二章 どこへも行けない②




 午前三時を過ぎ、客足が途絶えると、夏神は「よっしゃ、休憩」と言い、カウンターの隅に置いてあった低いスツールを出して腰を下ろした。

 エプロンのポケットを探って煙草でも出すのかと海里が見ていると、夏神は棒付きの丸いキャンデーを取り出し、パクリとくわえた。

 むさ苦しい大人の男にキャンデーという取り合わせが可笑おかしくて、海里は思わず噴き出す。

「何だよ、ハードボイルド気取ってんのかと思ったら、あめって!」

「禁煙中やねん。口が寂しいときは、これでしのがんとしゃーないやろ」

「太りそう。キシリトールガムか何かにしときなよ。シュガーレスの奴」

「余計なお世話やっちゅうねん。俺はガキの頃から、この飴が好きなんや。ええから、お前も座れ。あんだけボコられてんから、へこたれとるやろ。それやのに、ようつどうてくれたな。ありがとうさん」

 夏神は飴をくわえたまま、やや不めいりような口調で礼を言う。海里ももう一つのスツールを夏神の傍に引きずってきて腰を下ろし、照れ笑いで頭をいた。

「ありがとうって言わなきゃいけねえのは俺だろ。……さっき、ごめん。どう考えても滅茶苦茶ヤバイとこ助けてもらったのに、ちゃんとお礼言わずに、八つ当たりした」

「おっ、えらい素直になりよったな。どないしてん。ちょっとは気ぃ落ち着いたんか?」

 そう問われて、海里は正直にうなずく。

「ん……酒が入ったせいもあって、ちょっとやけっぱちになりすぎてた。店、手伝ってるうちに、酔いがめてきたよ」

「そらよかった。水でもお茶でも、好きなもん飲め。何か食いたいんやったら、作ったろか?」

「や、さすがにそれはいい。でも、水もらうわ」

 そう言うと、海里は立ち上がり、グラスにピッチャーの水を注いで戻ってきた。一度座ったせいで、たった数歩の移動がやけにだるい。やはり、全身にかなりダメージを受けている様子だ。

 グラスになみなみと満たした水を一息に飲み干し、海里はふーっと息を吐いた。

「仕事の後のビール飲んだみたいな反応やな」

 口の中で飴を転がしながら、夏神は面白そうに笑う。

「心情的には、そんな感じ。俺、ビールは飲めないけどね」

「何や、酒はあかんのか?」

「じゃなくて、飲めるけどビールは苦いからちょっと苦手。発泡酒はギリいける」

「見てくれも、酒の好みも今どきやなあ」

 そう言って可笑しそうに笑う夏神の顔を、海里はようやくじっくり観察することができた。

 芸能人を日常的に見ていた海里にとって、夏神は決して際だった美男ではない。

 だが、骨太のたいはなまじのスポーツマンよりバランスよく鍛え上げられているようだった。引き締まった胸筋がTシャツの上からでも見てとれたし、そでからのぞく二の腕は、フライパンを振るだけではもつたいないほどたくましい。

 浅黒い顔も、目や口の造作が大きく、笑うと人懐っこいシワがじりに寄る。鼻筋がほんの少しだけ曲がっているのは、過去に鼻骨を骨折したせいかもしれない。

「何や? 俺の顔はそないに魅力的か?」

 ニカッと笑って、夏神は海里の顔を覗き込む。海里はばんそうこうだらけの両手を夏神に向け、軽くのけぞってみせた。

「そういう趣味ねえし! ただ夏神さん、何かスポーツやってんのかなって思って。えらく鍛えてるっぽいじゃん」

 それを聞いて、夏神は何故かほろ苦く笑って簡潔に答えた。

「昔な。大学時代、山、やっとった」

 海里は目をパチクリさせた。

「山って、スキー? 登山? ロッククライミング?」

「登山や。もうやめて久しいけどな。今は川沿い走るとか、休みの日にちょい筋トレやらボルダリングやらをする程度や」

「ああ、やっぱ鍛えてる系だ。料理にも筋肉要るもんな。俺も料理するようになって、二の腕がちょっとだけ太くなった」

 海里がそう言い、夏神に比べればずっと細い二の腕にささやかな力こぶを作ってみせると、夏神は飴の棒を数回上下させてからこう言った。

「お前、ホンマに料理したことあるっぽいな。最初は高野豆腐も切り干し大根も知らんで何を出任せ言うてるねんと思うたけど、野菜の盛りつけやら、飯の盛り方やら見てるとわかる。それなりに料理はかじっとるわ」

「そりゃ、一応二年間、料理をメインの仕事にしてたからさ」

「ふうん。料理人なんか、お前」

「や、そこまでは。それよりさあ、夏神さん」

 海里は話題をさりげなく変えるべく夏神に顔を寄せ、ごくごく小さな声でささやく。

「あいつ、いつまでいんの? トイレにも行かずに延々座ってるけど、大丈夫かよ」

「あいつ?」

「あいつだって! あんたが客じゃないって言ってた、あのぼーっとした兄ちゃん」

 そう言いながら首を巡らせ、くだんの青年が座っていた席に目を向けた海里は、「うわあっ」と叫んでそのままスツールごとひっくり返った。タイル敷きの床にしたたかにしりを打ち付けたが、痛みを感じる余裕などない。

 青年は、いつの間にか姿を消していた。

「おいおい、大丈夫か」

 夏神は苦笑いで立ち上がると、海里を助け起こし、スツールを立てる。夏神の手を借りてヨロリと立ち上がった海里は、震える手で青年が座っていたあたりを指さした。

「や、だって……おかしいだろ? 一分前、いや三十秒前には、そこに座ってたって! 俺、確かに見たもん。いたよ! いくら出入り口が近いからって、扉を開ける音くらい、しやべってても聞こえるっつーの!」

「あーあー、まあ落ち着け。座れ。別にお前を疑ってるわけやあれへん」

 困り顔でそう言うと、夏神は口の中で飴をバリバリみ砕きながら、海里の両肩に手を置き、無理矢理スツールに座らせた。

 そして見事なコントロールでダストビンに飴の棒を放り込むと、夏神は海里に向かい合うように座り直し、こう切り出した。

「気にすんな、いっつもああやねん」

「いっつもって何だよ!? 意味わかんねえし」

「あー、ええと。アレや。お前の言葉を借りてくと、お前、怪談は平気系か?」

 意外な質問に、海里は思いきり整った顔をしかめる。

「かいだん……って、上るほうじゃなくて?」

「ゴーストストーリーのほうや」

「ま……まあ、そこそこ平気だけど」

 まったく平気でない顔で、それでも真実が知りたいばかりに海里は虚勢を張る。夏神は少ししゆんじゆんしたが、「ほな言うけどな」と前置きして、海里がまさか……とうすうす気付きつつあっても、そうだと思いたくない一言をはっきり口にした。

「あれな、幽霊や」

「……マジで?」

「マジで」

 夏神は大真面目な顔で頷く。海里は、さらに念を押した。

「俺を怖がらせて遊ぼうとか、そういうのはナシの方向で、幽霊?」

 夏神はさらに深く頷く。

「お前を怖がらせて何が楽しいねん、アホ」

「じゃあ……マジなんだ。幽霊。なるほど、確かに生気なかったわ」

 海里はぼうぜんとしてつぶやく。あまりにもあっけらかんと告げられたので、恐怖心は不思議と湧いてこなかった。

 むしろ、幽霊と聞いて、色々とに落ちた気すらする。

 最初、青年がいるのに気付かなかったのも、何だか妙にぼんやりした表情をしていたことも、一言も喋らずじまいだったことも、動いたのはただ一度、海里の顔を見たときだけだったことも、せっかく出してやった水に手をつけなかったことも、彼がもはや生きていないのなら無理もない、という気がする。

「さっき、おらんようになったのに気付いたときのほうが、千倍ビビっとったな、お前」

 夏神は不可解そうに腕組みして海里を見ている。海里は、うーんとうなって首を傾げた。

「や、何か恐がり損ねたっつーか、納得したっつーか。俺、そういう話は基本的に好きじゃないんだけどさ、そのわりに昔からちょっと見えるほうみたいなんだよね」

「見える? 幽霊がか?」

 海里はあいまいに頷き、指先で茶色く染めた髪をいじる。

「いつも見えるわけじゃないけど、いるっぽい場所ではゾクッとしたりとか、気配を感じたりとかさ。霊感鋭いのかも」

「ふうん。俺はこれまでの人生で、霊感あるなんて思うたことなかったんやけどな。三年前にこの店開いてから、ちょいちょいあるんや、ああいうことが」

「マジかよ。そもそも、何で幽霊だってわかったんだ?」

 夏神は、さっき青年が座っていた席を振り返って見やり、ニヤッと笑って答えた。

「最初はもちろん、客やと思うたよ。せやけど、ああやろ? いつの間にか店に入ってきて、だまーってどっかの席に座っとるだけや。ほんで、お前は見損ねたみたいやけど、すうっと消えるねん」

「ひ……ひい……。それ、他のお客さんには見えたりしねえの?」

「んー、これまで二人だけ、見えたっぽい客はおったな。注文せんと、気持ち悪そうな顔でそおっと出ていった人と、急いで食い終わってそそくさとそっち見ながら帰っていった人がおった」

「じゃあ、それ以外の人は……」

「気付いてへんみたいやな。それでも、なーんとなく幽霊が座っとる席は無意識に避けることが多いみたいや。いっぺんだけ、幽霊の上から重なってお客さんが座っとって、俺もリアクションに困ったことがある」

「わー……そのまま平気で飯食って帰ったんだ、その人?」

「幽霊も何もないみたいに座っとるし、お客さんも普通に飯食うてはるし、食い終わったら幽霊と重なったまま新聞読み始めてなあ……。思わずガン見してもうたわ」

 相当に不気味な話のはずなのだが、夏神の口調があまりにものんびりしているので、海里もすっかり恐がり損ねてしまい、むしろ面白そうに身を乗り出した。

「なるほどなあ……。何でそんなことになるんだろ。ここ、昔の戦場とか、処刑場跡地とかだったりすんの?」

「いや、俺ももともとは地元の人間やないから知らんけど、そんなことはないやろ。ちょんまげの幽霊は来たことあれへんし」

「それもそうか」

「人がおるとこが恋しいんかもしれへんな。あと、昔、何かで読んだけど、幽霊は水のあるとこに集まる言うから、川沿いのせいかもしれへん。それか、警察署と教会の間にあるっちゅう立地条件やろか」

「うーん、どうかなあ。確かにレア物件だとは思うけど」

「せやろ。それが気に入って、ここに店開いたようなもんやしな。まあ、幽霊も、別に何するわけやないし、害もないし……」

 海里は少し伸びすぎた前髪をひと房、指に絡めてくいくいと引っ張りながら口をへの字に曲げた。

「いやいや、微妙に害あるっしょ。何もしないつっても、毎日ずーっと来られたんじゃ、気分的にちょっとさあ? それにこの店、それなり客が入るみたいだし、席一つずっと占領されるのも困るだろうし」

「それなりで悪かったな。……まあ、毎日来たり、数日おきに来たりは幽霊次第やけど、そのうちぱったりと来んようになるねん」

「飽きて?」

「いや……どうやろな。もしかしたら、消えるんかもしれん」

「消える?」

 驚く海里に、夏神は頭を包んでいたバンダナを外して巻き直しながら説明した。

「あいつら、もとから気配は薄いねんけど、それがだんだんもっと薄うなってくるねん。ほんで、とうとう店に来んようになるから、消えるんちゃうかなと勝手に思っとるだけや」

「……へえ。じゃあ、さっきのあいつもそうなのかな。もう、どんくらいここに来てんの? 幽霊、だいたいどのくらいで消えるんだ?」

 夏神はしばらく考えてから答える。

「確か、ここ五日ほど毎日や。最初より、ちょっとだけ気配が薄うなってきた気がするわ。消えるまでは……人それぞれやな。これまで、最短は一週間、最長は一ヶ月ちょいっていう若いお姉ちゃんの幽霊がおったなあ。やっぱし女のほうが、情念が深いんかもしれん」

「へえ……」

 普通に酒の席や楽屋で聞いていたら、話題作りのためにずいぶん話を「盛った」と笑い飛ばしていただろう。しかし、出会ったばかりでも、夏神がそういう作り話をするタイプでないことはわかる。

 何より海里自身が、あの不思議な青年の姿を目の当たりにしたのである。信じないわけにはいかない。

 夏神は、新しいあめを出し、しかし包み紙をほどかずに手の中で転がしながらこう言った。

「俺は、ここに来る幽霊のことしか知らんけど、あいつらには俺の声は届かんみたいでな。話しかけても、目の前で手ぇ振っても、ぼんやり座っとるだけで、何のコミュニケーションも取られへんかったんや。せやからさっき、あの男の子がお前の顔を見たて聞いて、ちょっとビックリした。そんなん初めてや」

「マジ!? あれ、珍しかったんだ」

 驚く海里に、夏神はうなずき、何か言おうとする。だがそのとき、店に二人連れの客がおずおずと入って来た。まだ若い男女だ。

「えっと、さっきまで飲んどったバーで、ここで阪神の始発待ちながら飯食えるって聞いたんやけど、ホンマすか?」

 男性のほうが、遠慮がちに夏神にたずねる。夏神は立ち上がり、「いらっしゃい」と笑顔を見せた。

「別に始発の待合所やないけど、いてくれてかめへんよ。表に書いてあったやろ? うち、メニューは日替わり一種類やねん。今日は生姜しようが焼きやけど、それでよかったら」

 男性はホッとした様子で、傍らの恋人とおぼしき女性を見る。

「生姜焼きやて。俺はええけど、お前は?」

「めっちゃ好き!」

 女性は屈託なく答える。「ほな、二人前でお願いします」と言って、二人はテーブル席についた。

「日替わりしかないんだ、ここ。道理でずっと生姜焼き作ってるなーって思ってた」

 小声でそう言った海里に、夏神は苦笑いで頷く。

「ひとりでやってるし、食材に無駄も出しとうないしな。水とはし、頼むわ」

「おう」

 海里はかなり手慣れてきた様子で二つのグラスに水を注いだ。

 夏神は冷蔵庫から豚肉を取り出しながら、客に話しかけた。

「今まで飲んでた言うたら、『芦屋日記』あたりか?」

 男性客は頷く。

「そうです。あそこカレーがうまいって噂やったから、それを食べるつもりやったんですよ。でも、今日は売り切れで」

「そら残念やったな。あそこ、ええ店やろ。エレベーターがないから、階段がちょっときついけどな。兄ちゃんらは若いから平気やろし」

「や、若くても四階はちょっときついっすわ」

「店に入るときには、二人ともはあはあ言うてたもんね。その分、お酒が美味おいしかったけど」

 そう言って笑う二人に、海里は「いらっしゃいませ」と声を掛け、水のグラスと割り箸をそれぞれの前に置いた。

「ありがとう……あれ?」

 あいきようのある関西のイントネーションで礼を言った女性のほうが、海里の顔を見てちょっと驚いた顔になる。

「五十嵐カイリにめっちゃ似てるって言われません?」

「!」

 海里はギョッとして、トレイを持ったまま硬直した。途中までは警戒していたのだが、夏神と少し打ち解け、客の応対にもいくぶん慣れて、いつの間にか油断していたらしい。

 男性のほうも、「ほんまや」と盛んに頷く。

「い、いや……別に……」

「そう? めっちゃかっこいいねえ」

「おい、俺の前で他の男褒めるんはないやろ。ないわー。せやけど確かにかっこええな」

 男性は苦笑いで恋人をたしなめつつ、海里の顔をしげしげと見上げる。ドギマギしつつ、海里はすっかり板に付いた愛想笑いをとつに浮かべ、しらばっくれた。

「いやー、いきなり褒められたら照れますよ。そんなに似てます?」

「似てる似てる。あ、でもあの子、女性問題で何かやらかして、クビになったんやったっけ。似てるって言われてもビミョーか。ごめんなさい」

「あ、いや……」

 それこそ「微妙」な言われように、海里は口元を引きつらせる。それを、彼が気分を害したのだと解釈したらしき男性のほうが、フォローのつもりで慌てて口を挟んだ。

「まあ、とにかくかっこええってことで! それこそ、こんなとこで働くより、バーとかのほうが似合う……あ、すんません。俺まで失言してもうた」

「別にええよ。確かにそいつ、かっこええやろ。うちの店にはもつたいないわ」

 恐縮する男性に軽口で応じ、肉を焼き始めた夏神は、物言いたげなまなしを海里に向ける。海里はえて夏神のほうを見ず、「とりあえず、ありがとうございます」と笑顔で頭を下げ、カウンターに戻った。

 夏神と、なおチラチラ自分を見ている女性客の視線を感じたが、すべてを無視して、皿に野菜を盛りつけ始める。

 やがて、二人の客の話題は、さっきまで飲んでいたバーで出されたらしきフルーツカクテルに移った。夏神も、何でもなかったように、「ほい、肉上がるで。飯としる」と指示を出してくる。

 海里はようやく少しあんして、ずっとガチガチだった肩からほっと力を抜いたのだった。


「ほい、お疲れさん」

 そんな言葉と共に夏神が引き戸に掛かっていたのれんを下ろしたのは、午前五時前、始発待ちのカップルを送り出してからだった。

 食器を下げて洗い始めた海里を見て、夏神は無言で椅子を引っくり返し、テーブルの上に上げ始めた。

 しばらくの沈黙の後、夏神はカウンターの最後の椅子を上げ、口を開いた。

「いがらし かいり」

「うっ」

「お前とおんなじ名前の芸能人がおるんやな」

「…………」

「ほんで、そいつは何ぞ女関係でやらかして、クビになってんな」

「……おい。もってまわった言い方すんなよな。そうだよ、俺だよ。五十嵐海里は本名。芸名んときは、海里をカイリってカタカナにしてただけ!」

 洗った皿をきながら、海里はやけっぱちの勢いで白状する。夏神は、さして驚いた風もなく、「ふうん」と相づちを打ちながら、奥の小さな物置から掃除機を出してきた。

「芸能人やのに、料理がメインの仕事やったんか?」

「マジで何にも知らないのかよ。朝の情報番組で、俺、料理コーナーやってたんだけど」

 いささかプライドを傷つけられ、海里は膨れっ面で訴えた。だが夏神は、笑顔でそれを受け流す。

「朝は寝とるからな。知りようもないわ」

「それもそっか……」

「すまんな。ほんで、そのイケメン芸能人が……」

「元イケメン芸能人」

「元イケメン芸能人が、閉店まで店手伝ってくれたっちゅうことは……アレか、行くとこないんか?」

 海里は皿を置き、ふきんを持ったまま頷いた。

「ない。俺、実家こっちなんだ。昔と違って、芸能レポーターも夜中じゅうピンポン鳴らすような無茶はできなくなったからさ。実家にかくまってもらってやり過ごそうと思ってたんだけど……追い出された」

 夏神は掃除機のコードを延ばす手を止め、目をく。

「追い出された? 親にか?」

「母親と、兄貴。うち、早く父親が死んだから、一家の大黒柱は兄貴なんだ。その兄貴が、俺がそもそも役者になることに大反対でさ。今度のことでもうブチキレちゃって、話なんてろくに聞いてくんねえの」

「なるほど。ほんであの辺をブラブラした挙げ句、ヤンキーどもに絡まれたっちゅうわけか」

「そゆこと。先週の金曜から、毎日踏んだりったり。夏神さんに助けてもらったのが、唯一よかったことかもね」

「そうか。そらよかった」

 笑って一呼吸置いてから、夏神はこう言った。

「仕事手伝ってくれるんやったら、ここにおってもええで」

「マジ!?」

 海里の顔がパッと輝く。夏神は、太い指で天井を指さした。

「言うても、俺は二階に住んどるから、ホンマに言葉どおり『ここにおってもええ』っちゅう意味やけど。あと、物置にしとる部屋を片付けるまで、俺と同じ部屋で寝起きしてもらわんとあかんけど」

「……あんたがそっち方面じゃないなら、別にいいよ」

 夏神は、広い肩をそびやかす。

「今んとこは、違うな」

「今んとこって何!?」

「知り合いのゲイがよう言うねん。『ノンケかどうかは、やってみるまでわからへん』て。まあ確かに、これまで男にれたことがないだけかもしれんしなあと思ってな」

「……じゃあ言い直す。俺がタイプでないならいい」

「およそタイプやない」

 夏神は真顔で即答する。海里も、ようやく首を縦に振った。

「そんじゃいいや。お世話になりま……あ、まさか一つ布団じゃないよな?」

「んなわけあるかい! 言うても布団は一組しかあれへんから、お前には、しばらくソファーで寝てもらわなあかんけど。週末に布団買いにいこうや」

「イエッサー。てか、とりあえずその前に掃除だろ? 俺、何する?」

 とりあえずの居場所が決まったことで、少しホッとして、海里のテンションは自然と高くなる。

「ほな、俺が掃除機かけとる間に、生ゴミまとめて裏のポリペールに放り込んどいて。残った白飯は、ちやわん一杯ずつくらいにまとめてラップしといてくれたらええわ。あとでチンして、俺らのまかないに使うから」

「了解っ」

 怪我の痛みなどどこへやら、生き生きと作業にかかる海里に苦笑いしながら、夏神は掃除機のスイッチを入れた……。

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