一章 脆い砂の上で③




 それから七時間後、すなわち午後九時過ぎ、海里は、嵐のような暴力にさらされていた。

 相手はひとりではない。たぶん、五、六人はいるだろう。

 誰かは知らない。コンビニの前でヤンキー座りを決めていた、たぶんまだ十代の少年グループだ。少年といっても、皆、海里よりずっと大柄で、派手な変形学ランを着込んでいる。

 コンビニの入り口すぐ前の歩道で彼らに難癖をつけられ、取り囲まれ、さっきからずっと殴られたりられたりしている。両手で頭と顔を庇うのが精いっぱいで、もう、全身どこが痛いのかすらわからない。ただ、身体じゅうが熱い。

 誰か助けてくれればいいのに、店に出入りする客も、コンビニの店員も、皆、見て見ぬふりだ。

「んぐっ……おぇ」

 アスファルトの上に転がりダンゴムシのように身体を丸め、それでも腹に食い込む革靴のつま先に胃をえぐられて、海里は反射的におうした。

 うわっ、きたねえ、と口々に怒声を上げ、彼らはいっそう激しく蹴りつけてくる。

(なんで……こんなことになったんだっけ)

 もうろうとし始めた意識の片隅で、海里はぼんやりと思いを巡らせた。

 人生の終わりには、これまでのことがそうとうのように脳裏に浮かぶというが、彼の頭をよぎっているのは、ここ半日の出来事だった。

 実家を追い出されたあと、駅前のスターバックスはさすがに避けたほうがいいような気がして、海里は駅から少し離れた、昔ながらの喫茶店に入った。

 木造のシックな内装はいかにも大人のための店といった趣で、海里は場違い感満点だったが、客はほんの数人、しかも自分のことなど知らなそうな年配の人々ばかりだったので、彼はひとまずホッと一息つくことができた。

 そこで、凝ったカップで出されるコーヒーを、味などわからないまま三杯ほどお代わりして、外が暗くなるまで居座り、海里は電車で二駅の隣町、あし市へと向かった。

 これといって行く先もやりたいこともなかったので、これまで行ったことがないが、東京でもやたら「関西でいちばんの高級住宅街」と言われる芦屋市を見てやろうと考えたのだ。

 東京では、高級住宅街であればあるほど、芸能人が歩いていても、そっと見て見ぬ振りをしてくれる傾向がある。関西でも同様ではないかという思惑もあった。

 実際、暗くなったせいもあるが、街中をぶらついている間も、それから適当に見繕って入ったはんしん電車あし駅前の居酒屋の主人も店員も、海里の正体に気付く様子はなかった。

 書店の上にあり、地鶏専門と看板に書いているくせに、何故か魚メニューが充実しているちょっと奇妙な居酒屋で、大いにヤケ酒とヤケ食いをし、やたら上機嫌で店を出たのは覚えている。

 酔いで濁った意識の中で、確かJR芦屋駅前に小さなホテルがあったと思い出し、今夜はそこに泊まろうとフラフラ歩き出したことも、覚えている。

 その途中、のどが渇き、水でも買うかと通り掛かったコンビニに立ち寄ろうとして、入り口の脇でしゃがみ込んでいた少年のひとりに気付かず、うっかりばしてしまったのだ。

 酔っていたせいで自分の失態を自覚できず、海里は謝りもしないで、ただぼんやりと少年を見下ろした。

 少年がそんな海里の態度に腹を立てたのは、無理からぬことだ。

 たちまち海里を取り巻いた少年と仲間たちに口々に罵られても、そのときの海里には、彼らの声はただの騒音にしか聞こえなかった。

 ただポカンとしている海里の間抜け面を、少年たちは「自分たちを馬鹿にしている」と感じたのだろう。とうが暴行へと発展するまでには、一分もかからなかった。

(ああ、そっか。それでこうなったんだっけ……)

 とうとうあおけにされ、本能的に顔面を守ろうとする腕の上から、ガシガシといくつもの足に踏みつけられる。

 最初のほうこそ手足を振り回して暴れてみたが、多勢に無勢だ。もう抵抗らしい抵抗もできず、海里は死を予感した。

 ただ、恐怖の度合いでいえば、今朝の夢のほうがずっと怖かった。

 今は、酔いのせいか痛みもそれほど感じないし、どうにでもなれというやけっぱちな気持ちしか、海里の心にはない。

(東京で事務所をクビになった翌日の夜に、高級住宅街の芦屋で野垂れ死にか。また、週刊誌もワイドショーも大喜びだな。この店にも、取材が来るんだろうな)

 そんな自虐的な考えがよぎり、絶体絶命な状況なのに、つい頰が緩む。

 それを挑発と受け取ったのだろう。少年たちはますますいきり立ち、「刺したろか!」「殺したる!」などと物騒なことを叫び始めた。

 これはいよいよ本当に、人生の終わりらしい。

 でも、べつに構わない。

 もう何もかもなくしてしまったのだから、この上、命を失ったところでどうということはない。

 あきらめの心境で、海里が顔をかばう腕から力を抜いてしまおうとしたそのとき、頭の上から、やけにのんびりした野太い男の声が降ってきた。

「おいおい兄ちゃんたち、そのへんにしときや。よってたかって、そんなひょろい奴ひとり殺して前科ついても、かっこ悪いし、しょーもないやろ。男の勲章にはなれへんで」

(……え……?)

 少年たちは、新たな標的の登場かと、無抵抗の面白くなくなった獲物を放り出す。突然、雨嵐のように降り注いでいた殴打がぱたりと止んで、海里はゆるゆると腕をどけた。

 首を巡らせると、海里の近くに、大柄な男が立っていた。身長は百八十センチ以上あるだろう。兄の一憲よりさらに長身で、決してマッチョではないが、妙な迫力のある骨太な身体付きをしている。擦り切れたジーンズとTシャツという軽装の男の大きな足は、サンダル履きだった。

「おい、何やねんオッサン!」

「お前も殺されたいんか!」

 いかにもケンカ慣れした少年たちにすごまれても、男は一向に恐れる様子もなく、「殺されとうはあれへんな」と笑った。

 コンビニから漏れる光に照らされる男の顔は、三十代後半くらいだろうか。硬そうなザンバラ髪を、バンダナでぐるりとまとめている。男は柔和に笑っていたが、その切れ長の目には強い力が宿っていた。

「せやけど、殺す気もあれへん。俺が両手をポケットに入れとる間に、消えたほうがええと思うで? 左手出したら半殺し、右手出したら……さあ、どないしょ。仲良う芦屋川にでも浮いてもらおか。この時期、浮くほど水はあれへんかもしれんけど」

 やんわりした言葉遣いだが、腹の底にビシビシ響くような不思議な圧力のある声に、少年たちは明らかにたじろいだ。

「ほれ。左手……出すで? ええんか?」

 そう言いながら、男は半歩、すり足で前に出る。途端に、少年たちのひとりがはじかれたように走り出した。それにつられて、仲間たちも口々に二人をののしりながら駆け去って行く。

(……ああ……行っちまった)

 地面にダラリと腕を伸ばし、海里はぼんやりと少年たちの遠くなっていく靴音を聞いていた。

 むしろ死に損ねたという落胆が、胸に満ちてゆく。

 そんな海里の気持ちなど知る由もなく、男はゆっくりと海里に歩み寄り、彼の前にしゃがみ込んだ。

「おい、兄ちゃん。生きとるか? 救急車呼ぶか?」

「いらない」

 血に染まった唇を小さく動かし、海里は切れ切れのかすれ声で断った。

 病院に担ぎ込まれて、素性がばれでもしたら、これまたスキャンダルの上塗りだ。元マネージャーの美和のふんの表情が、目に浮かぶようだった。

 男は、苦笑いでまゆをひそめる。

「せやけど、えらい怪我やで? まあ、見た目ほどひどくはないやろけど、血だらけや。ほな、立てるか?」

 そう言いながら、男は太い腕を海里の背中に回し、ぐいと抱き起こす。

 決して乱暴な扱いではなかったが、身体中、傷ついていないところがない状態の海里は、今頃になって感じられるようになった苦痛にうめく。

 それでも男の腕を借りてどうにか立ち上がると、男は満足げにうなずいた。

「立てるし、俺の腕つかめるし、手足の骨は折れてへんな。アバラはわからんけど、息ができとったら当座は大丈夫や。ほな、肩貸したるから行こか」

「……どこ、へ?」

 問いかけた海里に、男はニッと笑って答えた。

「俺の店。何や知らんけど、病院は具合悪いんやろ?」

「う……うう、うん」

「ホンマはチョコレート食いとうなって買いに来てんけど、そんな気分やのうなった。お前をどないかすんのが先や。店行こ」

「み、せ?」

「ええから。今はとにかく歩け。ゆっくりでええから。それとも、抱えていくか?」

 この男なら本当に、海里など楽々と担いで歩けるだろう。それはあまりにも同性として屈辱的だ。

「ある、ける」

 生まれたての子鹿のようにヨロヨロしているのに意地を張る海里に、男はますます可笑おかしそうに笑いながら、「よっしゃ」と言った。

「片意地張りは嫌いやない。行くで」

 少し身長差があるので、猫背気味になりながら、男は海里に肩を貸してくれる。

 息をするたび胸が痛み、蹴られた腹がムカムカした。吐く息も、渇いた口の中にかろうじて湧いてくるつばも、金臭い血の味がする。

「休みとうなったら言えや」

 そう言って、思ったよりずっと海里の具合を気遣いながら歩いてくれる男に感謝しつつ、相手の正体すらわからないまま、海里は気力を振り絞って歩き続けた。

 すぐそこや、と男は言ったが、ゆっくりとはいえ、二十分近く歩いたのではないだろうか。

 天上川と同じく、芦屋市の西端を南北に流れる芦屋川沿いにしばらく下り、男がようやく足を止めたときには、海里は息絶え絶えになっていた。

「ここや。俺の店」

 そう言って、男が誇らしげに指さしたのは、「ザ・昭和」としか言い様のない二階建ての小さな家だった。屋根はおそらくかわらきで、道路に面した曇りガラスの引き戸には、「ただいま買い出し中」という木札が掛かっている。

「ちょ……こんなヘンテコな場所で、何の店、やってんの?」

 ぜいぜいと息を乱しながら、海里はたずねた。失礼な質問ではあるが、この場合は無理もない。

 なにしろ、店の入り口に向かって左側には絵に描いたような教会が、そして右側には、まさかの警察署があるのだ。

 人の罪を許す神の家と、罪人を捕らえる法の番人が詰める場所。

 あまりにも対照的な建物に挟まれた、この古ぼけたちっぽけな店は、いったい何なのか。

 そんな海里の素朴な疑問に、男はあっさり答えた。

「定食屋」

「えっ?」

「まあ、だいたい日没から日の出までやってる。冬は日の出が遅いから、始発が目安かな」

「は……はあ」

「ま、入りいや。客はいてへんから、遠慮せんでええよ」

 そう言ってかぎを開け、男は引き戸を開けた。そして、海里の背中を抱くようにして、店の中へ連れ込む。

 確かに、引き戸の向こうは、飲食店の体裁だった。

 六人くらい座れるカウンターと、四人がけのテーブル席が三つだけの、小さな店だ。

 カウンターの中が、キッチンになっているのだろう。

「二階で寝かしてやりたいけど、今は階段上がるの大変やろ。ちっとここで休憩し」

 そう言いながら、男はテーブル席の椅子を二つ並べ、そこに海里を足を伸ばして座らせた。

 壁に背中を預け、両脚をダラリと椅子に投げ出し、海里はようやく息をついた。

「くそっ、あのまま……死ねると思ったのに」

 いきと一緒に、そんな言葉が勝手にこぼれ落ちる。

 カウンターに入って、グラスに水道水を満たしていた男は、ありがとうの一言も言わない海里に腹を立てた様子もなく、「へえ」と感心した様子で相づちを打った。

 海里はムッとして、だらしない姿勢のままで男をにらむ。

「噓じゃねえし。死んじゃっても、つか、死んだほうがたぶんよかったんだし」

「そうか。ほな、要らんことしたな。ま、覆水盆に返らずや。今回はあきらめて生きとき」

 ニヤニヤ笑いながらそんなことを言う男のやや面長なあごには、ごくまばらな短いしようひげが生えている。

「ほい、とりあえず水。お前、名前は?」

 カウンターから出て海里の前にやってきた男は、グラスを差し出しながらそう訊ねてきた。

 少しちゆうちよしたものの、グラスを受け取り、水を一息に飲み干してから、海里はやむを得ず答えた。

「五十嵐」

「五十嵐、何や?」

「海里。二百海里の海里」

 すると男は、顎に手を当て、軽く首をひねった。

「五十嵐海里、か。ええ名前やけど、どっかで聞いたような気もすんな」

 海里はギクリとしたが、男はそれ以上考える様子もなく、カラリと笑った。

「俺は、夏神留二や。夏の神さんに、二つ留めると書いて、なつがみりゅうじ。お前に負けず劣らず、ええ名前やろ?」

「なつがみ……さん」

「せや。ほんで、この店は『ばんめし屋』。捻らん、まっすぐでええ名前やろ」

 自慢げにそう言った男……夏神は、左手に持ったままだった熱々のおしぼりを海里に手渡した。

「汚れてもかめへんから、顔だけでもいとけ。ちょっとは気分がスッキリするやろ。救急箱を上から取ってくるし、ちょー、待っとけや」

 そう言うと、夏神はカウンターの脇にある幅の狭い急な階段を、とんとんと上っていく。

 店には、海里だけが残された……と思っていたのだが。

「!?」

 何の気なしに店内を見回した海里は息をんだ。

 客はいないと夏神は断言していたのに、カウンターの端っこ、ちょうど直角に折れて一人分だけある席に、海里と同じくらいの年頃の青年が、ぽつねんと座っていたのである。

 店に入ってきたとき、彼の横を真っ先に通り過ぎたはずなのに、海里はまったく気付かなかった。青年のほうも、突然入ってきた血まみれの海里に、驚きの声すら上げなかったようだ。

 今も、青年が海里に注意を払う気配はない。ただ、じっとうつむいて目を伏せているだけだ。

(な……なんだ、あの人。つか、夏神さん、さっき、鍵開けてたよな? あの人、夏神さんに気付いてもらえなくて、店に閉じこめられてたってことじゃないのか? いやいや、まずいだろ、それ。なんかすごくしょげてるみたいに見えるけど、実はすっげー怒ってんじゃないの?)

 人ごとながら、気のいい海里はつい焦ってしまい、自分の怪我のことなど忘れて、「夏神さーん!」と思わず二階に向かって大声を張り上げた……。



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