三章 よるべなき者たち①





「まあ、落ち着けや、イガ」

 いつまでも店内をウロウロ歩き回る海里を見かねて、それまではずっと黙って見ていた夏神が、とうとう声を掛けた。

 店で海里の名前を呼ぶとき、五十嵐と呼んでも海里と呼んでも、彼の芸名を客に連想させてしまってはいけないと気を遣ったのだろう、夏神はこの数日で、海里を「イガ」と呼ぶようになった。

 その奇妙な呼び名を決して歓迎していなかった海里だが、今はそれを気にする余裕などなく、みつくような勢いで、「落ち着けるかよ!」と言い返してきた。

 もっとも、その後すぐに反省したらしく、「ごめん」と小さな声で付け加える。

「だけどさあ、あいつ、絶対俺のこと知ってるよ! 『ディッシー!』って口の動きだけだけど言ったもん。右手だって、俺がするみたいに、こうさ」

 カメラに向かって皿を突き出す仕草をもう一度してみせる海里に、夏神は腕組みして、困り顔で天井を仰いだ。

「わかっとる」

「だったら、そんな落ち着いてる場合じゃないだろ!」

狼狽うろたえとる場合でもあれへんやろ」

 鋭く切り返され、海里はようやく動きを止める。

「そ……それはそうなんだけど。でも!」

「まあ、座れや」

 客がいないことを幸い、夏神は自分が先にスツールにどっかと座った。海里も渋々、自分用のスツールに腰を下ろす。

「確かに、あの兄ちゃんの幽霊、お前のことを知っとるみたいやったな。だからこそ、最初の夜、お前の顔を見たんかもしれん」

「だよな? だよな? 俺のファンってことだよな、きっと!」

「……まあ、幽霊になっても、お前の決めポーズと決め台詞ぜりふをやってみせるくらいやから、そう考えるんが妥当やろな」

「うわー、くそ、何だよもう。ほっとけねえなあ!」

 海里は思わず親指の爪を嚙んだ。

 子供の頃からの癖だが、芸能界デビューしたとき、マネージャーの大倉美和から「みっともないからやめなさい」ときつく叱られ、必死で我慢しているうちにいつしかしなくなっていた。

 だが、あまりにも動揺が激しくて、ついかつての悪癖を復活させてしまったらしい。

「ほっとかれへん、言うてもなあ。お前のファンやとしても、あいつはもう幽霊になってしもてるんやで。他人の俺らが、何をしてやれるっちゅうわけでもないやろ」

 夏神はなだめるようにそう言ったが、海里は短く切り詰めた親指の爪を無理矢理嚙みつつ、長い脚でイライラと貧乏揺すりをした。

「わかってるよ! あいつとは話せないみたいだし、幽霊を生き返らせる技術も俺にはないし! だけど……このままだとあいつ、もっともっと薄くなって、そのうち消えちまうんだろ?」

「たぶんな」

「そんなの嫌だ!」

 危ういところを助けて以来、海里が初めて、他人のために見せた激しい感情に、夏神は両手でひざがしらつかみ、軽く身を乗り出した。海里の顔をのぞき込んで、駄々っ子を宥める穏やかな口調で問いかける。

「嫌なんはわかるけど……。お前、あれか。ファンを大事にする芸能人やったんか」

「当たり前だろ! 基本じゃん、そんなの」

 吐き捨てるように答え、海里はまゆをギュッと寄せた。

「俺さ、例の事件のとき、何も弁解させてもらえなかったって言ったろ? だから、記者会見が出来ないなら、せめてSNSで自分の声をファンに届けたいと思ったんだ」

「あー。俺は自分がやらへんからどんなもんかわからんけど、最近の芸能人は、結婚も離婚も全部SNSで発表するて聞くもんな」

「そうそう。マネージャーのチェックは入るとこが多いけど、それでもわりと自分の声をダイレクトに伝えやすいからさ。せめてファンに、俺は潔白だって一言だけでも伝えたかった。心配かけてごめんなって、謝りたかったんだ」

「アカンかったんか?」

 海里は、力なくうなれた。

「ブログもツイッターも、俺の公式アカウントは事務所にソッコー消されてた。新しく作ることも考えたけど、公式にできない以上、読んだ人を混乱させるだけだろ? やっぱこれまでのでっかい恩があるから、事務所に迷惑かけたいわけでもなかったしさ。だから、ファンの子たちに何も言えずに消えることになった」

「そうやったんか。ホンマに、きっつい世界やな」

 海里は、震える指を誤魔化すように、両手の指先をしっかり組み合わせた。

「うぬぼれるわけじゃないけど、ずっと応援してくれてたファンはそれなりにいたはずだし、あんなニュースが流れても、信じてくれてたファンもいたはずなんだ。そういう子たちを傷つけたままでいるってことは、今でも考えただけで苦しくなる」

「そうか。伝えたい人に声が届けられんちゅうんは、もどかしいな」

「もどかしいどころの騒ぎじゃねえよ。バラエティ番組でどうでもいいような話をしてた時間の、一分だけでいいから今、俺にくれよって何度も思った。事件の前は、テレビカメラの前でしやべることなんて簡単だなって思ってたけど……とんでもねえわ。今の俺なんて、テレビ局の玄関から一歩も奥に通れないもん」

「……むう」

「だからさ……目の前のファンひとりくらいは、ちゃんとフォローしたいっていうか。たとえそれが幽霊でもさ。生きてたとき、俺のこと見ててくれてたってわかったら、余計にほっとけないよ」

「……イガ……」

 夏神は、何と言っていいかわからないという面持ちで、海里の名を呼ぶ。

 そのとき、カウンター内の壁に取り付けられた電話が鳴った。

「あ、すまん」

 夏神ははじかれるように立ち上がり、電話のほうへ小走りで向かう。

「もしもし、ばんめし屋……ああ、どうも淡海おうみさん。最近ごですねえ。あ? あー……そういう。そら大変や。はい、はい、ああ、ええですよ。あっ、ちょー待ってください」

 受話器を取った夏神は、受話器のスピーカーを片手で押さえ、海里のほうに身体をひねる。

「なあ、お前、バイク乗れるか?」

 海里はうなずく。

「原付なら。前にドラマ出るときに必要だってんで、免許取ったから」

「ほな、ちょっと出前行ってくれるか?」

「出前? あ……ああ、まあいいけど」

 海里が頷くと、夏神は再び受話器に向かって話し始めた。しばらく会話を続けてから電話を切り、に落ちない顔つきの海里に説明を始める。

「今の電話な、開店したときからの常連さんからやねん。わりかし有名な作家さんやねんけど、ここしばらく姿見せんなーと思ったら、今、原稿が死ぬ程の勢いで佳境らしいわ」

「あー、修羅場」

「修羅場て……そういう言い方するんか?」

「らしいよ。ほら、俺のデビュー作のミュージカル、原作が漫画だからさ。原作者の先生が、『修羅場あけだよ~』ってヘロヘロになりながら、けいに差し入れ持ってきてくれたりしてた。小説家も、似たようなもんじゃね?」

「ふうん。まあとにかくそういうわけで飯食いに出る暇はあれへんし、家の冷蔵庫空っぽやし、頼むから何か持ってきてくれっちゅうことでな」

 そう言いながら、夏神は早速冷蔵庫を開け、ハンバーグの生地が入ったステンレスのボウルを取り出す。

 肉厚の大きな手の平を使って、ごく柔らかな生地をパンパンと手際よく整えるのを見ながら、海里も一ついきをついて立ち上がった。

「小説家の先生に、定食お届けか。いいよ、ちょっと頭冷やしがてら、行ってくるわ。料理、何に盛る? 出前用の食器とかあんの?」

「いや、出前は普段せえへんねん。ひとりで店やっとったから、どだい無理やろ。ただ、特別な常連さんの我がままは、商人あきんどとしてはたまに聞いとかな」

「そんじゃ、普通の食器? バイクだと、割れそうで怖いな」

「いや、また食器を取りに行くんは面倒やし、ちょっと二階から、前にキャンプ行ったときの使い捨て容器を探してくるわ。火加減見とって」

「……やった! 生地作りから焼き上げまで、ついにかんぺきに俺の仕事!」

「アホ、最後は俺が見定めるっちゅうねん。焦がすなや?」

 そう言い返しながら、夏神は慌ただしく階段を駆け上がる。海里の頭上で、天井の杉板がミシリと鳴った。

「そうだよなあ。ほっとけないっつっても、実際、俺なんかに何が出来るっつーんだよな、幽霊相手に。自分のことも、どうしようもなかった奴だってのにさ」

 フライ返しをハンバーグの下に差し込んで焼き色を確かめながら、海里はさっきの勢いはどこへやら、力なく独りごちた。


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