二章 どこへも行けない③

 

 *  *


 その日から、海里の「ばんめし屋」店員としての生活が始まった。

 夏神は、月曜から金曜の夜から早朝まで店を開ける。

 閉店時刻は、近くの阪神電車芦屋駅で始発が走り始める午前五時前と決めているようだが、開店時刻はわりと大雑把で、午後六時から七時の間くらいに設定しているようだ。

 朝、掃除を済ませてから店の二階で就寝し、起床するのは午後一時くらい、それから朝昼兼用の軽い食事をしたら、JR芦屋駅前にその日の食材を買い出しに行き、下ごしらえを済ませたら、あとは自由時間だ。

 店の営業中も、客がいなくなると適当に交代で休むので、実働時間はそう長くない。

 初日に夏神が言っていたとおり、店のメニューはたった一種類、日替わり定食だけである。

 メニューは前もって決まっているわけではなく、買い物に行った先で、その日の特売品を見定めて夏神が決める。

 夕方、試食を兼ねて、客に出すのと同じものを二人で食べて味をチェックしてから、暖簾のれんを出す……というのが、大まかなタイムテーブルだ。

 最初の休店日である土曜日、二人は一緒に布団を買いに出掛けたが、配達を頼んだ帰り道、夏神は「ちょっとボルダリングの教室行ってくるわ」と言って駅前で海里と別れ、帰宅したのは午後十時過ぎだった。

 翌日も、海里が昼過ぎに目を覚ますと、夏神はもうどこかに出掛けた後だった。どうやら、週末まで海里と一緒にいるつもりはさらさらないらしい。

 海里としても、なしくずしに世話になっている上、休日まで気を遣われてはたまったものではないので、むしろそのほうがありがたい。

 さすがに街を無闇に出歩こうとは思わなかったが、「あるものは勝手に食べていい」と夏神が言ってくれたので、適当にパスタを作って食べ、夏神が物置として使っていた四畳半の空き部屋を片付けて、どうにか自分が暮らせる空間を確保することに午後いっぱいを費やした。

 夏神が帰宅したのは、午後十一時前だった。

 店の引き戸を開ける音がして、階段をきしませ、ずっしりした足音が近づいてくる。

「おかえりー」

 居間兼夏神の寝室のソファーに寝そべって雑誌を読んでいたジャージ姿の海里は、むっくり身を起こして声を掛けた。

 休日もTシャツにジーンズ姿の夏神は、ニッと笑って「おう」と片手を上げ、軽くのけぞって廊下を見やる。

「ようけゴミ出たな~。片付いたか、奥の部屋」

「うん。夏神さんが、特に必要なものは入ってないって言ったから、片っ端から分別して袋に詰めた。マジで服とか雑誌とか古そうなカバンとかばっかだったし」

「そうやねん。朝、寝るやろ。資源ゴミ、よう出し忘れてな。しゃーないから空き部屋に放り込んどったら、溜まってしもた」

「わかる。俺も、朝番組に出てたからさ。マンションにゴミ集積所があって、いつでもゴミ出せるの、超助かってたもん」

「はは、ええとこに住んでたんやな。ボロい店の二階の狭い部屋で悪いなあ」

 そう言いながら、夏神は畳の上にどっかと胡座あぐらをかいた。手に持っていた飲みかけのお茶のペットボトルを、おそらくは冬はこたつになるのであろう、小さな四角いテーブルに置く。

「晩飯ちゃんと食うたか?」

 問われて、海里はうなずいた。

「久しぶりに、明太子スパ作って食った。うまそうな明太子、冷蔵庫で見つけたから」

「ああ、あれな。常連さんからのもらいもんや。そろそろ食わなあかんかったから、ちょうどよかったわ」

 夏神はそう言って、のどを鳴らしてお茶を飲んだ。海里はちょっと興味をそそられ、夏神にたずねてみた。

「朝からどこ行ってたんだ? 飲んできたっぽい?」

 プライバシーに立ち入るなと叱られるかと思ったが、夏神は上機嫌のままあっさり答えた。

「休みの日は、たいがいジム行って、飯食って酒飲んで終わりや。今日は知り合いと飲んどったから、ちょい遅うなったけどな」

「デート?」

「アホか。残念ながら、むっさい野郎の知り合いや。大阪で飲食店やっとる奴やから、情報交換しとってん」

 海里はソファーの上で猿のように胡座をかき、上半身を背もたれのクッションに預けるというだらしない姿勢で追及した。

「何だよ、ゲイじゃないけど、彼女もなし?」

「なしや」

「ふーん。モテそうなのにな、夏神さん」

「アホ、家主やからて、気ぃ遣わんでええわ」

「や、マジで。いない歴、どんくらい?」

 夏神はペットボトルを置き、やれやれといった様子で、それでもやはり素直に答える。

「三年ちょいやな。店開くちょっと前くらいに別れたきりや。ほんで、お前のほうはどないやねん。女問題で事務所をクビになるくらいやから、随分ヤンチャしたん違うんか」

 そう突っ込まれ、海里はようやく背筋を伸ばした。

「冗談じゃねえし!」

 真顔で憤慨した彼は、ソファーから降り、畳の上に腰を下ろして夏神に向かい合う。

「そうなんか? お前こそ、モテまくりそうなシュッとした顔やのにな」

「モテようがモテまいが、彼女作っちゃいけない商売だったんだよ、俺の場合」

「そんな商売、あるんか」

「俺、最初がミュージカルで、そっから朝の番組の料理コーナーを持たせてもらうようになったんだ。料理人でも何でもないんだけど、噓っこで『料理好き』をアピールしてたら、真に受けられちゃってさ」

「何や、そういう流れか」

 夏神は胡座で少しだけ背中を丸め、かたひじももの上に置いて、海里の話に耳を傾ける姿勢を見せた。

「聞いてくれんの、俺の話?」

「お前が話したいんやったらな」

 予想どおりの夏神の返事に、海里はシャープな頰を緩めた。

 海里がここに来て五日目の今日まで、夏神は海里の過去について何一つ自分からせんさくすることはなかった。

 かれないのをいいことに、海里も最初に打ち明けた事情以外は何も話さなかったのだが、さっき、夏神のプライベートについてあれこれ質問してしまった以上、自分のことも話さなければフェアではないと感じる。

 だから彼は自発的に、先週からの出来事を打ち明けることにした。

「夏神さん、俺が何言っても、人に言いふらしそうじゃないからいいや。俺さ、ずぶの素人から、何となくノリだけで、ミュージカル俳優になったんだ。自分が演じてるキャラに関しては、誰よりも上手うまくやれたって、今でも自信ある。だけど役者としては、すっげえ中途半端なわけ。想像つく?」

「まあ、何となくな。世間でよう言う、イケメン俳優とか言うやつか」

「その中でも、演技力に定評ない部類。それでも俺は、ちゃんとした俳優になりたかったんだ。情報番組の料理コーナーを引き受けたのも、そうやって露出があれば、いつか芝居の仕事が来るんじゃないかって期待したからだった」

「なるほどなあ。せやけど、料理も素人やってんやろ?」

「そ。ホントは料理好きでも何でもなかったし。だから最初はひどかったよ。あっ、だけどさ、コーディネーターさんに習ったり、プロのシェフに習ったりする機会をもらって、自分でも家で練習したりして、それなりにサマになっては来てたんだぜ? でも、あんなつまんねえ事件で、全部パー」

 夏神はお茶を飲み干し、躊躇ためらいがちに訊ねる。

「そのつまらん事件いうんが、女関係か?」

 海里は気まずそうに頷いた。

「さっきの話に戻るけどさ。あんま好きな言葉じゃないけど、俺は確かにイケメン俳優枠に入ってたわけ。そういう男はさ、ファンにとって、手の届きそうなところにいる、がむしゃらに頑張ってるさわやか君じゃなきゃ駄目なんだ。王子様とか、弟キャラとか、仮想彼氏とか、色々パターンはあるだろうけど、とにかくクリーンで、仕事とファンが恋人じゃなきゃ駄目なんだよ。リアル彼女とか、そういう生々しいのは厳禁なわけ」

「ほんで、お前はそのクリーンなイメージをしっかり守っとったわけか」

「そ。実際そうだったしね。彼女作る暇なんかないし、出会いの機会もないし、アイドルの子たちなんて職場の同僚感覚だから、マネージャーとか事務所とかににらまれてまで口説こうとは思わねえし」

「そういうもんかね。それやのに、なんで女関係で失敗したんや?」

 海里は、夏神が空っぽにしたペットボトルを手に取り、何となく両手でいじりながらうつむいて口を開いた。

「とあるドラマの打ち上げがあったんだ。俺、一話だけだけどゲスト出演したから、打ち上げにも呼んでもらえた。俺のマネージャーだった人、事務所の社長でもあってさ。いい機会だからじゃんじゃん売り込めって命令されたよ。だからプロデューサーやら脚本家の先生やらに一生懸命アピって、まあ、気を遣いつつも楽しい飲み会だったんだよ」

「ふん」

 好奇心き出しという風ではまったくなく、飲み屋で行きずりの相手の愚痴でも聞いているような調子で、夏神は相づちを打つ。

「だけどそこで、とある女優に会ってさ。年齢は似たり寄ったりなんだけど、子役出身で、ドラマじゃヒロイン格をやるような子だから、業界的には大先輩じゃん? その子と自宅の方向が同じだってわかって、途中まで一緒に帰ろうってことになって、タクシーに乗ったんだよ」

 夏神は、やはり小さく頷くだけだ。そのせいかんな顔には、何の感情も浮かんではいない。東京を去って以来、誰にも事の真相を話さなかった海里だが、しやべり出したらもう止まらない。まさに「まくし立てる」という言葉がぴったりの激しい語調で話し続けた。

「だけど途中で彼女が気分悪いって言い出して、タクシーを降りた。落ち着くまで近くにあったバールでソフトドリンク飲ませて、様子見てさ。まあ、具合はマシになったみたいなんだけど、けっこう酔ってるっぽくて足元危ないし、れつも回ってないし、ほっとけないと思ってさ。自宅まで送っていくことにしたんだよ」

「まあ、そうなるわな」

「ろくに歩けないのに、ひとり暮らしのマンションの入り口ではいさようならってわけにもいかないだろ!? だから部屋までついていって、玄関のかぎを開けてやって、靴脱がせて中入れて、ソファーに座らせて、水飲ませて! またしばらく様子見て、そんでまあ大丈夫だろうと思ったから、帰ったわけ!」

「……男としては、パーフェクトに紳士の振るまいやないか。何の間違いもあれへんで? 万が一疑われても、そう説明したら済む話と違うんか?」

 海里は、思わず手の中のペットボトルを強く握り締めた。薄い樹脂が、乾いた音を立てて凹む。

「それがさ。打ち上げ会場の外で張ってた芸能記者に後をつけられて、写真どころか、スマホで動画まで撮られてたんだよ! 全然気付かなかったけど。そりゃ、ヨロヨロの女の子を支えて歩いてるとこを動画撮影したら、俺が彼女を抱き寄せてるみたいに見えるよなあ? ふたりで彼女のマンションに入って、しばらく経って俺ひとり出てきたら、やることやった帰りっぽく見えるよな?」

「せやけど、事実は違うんやろ?」

「全然違うけど、事実なんかどうでもいいんだよ」

「どうでもええて……」

「彼女の事務所がでっかくて、俺の事務所が弱小だった。守られるべきは彼女で、捨てられるべきが俺だった、そんだけのこと。彼女は清純イメージで売ってるから、真っ直ぐ歩けないほど自発的に飲んだくれたりしない設定なわけでさ。そのイメージを崩さないように、あっちの事務所が、週刊誌発売前に手を打ったんだ」

「そんなことができるんか?」

 夏神はビックリした顔でのけぞった。芸能界に無縁の彼には、初めて聞くことばかりなのだろう。海里はさらにペットボトルをベキベキにしながらうなずく。

「力のある事務所は、何でもできるよ。……だから週刊誌が発売される朝には、俺が彼女に酒を勧めて酔わせて、彼女の部屋に強引に押し入ったってことになってたわけ。そうなるともう、俺には弁明の機会なんてないんだよ。ただ、大波にさらわれて、芸能界から放り出されるしかなかった」

 海里の手からさりげなくペットボトルを取り上げながら、夏神は低い声でたずねた。

「それ、家族には言うたんか?」

「聞く耳持たねえよ。特に兄貴は。母親も、ワイドショーを見たらしいから、出てる奴らのもっともらしい作り話を信じ込んじまってるんだろうな」

「……そうか。俺は芸能界のことはよう知らんけど、つらいもんやな。ようこらえた」

「こらえたっつーか、何も出来なかっただけだけどな!」

「それでも、やけっぱちにならんと……あ、いや、なっとったか。なっとったな。ああ……ええと……まあとにかく、お疲れさんや」

 苦笑いでごまかし、夏神は大きな手で海里のぱさついた髪をワシャワシャとでる。

「やめろっつの。どんだけ適当なフォローだよ、ったく!」

 うるさそうにその手を振り払いながらも、夏神の「お疲れさん」の一言に、海里は驚くほどホッとしている自分に気付いた。

 芸能界とはこういうものだ、仕方がないと憤りつつも、心のどこかで自分自身を価値のない人間だとおとしめていた。

 夏神の店の仕事を手伝い始めたのも、他にこれといってすることがなく、自分の居場所を確保するため……そんな打算的な目的からに過ぎなかった。

 そんな自分の意気地のないせつの日々を、「お疲れさん」といたわってくれた人がいる。それだけで、何となく報われたような気分になれたのだ。

 しかし、素直に感謝の気持ちを伝えるのは気恥ずかしくて、海里は立ち上がってわざとらしく伸びをした。

「んー、今日は片付けで疲れたから、もう寝るわ。今日からやっとひとり部屋ゲットだし! 布団も届いたし!」

 夏神も笑って片手を上げる。

「おう、これまでむさ苦しいオッサンと合宿モードやったからな。ひとりで大の字になって、ゆっくり寝ぇ」

「うん。おやすみー」

 あいさつして部屋を出ていこうとした海里は、ふと足を止めて振り返った。

「あのさあ、夏神さん」

「あ?」

「や、さっきひとりでいるとき考えてたんだけど、あの兄ちゃんの幽霊、週末は何してんだろな」

 夏神は小さく肩をすくめ、かぶりを振った。

「知らんわ。店開けてへんときは、さすがに入り込んでないみたいやで? さっき帰ってきたときは、おらんかった」

「じゃあやっぱし、店に人がいるときだけ来るのか。金曜まで毎日来てたけど、明日あしたも来るかな」

「どうやろなあ。何や、来てほしいんか?」

 冗談めかした夏神の問いかけに、海里は顔をしかめる。

「そういうわけじゃないけど、気になるだろ、やっぱ」

「まあ、なあ」

「……まあいいや。寝るわ。おやすみ」

 再度、おやすみの挨拶をして、海里は奥の部屋に引っ込んだ。

 四畳半の畳敷きの部屋には、まだ布団以外は何もない。バックパックに詰め込んで東京から持ってきた服は、部屋の隅っこに畳んで積み上げてある。

 そのうち、小さなクローゼットくらいは置く必要があるだろう。本当は、実家に送られているであろう東京のマンションを引き払ったときの荷物を回収したいところだが、当分、あそこには近づく気になれない。

「服も、買わなきゃな」

 つぶやきながら、海里は畳んであった布団を敷きにかかった。

 焼けた畳と、しつくいの壁、それにいかにも安っぽい布団セットと、芦屋川に面した、不透明なガラスをめ込んだアルミサッシの窓。とどめは、天井からぶら下がる、乳白色のガラスにドーナツ形の蛍光灯を仕込んだレトロな照明。

 東京で暮らしたしようしやなマンションとの落差を考えると、やはり情けない気持ちがこみ上げてくる。

「ありがたいけど、やっぱボロだよなあ、ここ」

 布団の上にごろりと転がり、思わずそんな呟きを漏らす。それでも、狭い居間で夏神のイビキを聞きながら眠るよりは、ひとり部屋を手に入れただけでも大きな進歩だと思わなくてはなるまい。

「こうやって、ちょっとずつ、色んなことがよくなっていくといいな……。そんで、いつかは」

 いつかはまたスポットライトを浴び、女の子たちの黄色い声を聞いたり、鮮やかに料理を作ってポーズを決めたり、ずっと願っていたテレビドラマに出演したり……そんな願いを、海里はぐっと飲み下した。

 数年経ってほとぼりがさめたら、事務所の社長は迎えに来てやると言っていた。だが、そんなことを信じるほど、海里はおめでたい性格ではない。

「……寝よ」

 電灯からぶら下げた長いひもを引いてあかりを消し、海里は薄い枕に頭を預けて目を閉じた。


 翌日の夜、煮て冷まし、味をよく含ませた高野豆腐を切り分けながら、海里はふと目を上げ、いつもの席にあの青年の幽霊を見つけて「あ」と小さな声を上げた。

 夏神はとっくに彼の出現に気付いていたらしく、大きなハンバーグ生地を手でまとめなおしてフライパンに置きながら、チラと海里のほうを見た。あまり気にするな、と言いたげな視線である。

(やっぱ、来た。……だけど夏神さんの言うとおり、最初に見たときより、気配が薄くなってる気がする)

 作業の合間にチラチラと青年を観察しながら、海里はそう思った。

 年齢が近いせいか、はたまた自分がこっぴどい挫折を経験したばかりだからか、海里は青年のことがどうにも気になって仕方がなかった。

 彼がどうして命を落としたのか、何故、幽霊になったのか、何故この店に来るのか、何か海里や夏神にしてほしいことがあるのか……と、疑問が次々と湧いてくる。

 しかし、彼はごくたまに海里の顔をぼんやり見るだけで、それ以外のときはずっとうつむいて座っているだけだ。話しかけても何のリアクションもないので、海里も夏神も、どうしてやることもできないのだ。

(ったく、こんだけ毎度毎度座り続けるんなら、何か言えばいいのにさ)

 そんなことを考えていると、客席から「お兄ちゃん、お冷やちょうだい」と声がかかる。

「はあい、水っすね」

 そう応じて、海里はピッチャーを手にカウンターを出た。

 実は土曜日、夏神と別れてから、海里はドラッグストアでヘアカラーを買い、上京して以来初めて、髪を真っ黒に染めた。それまではずっと、最初に演じたミュージカルのキャラクターと同じ赤茶色に染め続けてきたのを、生来の髪色に戻したのである。

 さらに、美容院に行く勇気はなかったので、ハサミで自ら、髪を短くした。前は頰に届くほど、後ろはうなじを隠すほど長かった髪を、ザクザクと切り込んだ。

 それはまるで、過去と決別するような行為だったが、悲しいかな素人の仕事はこつけいな結果を生み、帰ってきた夏神が一目見て爆笑しながらも、どうにか見られる状態に整えてくれたのだ。

 髪色と髪型を変え、それまで細めにカットしていたまゆを放置しただけで、ずいぶんとイメージが変わるものらしい。ごくたまに「五十嵐カイリに似ている」と言われるものの、それがまさか本人だとは誰も思わないようで、海里もあまり警戒せず、客と会話ができるようになった。

「ありがと」

 ハスキーな声で礼を言ったのは、初老の女性客だった。れいにメイクをして、少し派手目のラップドレスを着ている。この近くには飲食店やバーがそれなりにあるので、どこかの店の女主人なのかもしれない。

「今日のハンバーグ、何や特に美味おいしいわあ。いつもよりソフトやね」

 そんな女性客の言葉に、海里は思わずその場でガッツポーズを作った。

「ありがとうございます! それ、俺がタネねたんですよ!」

「あらホンマ? イケメン手作りのハンバーグなんて、うれしいわあ。マスター、ええ子が来たねえ」

「まあ、ええ子は認めるけど、ハンバーグは生地だけやない、むしろ焼き加減が命なんやで?」

 夏神が苦笑いで、カウンターの中から負け惜しみを言う。

「はいはい、言い直します。イケメンがタネ捏ねて、ワイルドが焼き上げてくれたハンバーグ、美味しいわあ」

 さすが関西と言うべきか、女性客もすかさずやり返し、夏神と共に陽気に笑い合った。

 他のテーブルの客たちも、「兄ちゃん、ホンマにうまいわ」と口々に褒めてくれて、海里は嬉しくて胸がいっぱいになった。

 夏神が料理するのを見ているうち、どうしても自分もやりたくなり、無理を言って、一度だけ試しに……とハンバーグ生地を作らせてもらったのだが、テレビの出演者たちと違い、この店の客たちは、本当に美味しいと思ってくれている。短い賛辞や表情から、それがダイレクトに伝わってきて、不覚にも泣きそうになってしまう。

 カウンターの中に戻り、サラダ用のトマトを切りながら、不必要に俯いて必死に涙をこらえる海里を、夏神は優しい目で見守っていた……。


 そして、真夜中過ぎ。

 店に客がいなくなると、夏神はスツールに座って棒付きあめめつつ、キャベツを千切りしている海里の手元を感心した様子で見た。

「お前、高野豆腐も知らんかったくせに、キャベツの千切りは異常に上手うまいな」

 海里はちょっと得意顔で言い返す。

「番組でさ、これができるとちやちやウケるわけ。見栄えするっしょ。だから、死ぬ程練習したんだ」

「……お前、基本的にものごっつい真面目やな。チャラい見かけでそうでもないように見えて、損しとったん違うんか?」

 そう言われて、海里はへへっと笑った。

「そうでもない。努力してますって顔すんの、俺、嫌いなんだ。チャラいくせに、何げなくキャベツの千切り超上手いとかって、かっこいいだろ?」

「そういうもんかねえ」

 夏神が不思議そうに首をひねるのさえ、気持ちが浮き立っている海里には妙に可笑おかしい。

「そうだよ。意外性ってのがいいんじゃん。それに、努力って言葉が、そもそも似合わなかったよ。滅茶苦茶かっこつけて料理してたからな、俺」

「……料理すんのに、かっこつけとかそんなんあるんか? 何すんねんな」

 海里のプライベートには干渉しないが、こと料理の話題になると、やはりプロとして気になるらしく、夏神は興味津々でたずねてくる。

 海里は、さっき洗った大きな丸皿を取ると、右の手のひらに載せた。

 それだけの動作で、料理コーナーをやっていた頃のことが思い出されて、一瞬息苦しくなるが、今はそれより浮かれ気分が勝っていた。

「料理が完成して、盛りつけも終わるだろ?」

「おう」

「そうしたら、こう、カメラに向かって、料理を出すアクションをしながら、決めぜりふを言うんだ」

「決めぜりふ?」

 身を乗り出す夏神の向こうには、例の青年の幽霊が、やはりぽつねんと座っている。

 大声を出したら、幽霊でも驚いたりしないだろうか……そんな悪戯いたずら心がムクムクと湧き上がり、海里はスタジオでもやらなかったような大声を張り上げた。

「ディッシー!!」

「なんじゃそりゃ!」

 夏神は予想どおりの反応をして、あきがおでのけぞる。だが海里は、そんな夏神の姿を見ていなかった。

 彼の目いっぱい見開かれた目は、夏神の肩越しに、青年の幽霊に注がれている。

 彼はゆっくりと立ち上がり、海里と同じアクションで、右手をゆっくり前に差し出したのだ。

 海里のきようがくの表情に気付き、視線を追って振り返った夏神も、「うお!」と驚きの声を上げた。

 二人が凝視する中、ずっと閉ざされたままだった青年の唇が薄く開き、声は出さないものの、唇が確かに「ディッシー」という海里の決めぜりふを形作る。

「お……おい、何、お前、俺のこと知ってんの!?」

 驚きつつも、海里は上擦った声でそう問いかけた。青年はかすかにうなずいたように見えたが、その姿はふうっと消えてしまう。

「お、おい、このタイミングでいなくなるとか、なくね? くっそ、明日あしたも絶対来いよ! 気になって仕方ないだろー!」

 思わず地団駄を踏みながら、海里はどこに向かって文句を言えばいいのかわからず、立ち上がった幽霊の顔のあったあたりをにらみつけ、そう言い放つしかなかった。

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