四章 君のための一皿④





 肩を優しく揺さぶられ、海里はふっと目を覚ました。

 店で幽霊の青年を待つうち、疲れが出て寝入ってしまったらしい。カウンターの中のスツールに座っていたはずだったのに、いつの間にか客席の椅子を並べた上に寝かされている。

 運んでくれたのは夏神だろうが、それにも気付かないほど熟睡していたようだ。

 傍らに立ち、肩に触れているのは、ロイドだった。

 海里を手伝いたいという気持ちの表れか、自らもエプロンを身につけたロイドは、穏やかな笑みでこう告げた。

「今夜のたったひとりのお客様がお見えですよ、我があるじ

「……お、おう」

 眠気は瞬時に霧散する。むくりと起き上がった海里は、いつもの席に、すっかり見慣れた顔を見て、「よし」と小さくうなずいた。

 夏神は、テーブル席に座り、黙って頷いてみせる。そこから、すべてを見届けるつもりなのだろう。

 海里はロイドを従えてカウンターの中に入り、青年に向かって、深々と頭を下げた。

「おはようございます。いらっしゃいませ、僕のキッチンへ!」

 それは、料理コーナーを始めるときの、定番のあいさつだった。海里はカメラの前でしていたのとそっくり同じように、明るい声を張り上げる。

「今日は、君だけが僕のお客さんだよ。心を込めて作るから、見守っていてくれよな!」

 青年の顔に、初めてかすかな驚きの色が浮かんだ。彼の唇が、小さく動く。

 い が ら し か い り

 声なき声が自分の名前を呼んだのに気づき、海里は大きく頷いた。

「それでは、調理にかかります。今日の材料はすごくシンプル。丁寧に昆布とかつおぶしでとった極上のだしと、新鮮な卵。それに、薄口しよう少々、塩少々。なんとこれだけ! だけど今日は時間制限なしだから、いつもよりもっと心を込めて込めて、込めまくって作るよ!」

 とてつもなく懐かしいハイテンションのトークを繰り広げながら、銅なべを火にかけ、ロイドが手渡してくれるボウルに卵を五個溶く。卵と同量より微妙に少ない程度のだしを混ぜた卵液を裏ごしして、生地の準備は完了である。

 鍋に油を引き、卵液を少し流すと、じゅーっといい音がして、こうばしい匂いが立ち上るが、焦げはしない。

「火加減は、あくまで強めをキープ。失敗を恐れないで。火加減は変えずに、鍋を火から遠ざけるのが、賢いやり方だよ! そして、見て! 手首を下から斜め上に向かってコンパクトに返しながら、箸で遠くから近くに向かい、くるんくるんと卵の層を折り畳んでいくよ! どう、格好いいでしょう?」

 半熟に火が通った卵は柔らかいが、まるでじゆうたんでも丸めているように、海里の手つきはスムーズだった。

 空いたスペースにまた油を引き、そして畳んだ卵を奥へやり、新しく空いた場所に油を引き、そして次の卵液を注ぐ。

「ほら、どんどんだし巻き卵が太くなってきたね。これで最後。火加減は強めでも、手早く返せば、焦げたりしない。最悪、ちょっと焦げてもそれはそれで好きな人がいるかもだけど……でもやっぱり、やるからには完璧を目指そう」

 そんなことを言いながら、ちようめんに同じ手順を繰り返し、とうとう彼は、大きなだし巻き卵を焼き上げた。

 それを敢えて切らずに細長い皿にどんと載せ、海里はようやく青年の顔を見た。

「…………!」

 視線が、真っ直ぐに合った。

 海里は息をむ。

 青年はキラキラ輝く目をして、海里がだし巻き卵を作るさまを見守っていたのだ。調理に没頭し過ぎて、調理過程で青年の様子をチェックするのを忘れていたのだが、彼は静かに興奮した面持ちで、海里を凝視していた。

(喜んで、くれてる!)

 青年の喜びが、海里にも確かに伝わった。だからこそ、腹の底から元気な声が出る。

「今日は君だけのために言っちゃうよ。……ディッシー!」

 決めぜりふと共に、右手の皿を思いきり青年の鼻先に突き出す。

「お待たせ! 幽霊だから食えないなんて、言ってくれるなよ。俺、死ぬ程練習したんだからな。……お前はだし巻き卵に敗北したかもしれないけど、お前のかたきは俺が取った! これが、その証拠だ。五十嵐カイリが、お前だけのために作っただし巻き卵だぞ」

 そう言いながら、巨大なだし巻きを、海里は青年の前にどんと置いた。夏神もロイドも、息を詰めて成り行きを見守る。

 しばらく海里の笑顔と焼きたてのだし巻き卵を飽きず見比べていた青年の姿が、徐々にはっきりしてくる。もう、半分透けたような状態ではない。生きている人がカウンターに座っているような、自然な状態である。

 青年は「いただきます」を言うように両手を合わせ、それから、海里があらかじめ割ってやったはしを取った。

 海里ののどが、ゴクリと鳴る。緊張と期待で、心臓がバクバクしていた。

 青年の箸は、だし巻き卵を大きく切り取る。断面からはだしがあふれ、盛大に湯気が立ち上った。

「あっついぞ?」

 思わず警告した海里に、青年はこっくりと頷き、しばらく待ってから、大きく口を開けた。だしの滴る卵を迎えに行くようにして、パクリと頰張る。

(ちゃんと食えた! 俺のだし巻き卵、食ってくれた)

 ゆっくりと卵をしやくし、飲み下し、青年は、そっと箸を置いた。

「何だよ、もっと食えよ。口に合わなかったか?」

 心配そうに問いかける海里に、青年は小さくかぶりを振った。そのせた頰に、海里が初めて見る笑みが広がっていく。

「ほんじゃ、うまかったのか? 気に入ったか?」

 こっくりと頷いた青年に、海里はホッと胸をで下ろす。青年は、一文字ずつ区切るように、唇で言葉を紡いでいく。


 だ れ か に ぼ く の こ と を


「誰かに……僕のことを?」

 青年の口の動きを読んで、彼の言葉を声に出す海里に、青年はこっくり頷いた。そして、新しい言葉を、音もなく吐き出す。


 と く べ つ だ っ て い っ て ほ し か っ た ず っ と


「特別だって……言ってほしかった……ずっと?」

 青年は、また頷く。そして、何かをせがむように、海里をじっと見つめた。

「特別って……あったりまえだろ!」

 海里はカウンターに両手を突き、身を乗り出した。

「この五十嵐カイリが人生で初めて、たったひとりのファンのために、だし巻き卵を作ったんだぞ! 少なくとも俺にとって、お前はちやちや特別だ! 一生忘れないから、そのつもりでいろよな!」

 想いを込めて、海里が力一杯投げつけたその言葉をみしめるように、青年は胸に手を当て、はにかんだように笑った。


 あ り が と う


 青年の目から、ポロポロと涙のしずくこぼれる。頰を伝った涙は、キラキラ光る砂のように散ってふわりと広がり、青年の身体を包んでいく。

「あ……」

 海里の裂けんばかりに見開いた目の前で、青年の姿は徐々に薄れ……そして消えた。カタン、と乾いた音を立てて、彼が最後まで持っていたばしがカウンターに落ちる。

「……ロイド!?」

 海里は動転して、背後にいたロイドに呼びかけた。哲学者のように思慮深い顔つきをして、ロイドは深く頷く。

「今度こそ、彼は本当に消えました。ですが、それは生きながら獣に足から食われるような苦しみながらの消滅ではありません」

「じゃあ……」

あこがれの人が、自分を特別だと言ってくれた。自分がせつしただし巻き卵を、みずから作って食べさせてくれた。その幸福感と喜びが、彼をこの世に縛っていたくびきから解き放ったのです」

「……つまり、成仏したってことなんか?」

「非常に仏教的な表現ですが、そういうニュアンスでよろしいかと」

 夏神の「成仏」という言葉がストンとに落ちて、海里は全身から力が抜けるのを感じた。

 もはや踏ん張る必要もない。そう思うとひざがカクンと砕けて、タイルの上に座り込んでしまう。

「お、おい、大丈夫か?」

 夏神が席を立ち、カウンター越しに背伸びしてのぞき込んでくる。

「や、だいじょぶ。なんか……ホッとしたら気が抜けた」

「お疲れさん。ようやった。……今度は素直に受け取れや?」

 ニヤリと笑って夏神が再び投げたねぎらいの言葉を、海里は片手を上げ、キャッチするふりをする。

「ありがたく受け取る。……あのさ、夏神さん」

「お?」

 タイルの上に足を投げ出し、食器棚にもたれた脱力姿勢のまま、海里は夏神の野性味溢れる顔を見上げた。

「俺、もう腰掛けじゃないことにしてもいいかな?」

 夏神は、太いまゆを寄せる。

「どういう意味や?」

 海里は、どうぞ拒まれませんようにと祈りながら立ち上がり、素直な心を言葉にした。

「この店で、夏神さんに教わりながら、料理の勉強を一からしたい。俺やっぱ、ちっこい存在でも、ほんのちょっぴりでも、人を喜ばせる仕事がしたい。だから俺のこと、ちゃんと店員として雇ってくれないかな?」

 すると夏神は、ぜんとした顔で言った。

「従業員研修のため、本日臨時休業って言うたやろ」

「……う?」

「俺の中では、とっくにお前は身内やっちゅうねん」

 海里は、驚いた拍子にぴょこんと立ち上がる。

「夏神さん、それって……」

「当たり前やろ。正式採用や。何がうれしゅうて、臨時雇いを弟子にせなあかんねん。弟子を取るっちゅうんは、特別なことなんやぞ。それなりに覚悟も要るしな」

 それを聞いて「うわあ」と驚きの声を上げた後、海里は「すげえ」とつぶやいた。夏神は、その簡潔すぎる反応を理解しかねて、ますます渋い顔になる。

「何やねん。嬉しいんか迷惑なんかどっちや?」

「嬉しいに決まってるじゃん。違うよ。俺は、ビックリしてたんだって。確かに、誰かの『特別』になるって、すげえことだな。胸ん中がぽっかぽかになった。いきなり、ここが俺の居場所になった!」

 大発見をしたような口調でそう言い、海里はほうけたような顔をしている。

「……その歳になって、初めて知ったんか。お前はホンマに物知らずやなあ」

 あきがおでそう言った夏神をよそに、ロイドはいそいそと海里にすり寄る。

「では、我があるじ。今回、大活躍したわたしのことも、あなた様の『特別な眼鏡』にしていただけませんか」

「……あのなあ。人の感動をぶち壊すなよ」

 幾分迷惑そうに、横目で厚かましい付喪神をにらみながらも、海里の口元は笑ってしまっている。

「レンズ」

「はい?」

「新しいレンズ、入れなきゃな。だけど俺は視力がいいから、ただの伊達だて眼鏡めがねだぞ?」

「そ、それは、我が主。もしや……」

「俺専用眼鏡にしてやるっつってんの。近すぎる、離れろ」

 照れ隠しなのだろう、嬉しそうな顔でぐいぐい近づいてくるロイドの薄い胸を思いきり押し返し、海里は、青年がいなくなったカウンターから、一口だけ減っただし巻きの皿を取り上げた。それを、夏神のいるテーブル席へと運ぶ。

「それよか、あいつの成仏を祝して、だし巻きの残り、みんなで食おうぜ。あいつが一口で昇天しちまうくらいだから、きっと世界一旨い!」

「世界一旨いはちょっとまだうぬぼれが過ぎるけど、まあ、今日は許したろ。ほな、祝杯も挙げんとな」

「はい、ご用意致します! ビールでございますね!」

 夏神の言葉に、ロイドが即座に反応する。

「あっ、俺ビール駄目! 冷蔵庫にグレープフルーツのチューハイ買ってあるだろ。それが俺の」

「えっ……?」

「えっ?」

 冷蔵庫を開けたところで、海里の言葉にロイドが凍り付く。怪しすぎるリアクションに、海里の笑顔がジワジワとしかめっつらに変わった。

「てめえ、その反応はまさか……」

 冷蔵庫の扉をひとまず閉め、後ろ手でかしこまったロイドは、人当たりのいい笑顔でサラリと白状する。

「ああ……いえ、昨夜、我が主が練習に没頭しておられる間、わたしはたいへん暇でございまして。退屈しのぎに冷蔵庫を開けましたところ、チューハイとやらを発見し、ちと未知の味を試してみたくなりました。気がつくとプシュッと……。実に美味でございましたよ」

「この野郎! 俺が死ぬ気で頑張ってるときに、何でお前が俺の祝杯用チューハイを飲んでんだよ! 俺専用眼鏡は即刻撤回だ! この場でたたき割る!」

「なんと。武士に二言はないと伺っておりますよ! しかも、飲食物のことでそうげきこうなさるなど、実に大人げないと申し上げねばなりますまい、我が主よ」

「うっせえ! 食い物の恨みは恐ろしいってことわざも覚えとけ、このクソ眼鏡!」

 狭い店の中で、正規採用したばかりの従業員と、その従業員に仕える付喪神がバタバタと追いかけっこをしている。

 そんなあまりにも現実離れした馬鹿馬鹿しい光景に、夏神は思わずズキズキし始めたけんを、親指と人差し指で摘まんだ。

にぎやかなんはええと思うたけど……」

 はあ、といきをつき、夏神はのっそりと立ち上がった。

「託児所か、ここは」

 そんな泣き言を口にしながらも、大男の店主は、右手で海里、左手でロイドの襟首を猫の子のようにつかみ、けんの仲裁に取りかかったのだった。

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