エピローグ
「なあ、おい。どれがいいと思う?」
周囲に人がいないのを確かめてから、海里は自分の胸元に向かってヒソヒソ声で話しかけた。
ロングスリーブの黒いTシャツの胸元にかかっているのは、言うまでもなくレトロな丸レンズの眼鏡……ロイドである。
『どれと
「眼鏡のくせに目移りとか!」
付喪神の相変わらずのとぼけた返答に呆れ顔になった海里だが、彼もまた幾分目移りしている様子で、目の前の大きな書架を持て余し気味に眺めた。
彼らは「ばんめし屋」開店前の自由時間を利用して、JR芦屋駅近くの書店に来ていた。
今、海里が立っているのは、入り口近くの料理本コーナーである。
フロアのほぼ半分を占めている大型書店だけあって、料理の本の品揃えもかなり豊富である。背丈より少し高い木製の書架に、ぎっしりと大判の本が詰まっている。
表紙を出して陳列されている本が、きっと新刊や話題の書籍なのだろう。そのあたりだけでも、見ているだけで少しお腹が膨れてくるほどの数だ。
「ちょっとは料理を基礎から勉強しようと思ったんだけど、どこから手をつけりゃいいのか、さっぱりだな」
『わたしの目の前にございます、その一皿盛りの料理が表紙の本など
「これか?」
ロイドが勧める薄い本を手に取り、パラパラとめくった海里は、「あーダメダメ」とすぐに戻してしまった。
「こう言うカフェ飯っぽいのは、たいてい見かけ倒しなんだよ。一品ずつ見りゃ、大したことない料理ばっかだ」
『そういうものでございますか。見た目は華やかですのに』
首を
『そういえば、我が主はかつて、テレビでお料理を実演なさっていたとか。その頃、ご本は
「したよ。だけどさあ、偽物だったから」
『偽物……でございますか?』
「表向き、俺の本ってことになってたけど、料理を実際に作ったのも、レシピを書いたのも、料理研究家の卵。俺は、それっぽい衣装とポーズで写真を撮っただけ」
『料理の本にも、ゴーストライターが存在するのですか。それはそれは。して、その本はいずこに?』
「もう書店には置いてないだろ。俺、芸能界をクビになったんだし」
そう言いながらも、海里の視線は
「マジか。まだあったわ」
驚きと喜びと自己嫌悪、その他
「いい気なもんだ」
苦い声音で
『お買い求めにならないので? 夏神様にお見せになれば、お喜びかと』
「冗談じゃねえ。恥ずかしくて見せられるかよ、こんなもん」
『恥ずかしい?』
海里は顰めっ面で、屈託のない自分の笑顔を見下ろした。
「夏神さんは、マジで
『おや、我が
ロイドはイヤミではなく本心からそう言ったようだったが、海里は渋い顔のままで肩を
「謙虚じゃねえ、ただの馬鹿なんだよ。全部なくしたと思ってたけど、最初から何も持ってなかったんだって、やっと気がついた」
『何も……持っておられない?』
「俺のもんだと思ってたこのコック服も、料理も、キッチンも……自分の笑顔だってまやかしだ。今の俺には、何もねえもん」
投げやりにそう言って、海里は今度こそ自分の本を書架に戻した。そして、
『本をお買い求めにはならないので?』
「買うけど、何となく今日はそんな気分じゃなくなった。
『我が主のお志を
「フレンチクルーラーを買えってことかよ。ったく、どんだけグルメ眼鏡君なんだ、お前」
エスカレーターで一階を目指しつつ、海里は苦笑いで肩をそびやかす。そんな海里に、相変わらず眼鏡のままのロイドはえへんと小さく
『ときに我が主よ、先ほどのお話ですが、一つだけ訂正させていただきます。あなた様は何も持たざる者ではいらっしゃいませんよ』
「あ? じゃあ、今の俺が何を持ってるってんだよ?」
真っ直ぐ通った鼻筋に浅い
『このわたしを』
「あ?」
『あなた様には、この不肖ロイドがついております。夏神様もいらっしゃいます』
「…………」
『かの名将武田信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀」と仰ったとか。人は何よりの財でございます。頼れる師、頼もしいしもべは、あなた様にとって、何物にも代え難い宝となろうかと』
しばらく
『……わたしは何か、おかしなことを申しましたでしょうか?』
「夏神さんはともかく、どんだけ自己評価高いんだよ、お前は。ったく、お前と話してると、凹んでる自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。ドーナツ買ってとっとと帰ろうぜ。で、今夜も夏神さんを手伝って、旨い飯を作る!」
『それがよろしいかと。フレンチクルーラーをお忘れなく』
「しつっけーな! 買ってやるっつってんだろうがよ」
言葉はぶっきらぼうだが、海里の顔からは、さっきまでの憂いの色がすっかり消えている。
頼もしい「しもべ」を首にぶら下げ、海里は早くも漂ってきた甘い香りを
最後の晩ごはん ふるさととだし巻き卵 椹野道流/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun
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