で少し溶かしてしまわれたことが……つるの部分を交換する大ごとになりました』

「だろ?」

 得意げに、海里は鼻の下をこする。

「俺の仕事は定食屋の店員なんだからさ。火を使うだろ。Tシャツに引っかけるだけじゃ、落ちやすいし、油も飛ぶし、危ないじゃん。身につけてなきゃいけないんなら、せめてポケットにしっかり入っとけ。どうしても見たいもんがあれば、小声で催促すりゃいいだろ」

『おお……我が新しい主が気立ての優しいお方だとは存じておりましたが、軽薄な見かけに寄らず、たいそう思慮深いお方でもあったとは。このロイド、感動致しましたぞ。この上は、ますます心を込めてお仕え……』

「もういい。話が長すぎるっつってんだろ。だいたいお前、お仕えするとか低姿勢なこと言うわりに、何で視線だけは常に上からなんだよ!」

 そんなジャブの応酬のような会話を経て、今、海里とロイドは初めて共にカウンターの中にいた。

 無論、お喋りであるらしきロイドをけんせいすべく、海里は先手を打って、「仕事中は無駄に喋るな」とくぎを刺してある。そのおかげもあってか、開店以来、ロイドは一言も声を上げてはいない。

 夏神は、接客を海里に任せ、黙々と調理に励んでいる。

 今日の日替わりメインは、あじ茄子なすのフライである。鰺はゼイゴを取って三枚下ろしにし、腹骨をそぎ取るところまでは普通の下処理だが、客が小骨を一切気にせず食べられるようにと、夏神はさらに、真ん中の小骨が並ぶ部分を避けて半身を二つに切り離す。

 一人前には小さめの鰺を一尾使うので、スティック状の鰺フライが四本出来上がることになり、なかなかのボリュームである。

 それに、皮をいてやはり棒状にスライスした茄子のフライを二つつけ、山盛りの生野菜とでモヤシのカレー味、白菜の煮浸しにしるとご飯を添えれば、実に充実した、バランスのいい定食の出来上がりだ。

 その日の日替わりメニューが決定すると、夏神はそれを小さなホワイトボードに書き付け、夕方までに引き戸にぶら下げておく。

 客の中には、事前にメニューをチェックしておいて、気に入れば夜、改めて店を訪れるという人もいるらしい。

 そして、鰺フライというのは、やはり人気のメニューなのだろう。開店直後から次々と客が訪れ、夏神も海里も仕事に追われた。

 ようやく客の流れが落ち着き、店内にいる客たちにはすべて料理を出し終えた頃、夏神は冷蔵庫をのぞいてこう言った。

「イガ、茄子が切れた。新しいのを一つ切って、衣をつけといてくれ」

「了解っ」

 夏神の何げない指示に、海里は飛び上がりそうに弾んだ声で返事をした。

 まだ、調理のごく一部しか手伝わせてもらえない海里にとっては、この忙しさは絶好のチャンスである。

 最初こそ慣れない乾物を持ち出されてしくじったが、ハンバーグの生地で、夏神に少しは見直してもらえたはずだ。

 フライなら番組の中で何度も作ったことがあるので、ここで一気に評価を上げ、もっと調理にかかわれるようになりたい。

 別に、テレビで料理コーナーを持っていたという過去の栄光にすがりたいわけではない。ただ、あの頃、たとえお世辞交じりだったとしても毎日聞いていた「美味おいしい!」という声を、もう一度聞きたいと思ってしまうのだ。

 自分が一から十まで作った料理を出し、客にうまいと言わせることができたなら、失ったプライドのほんの一欠片かけらでも、戻ってきてくれるような気がする。

 海里はころんとした米茄子を取り出し、ピーラーで皮を剝いた。そして素早く切り分けて、たっぷりの水につけてアクを抜く。

 それから海里は、さっき夏神が茄子用に作っていたのを見て覚えた衣作りに取りかかった。

「鰺は、粉をはたいて卵をつけてパン粉っちゅう流れが、衣が薄付きになって旨いんやけどな。茄子は……特に米茄子は水気が多うて柔らかい。せやから、衣を厚めにしてカリッときつめに揚げたほうが、食感にコントラストがついてええねん」

 夏神はそう言って、小麦粉と水、卵、それにほんの少しの酢を目分量でざくざく混ぜて、衣を作っていた。

 海里もそのときにボウルに入った材料の量を思い出しながら、適当に混ぜてみる。

 やや水っぽくなってしまったので粉を足し、今度はネバネバしてきたので水を足し……とやっていたら、思ったより大量の衣が出来てしまったが、盛況の今夜なら、無駄にはならずに済むかもしれない。

(そう、大目に作っとけば、いちいち作り直さずに済むし!)

 そんな自分に大甘な言い訳をしながら、海里は茄子を水から引き上げ、れいぬぐいで水気をき取り、衣に投入した。

 ドロドロした衣を茄子にまんべんなく絡めて、余分を振り落とし、それからパン粉のバットに置く。乾燥パン粉をくっつけて完成……と思いきや、なべの前を離れた夏神が、ツカツカとやってきた。

「そないガチガチにパン粉を押さえつけたらあかん」

「へ? だって、しっかりつけとかないと揚げるとき、がれたりするじゃん?」

 海里は不服そうに反論したが、夏神は「ちやう」と短く言うと、茄子を一切れ衣から引き上げ、パン粉の上に置き、周囲のパン粉をたっぷり側面や上に寄せた。それから、大きな肉厚の手のひらで、実に優しく茄子を押さえた。

「こうや。ぎゅうぎゅう押したら、茄子の組織がつぶれてしまうやろ。そうやのうて、やさしーく、しっかりや」

「それ、夏神さんの手だからできることなんじゃ……」

「そう思うんやったら、お前もはよう料理人の手になれ。今はまだ、モテ男の手やで」

 そう言ってニヤリと笑うと、夏神はサッと手を洗い、鍋の前に戻る。

「くっそ~!」

 客の前なので押し殺した声ではあったが、海里は顔をうっすら紅潮させ、悔しげにうなった。

 海里とて、キャベツの千切りをひそかに特訓して指を傷だらけにしたことがあるし、フライの油が跳ねて、火傷やけどしたこともある。モテ男の手とけなされたのは実に心外だが、自分が衣をつけた茄子と、夏神がつけたものを並べてみると、違いはいちもくりようぜんだ。

 乾燥パン粉にもかかわらず、夏神がつけた衣は、ふんわり柔らかな感じがするのだ。それに対して、海里がつけたパン粉は、まるで「武装」と言いたくなるような固さがある。

 それだけ、海里が柔らかな茄子を、無駄に強い力で押さえてしまったということなのだろう。

『経験の差とは、恐ろしいものでございますねえ』

 ふと胸ポケットの中から、小さな声でロイドがささやく。

「追い打ちかけてんじゃねえよ」

 ヒソヒソとうつむいて毒づきながらも、海里は新しい茄子の一切れをパン粉の上に置いた。優しく……とつぶやきながら、さっき夏神がしていたとおり、寄せたパン粉で茄子を抱き締めるように包み込む。

 そろりと手を離すと、なるほど、夏神のものほどではないにせよ、さっきよりずっとふんわりとパン粉をまとわせることができた。

「あ、わかってきたかも」

 海里は胸を弾ませ、次々と衣をつけていった。

 料理コーナーを担当していた頃、フードコーディネーターや料理研究家が指導を担当してくれていたが、やはり芸能人の片手間仕事と思われていたのだろうか、面倒な作業は前もってすべてアシスタントがやってくれていた。

 何をしても「そうそう、上手」と適当に褒められるだけで、こんな風に短く的確にコツを教わるようなチャンスは、これまでなかったのだ。

「ほんの小さなことで、出来上がりが変わってくるんだな……」

 料理の難しさ、奥深さを今さらながらに実感しながら、海里は茄子一つ分の衣をつけ終わり、夏神のもとへ運んだ。

「出来ましたっ」

 夏神は揚げ油から沈んだパン粉をすくい上げて捨てながら、ギョロ目を面白そうに瞬かせた。

「何や、初めて敬語やな」

 海里は照れ臭そうに笑って、アルミのバットを差し出す。

「だって、初めて料理を教えてもらったからさ。もう、上司っていうより、俺の先生だろ」

「なるほどなあ。せやけど、一瞬か」

「ずっと敬語でもいいけど、なんかめんどくさくね?」

「確かにな。まあ、リスペクトは受け取ったわ」

 そう言いながら、夏神は茄子を二切れ取り、油に放り込んだ。

「ええか、茄子はすぐ火が通る。せやから、茄子を料理するっちゅうより、衣を料理するんや。魚より高い温度で、衣にしっかり揚げ色をつける」

「なるほど」

 夏神の隣に立ち、海里はふんふんとうなずく。

 やがて濃い目のきつね色に仕上がった茄子を油切り用のバットに上げた夏神は、さいばしでそれを味見用の小皿に取り、海里に差し出した。

「食うてみ」

「へ? 俺用?」

「お前が衣つけた最初の奴は、ちょっとお客さんには出されへんからな。勉強のために食うとけ。左がお前の、右が手本に見せた俺のや」

「マジで? 揚げた後でも、見てわかるもん?」

「当たり前やろが」

「すげえな」

 またしても感嘆し、夏神に心からの尊敬のまなしを向けて、海里は二つの茄子フライにサラリとしたウスターソースを回し掛けた。まずは自分が衣をつけたフライ、次に夏神がつけたものを食べてみる。

 確かに、外見にさほどの差はないのに、仕上がりがまったく違う。

「俺の奴は、茄子どこ行った状態になってる! 衣ばっかり……。だけど夏神さんのは、すっげージューシー。とろけそうだけど、茄子、ちゃんといる!」

 驚きに満ちた海里の感想に、夏神は得意げに「せやろ」と頷いた。

「繊細な食材は、丁寧に扱ってやらなあかんで。基本がスカスカやな、お洒落しやれ料理名人」

「く~~!」

 ポンと肩をたたかれ、海里は悔しそうにみするが、紛れもない事実を目と舌で確かめてしまった以上、ぐうの音も出ない。

 しかも夏神の顔に浮かんだ笑みは温かくて、海里をいじめたり、おとしめてやろうと思っているわけではないとわかる。

「夏神さん、すげえ。そんで料理、マジすげえ」

 だからこそ、海里の口から、そんな素直な言葉が漏れた。夏神は、じりにくっきりしたしわを寄せて、笑みをいっそう深くする。

 客は皆テーブル席にいるので、小声で話している限りは、客に二人の声が聞こえることはないだろう。彼らはそのまま、ヒソヒソと会話を続けた。

「ホンマにな。俺もまだ修業中やけど、基礎中の基礎くらいは、教えたれるで。お前が望むんやったらやけど」

 そう言った夏神は、海里が答える前に、素早くこう付け足した。

「ああいや、せやけどお前は、行くとこがのうてここにおるだけやもんな。芸能人として、しっかりやっとったんや。元の職場に戻れるんがいちばんええ」

「え……あ、いや」

「俺は別に、お前を料理人にしたいんと違うんやで。無理して料理の勉強はせんでええ。ただ、お前がきつい目にうたこと、聞いてしもたからな。料理でもしたら、ちょっとは気ぃが紛れるかと、つい勝手に」

 夏神は珍しくじようぜつに言い募ろうとしたが、海里は慌ててそれを遮った。

「勝手にじゃない! 俺、ここに来たのはドサクサだったけどさ。店を手伝うのは、別にいやいやじゃなかった。その……最初はテレビで料理コーナーやってたし、人気もあったし、定食屋の仕事くらい簡単だって思ってた」

 エプロンで汚れた手をゴシゴシ拭きながら、海里は恥ずかしそうに告白した。

「でも、最初の日にガツンとやられたじゃん? 高野豆腐も切り干し大根も知らねえって」

「あれはまあ、考えてみたら、若い奴は使わん食材やったわな。そんなつもりはあれへんかったんやけど、苛めたことになってもうたん違うかって、少し反省しよったんや、後で」

「んなことないって! あそこでプライドをベキッと折られてよかったんだよ、俺。それでも夏神さん、もっぺんチャンスをくれたし。サラダの盛りつけとか、あと、ハンバーグの生地、しぶしぶでも作らせてくれたじゃん? あれ、じゃあもしかして」

「乾物で、お前を苛めてしもた罪滅ぼしもあったんや。そら、作らせてアカンかったら、俺が作り直さなと思とったけど、上手うまいこと作ったやんか。それにお前、えらい誇らしそうな顔しとった」

「うん。……マジでうれしかった。なんかかっこ悪いこと言うけどさ、俺、芸能人やってたときは、ファンの子をハッピーにするのが俺の仕事だって思ってた。ミュージカルのときはお客さんを、料理コーナーやってたときは、それこそ全国の皆さんを」

「おお、大きゅう出たな」

 真顔で突っ込まれて、海里はますます恥じらう。

「なんか、自分を異常にビッグだと思ってたかもなあ。ミュージカルに出て、女の子たちにきゃーきゃー言われて、そっからずっと勘違いしてた気がする。あんなことがあって、芸能界を突然放り出されて、やっと、現実の俺はすごくちっぽけなんだって気付いた。いや、違うな。ホントはビッグな俺が、理不尽に抑えつけられて、小さくされたって感じてたのかも。すっげえ勘違いだよな。あー、超恥ずかしい」

「まあ……アレや。……華やかな世界におったら、勘違いするんはお前だけ違うやろ」

「サンキュ」

 夏神の無骨な慰めに礼を言い、海里は照れ隠しのようにピッチャーを手にした。客席を回って水を注ぎ、猫のように静かに戻ってきて、夏神にひそやかに告げる。

「俺、東京からこっちに帰ってきても、イメージの俺と現実の俺が違いすぎて、凄く惨めだったんだ。……だけどここに来てさ、店を手伝ってるうちに、久しぶりに地に足がついたっていうか、俺は最初からこの程度だったんだ。もてはやされて勘違いしてたけど、誰のせいでもない、いつかはこうなったんだって思えるようになった」

 そんな海里の告白に、夏神は何か言葉を返そうと口を開いた。だが、言葉がこぼれる前に、二人の間で、ズビッ、という妙な音がした。

 夏神と海里は、同じタイミングで海里のシャツの胸ポケットに視線を落とす。

 もう一度、ズビッ、とはなすする音がした。間違いなく、ロイドが眼鏡のまま、二人の話にもらい泣きしている。

「お、おい。眼鏡のままで泣くのかよ。お前、ちやちや器用だな」

 海里は慌ててロイドをポケットからひき抜いたが、予想に反して、眼鏡は少しもれてはいなかった。

『お二方のお話を聞いて、あまりにも美しい師弟愛に涙が零れたのでございます。いえ、正しくは、心で泣いているのでございます』

「……ますます器用や」

 海里も夏神も、揃ってあきがおになった。だがロイドは、こう続けた。

『それより、何やら、あなた方よりわたしに近い者が現れたようですね』

「!」

 海里はギョッとして、いつもの場所……入り口にいちばん近いカウンター席のほうに身体を向けた。

(いた……! また来てくれた!)

 そこには、さらに存在が薄くなった青年の幽霊が、いつものようにぽつんと座っていた。カサリとも音を立てず、身動きもせず、ただ無表情にうつむいている。

 幸い、今夜は霊感の鋭い客はいないらしい。テーブル席にいる人々は誰も、幽霊が来たことにも、カウンターの定席に座っていることにも、気付いていない様子だった。

『この店には、幽霊の常連客もいるのですね』

 大真面目な口調でロイドは言う。

「いいから、お客さんがみんな帰るまで黙ってろ」

『御意』

 いかにも芝居がかった返事をして、ロイドは黙り込む。

「皿、今の内に洗っとく」

 今夜こそ、幽霊の青年とさらなるコンタクトを取ってみたいところだが、とにかく客が店内にいなくなるまでは何もできない。はやる心を抑えるように、海里は夏神にそう言って、シンクの前に立った。

「……おう」

 その一言と何か思い詰めたような表情で、色々と察したのだろう。夏神はさりげなく外に出ると、「営業中」の札を「本日売り切れ閉店」と入れ替えたのだった。

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