二章 どこへも行けない①





「何やお前、ひとりでおられへんガキか。狭い家ん中で、でっかい声出しやがって」

 海里のただならぬ呼び声に、救急箱を抱えた夏神は、あきがおで階段を下りてきた。

「だ、だって! ちょっと来てって」

 水を飲んだおかげで、さっきよりずっとスムーズに声が出る。夏神はいぶかしげにしつつも、海里の手招きに応じて近寄ってきた。

「何や? どないした」

 のんびりした夏神の顔を呆れ顔で睨み、海里はヒソヒソ声で言った。

「どうもこうも、あんたの目は節穴かよ。お客さん、いるじゃん」

「う?」

「あそこ!」

 青年がぽつねんと座っている席を、海里はささやきながら小さく指さした。すると夏神はそちらを見やり、すぐに海里に視線を戻す。

「へえ」

 その、いかにも意外そうな声音と表情に、海里は戸惑ってまゆをひそめた。

「な、何だよ」

「いや……。まあええわ。何ちゅうか、あの人は客やないねん」

「へ?」

「ただ、あそこに座っとるだけや。気にする必要はあれへん」

「えっ? な、何だよそれ。座ってるだけ? 客でもないのに?」

 夏神の言葉の意味がわからず、海里はキョトンとしてしまう。夏神は、よく見ればなかなかに端整な顔をクシャッとさせて困り気味の笑顔を見せ、海里の頭をポンとたたいた。

「ま、そういうこっちゃ。そっとしといたって。ええから、まずはお前や。傷だらけやし、手当せんとな。はよ、顔拭け」

「う、うん」

 おしぼりを袋から出しながら、海里は青年を見た。

 いくら声をひそめていても、音楽はかかっていないし、狭い店の中だ。彼らが自分の話をしていることくらいは容易に気づけるはずなのに、青年は無表情で俯いたまま微動だにしない。

(何だろ。近所のちょっと危ない人なのかな。座ってるだけで別に害はないから、そのまま放ってあるとか……?)

 何にせよ、本人を目の前にして、彼の素性をこれ以上夏神にたずねるのはどうにも気まずい。仕方なく、海里は血まみれの顔をぬるくなったおしぼりでぬぐい、命じられるまま、痛みにうめきながら、あちこち破れたほこりまみれのTシャツを脱ぎ捨てた……。


 とりあえずの応急処置を終えたのは、午後十一時頃だった。「ただいま買い出し中」の札を引っ繰り返して「営業中」にするなり、店にはぽつりぽつりと客が入り始める。

 出ていけと言われるかと海里はビクビクしていたが、夏神は無造作に「ゆっくり休んどき」と言うと、自分は接客と調理をひとりでこなし始めた。

 しかし日付が変わる少し前、近くで工事をしているらしき作業服姿の男たちが、一気に六人連れ立って入って来た。

 椅子に座ってじっと身体を休めていた海里も、さすがにぼんやり見ているだけでは気が引けて、のっそりカウンターの中に入った。

「オッサ……違った、夏神さん、俺、手伝うわ」

 声を掛けると、薄切りにした豚肉に調味料を振りかけながら、夏神は笑顔で言った。

「ええよ。それより動けるようになったんやったら、上行ってごろ寝しとけ。あっちこっち痛いやろ」

 確かに全身いたるところが熱を持ってうずいていたが、じっとしていると余計に痛みが気になる。少し動きたい気もして、海里はわざと元気そうな声を出した。

「や、もう全然大丈夫だし」

 海里のまんは百も承知なのだろうが、夏神はニッと笑って「そうか」とあごをしゃくった。

「ほな、客席回って、水を注ぎ足したって。さっき来たお客さんら、のど渇いとるみたいやし」

「ん、わかった」

 うなずいてから、海里はふと、くだんの青年を見て夏神に囁いた。

「なあ、せめて水くらいは置いてやってもいいんだろ、あいつにも」

 夏神は、意外そうに太い眉を上げる。

「えらい気になるんやな」

「まあ……つか、普通に気になるだろ、人形みたいに固まってんだもん」

「それもそうか。ええよ、置いたって」

「おっけ。……いたた」

 氷水を満たしたピッチャーを何の気なしに持ち上げようとすると、さっきひどく踏みつけられた右腕が痛んだ。あるいは、筋を傷めてしまったのかもしれない。

 用心して両手でピッチャーを持ち直すと、海里は客たちのグラスに水を注いで回った。

 若い客もいたので、もしや自分の顔を知っているのではないかと内心ドキドキしていたが、皆、それぞれの話に花を咲かせていて、海里のほうを見ようともしない。

 ホッとしつつ、海里は最後に新しいグラスを取って水を注ぎ、それをカウンターの隅っこに座り続ける青年の前に置いた。

「何だかよくわかんないけど、水くらい飲んだら?」

 そう声を掛けると、青年はゆっくりと顔を上げた。

 繊細そうな、いかにも文学青年といった地味な顔だが、その目はうつろで、どこかとしている。ひとみは確かに海里のほうを向いているのに、海里の顔には焦点が今ひとつ合っていない感じだ。

「ご……ごゆっくり、みたいなことで」

 一言もしやべらない青年にぼんやり見られているのがどうにも居心地悪くて、海里は青年の前をそそくさと離れ、ピッチャーを置いて夏神の横に立った。

「なあ、あいつ、俺のこと見たけど何のリアクションもないし。ありがとうくらい言っても、バチ当たらないと思うんだけど」

 少し不平じみた耳打ちをすると、油を引いた大きなフライパンに豚肉を一面に並べ、景気の良い音を立てて焼いていた夏神は、明らかに驚いた顔をした。青年のほうを見てから、海里に向き直る。

「お前を見た? あいつが? 気のせいちゃうんか」

「見たよ! 何かこう、寝起きみたいにぼんやりとはしてたし、喋りもしなかったけど、絶対、俺の顔見てた! ほら……あ、もううつむいちゃってるや」

「へえ……お前の顔をなあ。あ、あかん。よそ見しとった」

 夏神はいかにも意外そうに首をひねりながら、鮮やかな手並みでさいばしを使い、肉をくるくると引っ繰り返していく。パチパチと油がぜ、肉が焼けるこうばしい匂いに、海里は思わず鼻をひくつかせた。

「あー、すっげいい匂い。ここしばらく肉なんか焼いてなかったから、忘れてたわこの感じ」

「なんやお前、腹減っとんのか?」

 問われて、海里は小さく肩をすくめる。

「晩飯食ったけど、さっきボコられて全部吐いちまった。けど、腹をられたせいか、空腹って感じはしねえな。ただ、懐かしいって思って」

「料理がか?」

「ちょっと前まで、毎日料理してたから」

「ふうん?」

 いかにも半信半疑に相づちを打たれて、海里は不満げに口をとがらせた。

「マジだって! 何なら料理も手伝ってやるよ。何すりゃいい?」

「ホンマにできるんか?」

 夏神は辺りを見回し、「ほんだら……」と考えながら言った。

「高野豆腐、煮といてくれへんか? 付け合わせの小鉢、今は切り干し大根やけど、そろそろ切れるから。次は高野豆腐のいたんにしよかと思うねん」

 そう言われて、海里はギョッとした顔になった。

「こ……こうや、どうふ?」

 夏神はフライパンの端っこを空け、そこでタマネギの薄切りを肉と共にいためながら頷く。

「おう。調理台の上に、モノは出してあるから。そこに並んどる調味料を好きに使つこうてくれたらええわ」

「あ、い、いや、その……えっ? 何、このブロックみたいなのが高野豆腐? マジで? すっげカチカチじゃん」

 夏神に言われて調理台のほうへ行った海里は、透明の袋にパッキングされた高野豆腐を手に取り、ビックリ顔でしげしげと眺めた。夏神は、そんな海里の様子に苦笑いする。

「何や、料理できるん違うかったんか?」

「い、いやさ。ちょっと高野豆腐だけは、使ったことがなかったかな~、なんて」

「ほな、もっぺん切り干し大根でもええで? 下の戸棚に乾物は全部入っとるし、冷蔵庫に揚げもチクワもあるから、好きなほう使うてくれたらええ」

「きりぼし……だいこん……。何、大根を切って干してあんの? 何でわざわざ干すの?」

「……おいおい。使うたことがあれへんのは、高野豆腐だけと違ったんか」

 海里のほうを見ずに、けれどあきれていることが明らかな声音で、夏神は突っ込みを入れて来る。海里は気まずさに軽く逆ギレして言い返した。

「和食はあんま得意じゃねえんだって! 俺、もっと洒落しやれた料理が得意だからさ」

「洒落た料理? たとえばどんなんやねん、それ」

「メインなら、アクアパッツァとか」

「……なんじゃそら」

「こう、魚と貝をオリーブオイルと水でじゃんじゃーんって……。あっ、そう、俺、パスタなら超得意! ペペロンチーノなんか、超有名シェフに直接教わったんだぜ! あと、アマトリチャーナとか……」

「そうかそうか。そらすごい。せやけど、うちで必要なんいうたら、ナポリタンと、定食につけるケチャップスパゲティくらいやなあ」

 のんびりした笑い交じりの口調でそう言い、夏神は実に無造作に調味料を次々フライパンに注いだ。ジューッという小気味良い音と共に、それが生姜しようが焼きであることが誰にでもわかる、独特の刺激的な匂いが辺りに漂う。

「うう……な、何かないのかよ、他に! 俺にできそうなこと!」

「ほな、ハム切って。冷蔵庫に入っとる。お客さん六人やから、三枚出して半分ずつ。あと、キャベツの千切りと生野菜も出してんか」

「う……わ、わかった」

 そんな簡単な作業、馬鹿にするなと言いたいところだが、立て続けに役立たずぶりを露呈してしまった以上、異議は唱えにくい。

 海里はスゴスゴと、家庭用の冷蔵庫を開けた。目線の高さの実にわかりやすい場所に、大きなボウルに山盛りのキャベツ千切りと、パックのままのボンレスハム、それにステンレス容器にれいに詰め込まれた、くし切りのトマトと斜めにスライスした胡瓜きゆうりがあった。

 どうやら夏神は、たったひとりで店を切り盛りしているようだ。

 その分、調理を手早く行うために、念入りに下ごしらえをしているのだろう。冷蔵庫には、他にも様々な大きさのステンレス容器や樹脂製の密封容器が整然と並んでいる。

「棚から、でっかい白い皿六枚出して、キャベツ千切りたっぷりひとつかみとトマト一切れ、胡瓜三枚、ハム半分、芸術的に盛りつけたって」

「ちぇっ、超馬鹿にしただろ、今!」

 毒づきながらも、海里は綺麗に手を洗い、夏神の指示どおりに野菜を盛りつけ、ペラリとした頼りないハムの置き所に悩みながらも、どうにか盛りつけを済ませた。

「おっ、さすがお洒落料理専門家、なかなかシャレオツな盛りつけやないか」

 フライパン片手にやってきた夏神は、そう言って相好を崩すと、六枚の皿に生姜焼きを気前よく盛り分けた。

 綺麗に焼き色のついた豚肉と、タレが浸みてあめいろになったタマネギが、何とも食欲をそそる出来映えだ。

「よっしゃ、手ぇ、大丈夫やったら運んでくれや」

「これくらいなら平気だって」

 余裕たっぷりを装って請け合い、しかし慎重に片手に一枚ずつ皿を持って、海里は客席とカウンターの間を三往復した。その間に、夏神がしるとご飯を人数分よそい、カウンターにズラリと並べる。

「うめえ!」

ちやちや飯が進むわ」

 男たちは海里のトレイからご飯のちやわんを引ったくるようにして受け取り、肉とタマネギを白いご飯に載せてガツガツとかきこむ。

 カウンターの中に戻って、彼らのおうせいな食欲を見守り、「うまい」という素直な賛辞を聞いていると、海里は胸がギュッと苦しくなるのを感じた。

 自分が作った料理ではないにせよ、目の前で誰かが美味おいしそうに料理を平らげているのを見ると、かつて収録スタジオで、自分が作ってみせた料理を他の出演者たちが笑顔で食べてくれていたのを思い出したのだ。

 彼らのいかにもおおな「おーいしーい!」やら「んーっ!」やらいうリアクションを、番組に出演していた頃は素直に喜んでいたものだが、今思えば、あれはただの演技だったのかもしれない。

 それでも、あの場所が恋しかった。

 いつしかテレビ番組に出演することも、そこで料理することも、当たり前のように思っていた。けれど、こんなにあつなくすべてを失ってみると、今はただひたすら、何もかもが懐かしく、切ない。

 食事をする客たちを複雑な面持ちで見ている海里の、そんな気持ちを知ってか知らずか、夏神はおうような笑顔でかすれた口笛を吹きながら、フライパンを洗いにかかった……。


 

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