一章 脆い砂の上で②


*  *


 それから五時間後、海里は実家の最寄り駅に降り立った。

 兵庫県神戸市の、JRせつもとやま駅。青いかわらの、一見、一般家屋のような駅舎が懐かしい。

 ミュージカル俳優になるため上京して以来、一度も帰ったことのない故郷の駅である。

 各駅停車しか停まらない、どこか田舎じみた雰囲気のあるこぢんまりとした駅だが、何故か駅前のロータリーだけは立派で、周囲には嫌というほど様々な店舗が建ち並んでいる。

 それもそのはず、駅周辺は、おかもとと呼ばれる神戸でも指折りの学生街なのである。

 近くに有名な私立中学、高校や大学があり、駅前には学生や若者たちが入りやすそうな気軽な店、お洒落しやれな店が数え切れないほどある。

 その分、店の入れ替わりも激しく、海里がこの街を去ったときとは、パッと眺めただけでも相当に様変わりしていた。

 個人経営の小さな店が減り、どこにでもあるような大手飲食チェーン店が増えたような気がする。

「ここに、スタバなんてあったっけか……。あったような気もするけど、入ったことはねえなあ」

 首をひねりながら、海里は実家に向かって歩き出した。久々に駅前をぶらついてみたい誘惑にかられるが、サングラスと帽子を外す度胸がない今、それを試すのははばかられた。

 何しろ、ワイドショーは全国ネットだ。日本のどこへ行っても、いや、もしかしたらハワイあたりなら外国でも、海里の顔を見ただけで、正体に気付く人がそれなりにいるはずだ。

 ただ、いくら何でも、渦中の元芸能人が東京を離れてこんな場所にいるとは誰も思うまい。そう考えると、ほんの少しは肩から力を抜くことができる。

 コンクリートで固められ、やや貧弱な水量が悲しいてんじようがわ沿いに、この辺りの人間がナチュラルに使う表現で言えば「山側」、つまり六甲山系が見える北側に向かって、緩い坂道を上っていく。

 高校時代、毎日通った道のりだ。

 ただし、海里はこの街で生まれたわけではない。生まれも育ちの大半も、神奈川県である。

 海里が幼い頃に、船乗りだった父親が海難事故で死んだ。

 それからは母親と、海里と年の離れた兄が働いて、海里を育ててくれた。

 そして彼が中学三年生の秋、神戸在住だった母方の祖父が亡くなり、祖母がひとりのこされた。

 年寄りのひとり暮らしを心配した海里の母親は、海里が中学校を卒業すると同時に、息子たちを連れ、実家に引っ越したのだ。

 だから海里がこの街で暮らしたのは、実はたったの三年と半年である。

 祖母は同居を始めて二年後に病没し、今、実家には海里の母親と兄が暮らしているはずだ。

 わけあってずっと帰っていなかったので、実家へ行くのはどうにも気が進まず、坂道を上る海里の足取りは重い。

 はんきゆう電車の高架を潜り、さらに坂道を上がり続けて、昔からある診療所のある角を斜め左に曲がる。典型的な住宅街を東から西へ向かってひたすら歩いていくと、そのうち、南北に走るじゆうけん道路という幹線道路にぶち当たる。

 そこからほんの少しだけさらに西へ行ったところで、海里は足を止めた。

 少し古びた白い低層マンションの横にある、うつそうとした木立。その向こうに見える赤茶けた屋根の一軒家が、海里の今の実家である。

 木立の横、やけに奥まったところにある門扉は相変わらずだが、そこまで行った海里は、「あれ?」と足を止めた。

 狭い庭にもっさり茂った木々は記憶のままなのに、そこから透けて見える実家の建物が、妙にれいな気がする。

 淡いグレーとれんいろに塗り分けられた壁は、もっとくすんでいた気がするのだが、今はクッキリしたコントラストが日光を浴びて美しいほどだ。

「そういえば……だいぶ前に電話で、リフォームしたとか言ってたっけ」

 いい加減に聞き流していた母親の言葉をぼんやり思いだしながら、海里は少し躊躇ためらいつつインターホンを押した。

『…………はい?』

 スピーカーから、妙な間を空けて、探るような母親の小さな声が聞こえた。

「あ、俺、海里だけど」

 そう言うと、母親はすぐに上擦った声で「入ってらっしゃい!」と応じてくれた。

 いくら実の母親といっても、長らく寄りつかなかった次男などもう知らないと言われる可能性があると自覚していた海里だけに、母親が手放しで歓迎してくれた気配に、ホッと胸をで下ろした。

 実際、母親のきみは、玄関の扉を開け、サンダルを中途半端に突っかけたままで飛び出してきて、海里の両腕に触れた。

「あらあらまあまあ」

 お帰りという言葉さえ上手うまく出てこないらしく、母親はただ意味のない声を上げながら、海里の二の腕をさする。

 その手のひらのぬくもりがジャケット越しでも感じられた気がして、海里は胸がキュンとなった。

 電話では時折話していたが、顔を見るのは六年ぶりだ。

 べつに海里の背が伸びたわけでもないのに、母親は記憶より一回り小さく見えた。いつも化粧っ気のない顔も少し老け、髪に白髪が目立つようになっている。

「その……ただいま」

 照れながら帰宅のあいさつをした海里の背中を抱くようにして、母親は家の中に連れて入った。

 玄関に一歩踏み込んだだけで、海里はすさまじい違和感に襲われた。

 リフォームしたというのだから当たり前なのだが、家の中がすっかり様変わりしてしまっていたのである。

 海里の知るかつての実家は、もともと建てたのがアメリカ人だったせいで、ドアノブが妙に高かったり、玄関にがりがまちがなかったり、リビングに暖炉があったりしたのだが、そうした特徴がすべて消え失せ、ただのこざっぱりした建て売り住宅のようになってしまっていた。

かずのりがね、頑張ってリフォームしてくれたの。私もだんだん年を取るから、バリアフリーがいいだろうとか、ホームエレベーターをつけようとか、色々考えてくれてね。素敵なお家になったでしょう? 床暖も入ったから、あのすっごい底冷えがなくなったのよ」

 白を基調に小綺麗にまとめられた、見知らぬリビングに通され、ソファーで借りてきた猫のように落ち着かない海里にとりあえずのお茶を運んできた公恵は、うれしそうにそう言って、海里の隣に腰を下ろした。

 兄の名前を久々に耳にして、海里は複雑な面持ちになる。だが母親は、海里が口を開く前に、矢継ぎ早にあれこれと問いかけてきた。

 昼は食べたのかと問われ、新幹線の車中でサンドイッチを摘まんだと答えたら、ではせめてお菓子を食べろと焼き菓子を勧められた。

 バターの香りがするマドレーヌを海里がもぐもぐと頰張っていると、そこでようやく弾みがついたのだろう、公恵は思いきった様子で、「大丈夫だったの?」とたずねてきた。

 母親の軽く潤んだ目を見れば、何が大丈夫なのかと問い返すまでもない。

「あ……いや、大丈夫だけど」

「目が赤いし、ちょっとせたみたいだし。ちゃんと食べてる? 寝てる? しばらく泊まっていけるんでしょう?」

 母親はなおも畳みかけるように問いかけてくる。

 どうせ、ワイドショーでも見て、大まかな、しかし大いに間違った「事情」は把握しているのだろう。

 とにかく時間はあるのだから、真実はおいおい詳しく告げるとして、事務所から言われたとおり、当分は実家で暮らしたい……と海里が告げようとしたとき、玄関の扉が開閉する音が聞こえた。

 ドカドカと荒い足音が聞こえたと思うと、凄まじい勢いでリビングに入ってきたのは、大柄な中年男……海里の兄、一憲だった。

 海里より十三歳年上で、今年三十八歳になる一憲は、公認会計士になり、実家近くの会計事務所に勤めている。

 今は勤務中のはずで、夕方まで兄は帰ってこないと高をくくっていた海里は、驚きの余り、ソファーに座ったまま小さく飛び上がった。

 長身だがスリムな海里に対して、一憲は整った顔立ちではあるが、ガッチリとした体型をしている。高校、大学とサッカー部に所属していただけあって、今でも服の上から筋肉の盛り上がりが見て取れるような立派な身体だ。

「うわ、に、兄ちゃん」

 思わず腰を浮かせかけた海里に、かっちりしたスーツを着込んだ一憲は、ネクタイを緩めることすらせず、ドスの利いた声で怒鳴った。

「この馬鹿者が! どのツラ下げて帰ってきた! 何年も顔を見せずに、お母さんに寂しい思いをさせて心配させて、自分はひとりで好きなことにかまけてチャラチャラしやがって! その挙げ句になんだ、今回の騒ぎは! うちにもテレビ局から何本も電話がかかってきたぞ。よく平気で戻って来られたものだな」

「…………っ」

 父亡き後、精神的にも経済的にも母親を支え、自分のやりたいことを犠牲にして、海里を育ててくれた兄である。

 そのことは心の底ではありがたいと思っているし、そのせいでいまだに独身であることも申し訳ないと思っているが、こうしてことあるごとに高圧的にしつせきされることには、海里はずっと不満を持っていた。

 好きで早く父親を亡くしたわけじゃない。好きで兄に養われたわけじゃない。

 頼んでもいない父親代わりを勝手に演じておいて、感謝しろ、俺の期待にこたえろと言われるのは、どう考えても理不尽だ。

 そもそもこんなに長年実家に戻らなかったのは、ミュージカルに出演するから東京へ行くと言ったとき、一憲が大反対したことが原因だった。

 役者なんて水商売だから、長く続けられる仕事ではない。だいたい、素人を半年で舞台に出すような会社がまともだとも思えない。

 目先のちょっとした成功を追い求めたりしないで、地元で地道に働け。フリーターではなく、一日も早く安定した会社の正社員になれ。

 今からでも遅くはない、学費は積み立ててあるのだから大学へ行ったほうがいい。

 そんな大人の正論をとうとうと並べ立て、一憲は、海里の上京を絶対に許さないと宣言した。

 それでかんしやくを起こした海里は、家出同然に実家を飛び出したのだ。

 以来、海里は兄に電話もメールも一切しなかったし、母親が兄の話をしようとすると、素っ気なく遮って話題を変えた。

 それでも、これだけミュージカルの舞台を務め上げ、全国ネットの番組で、五分とはいえコーナーを担当できるほどの存在になった自分を、兄も少しは見直してくれたのではないかと期待する気持ちがなかったと言えば噓になる。

 だが一憲は仁王立ちのまま、仁王の形相でこう言い募った。

「お母さんからお前が帰ったと聞いて仕事の合間に駆けつけてみれば、何だ、その反省の欠片かけらもないのんなツラは。嫁入り前の、前途有望な女優さんを酔いつぶして食い物にしようとしたっていうじゃないか! なんて見下げ果てた奴だ。俺もお母さんも、近所の人や職場の人たちに合わせる顔がないぞ」

「それは!」

 海里はカッとして立ち上がった。

 みぞおちが、溶けた鉄を流し込まれたように熱い。

「心配かけて悪かったと思うけど、迷惑かけただろうとも思うけど、でも違うんだよ! 俺は別に悪いことなんか」

 腹を立てつつも、海里は兄と母親だけには、本当のことを打ち明けようとした。

 ワイドショーはもっともらしい噓ばかり垂れ流すものだが、素人の彼らがそれを知らず、あれこれ誤解するのは仕方ない。

 だが、家族なのだから、きちんと話せばわかってくれるに違いない。

 だが、そんな海里の思惑を無視して、一憲は「黙れ!」と一喝した。昔から、海里は兄の大声に弱い。どうかつされると、ついすくんでしまう。

「ちょっと、一憲。落ち着いて。海里の話も……」

「聞く必要はない!」

 おずおずと取りなそうとした母親をも威圧して、一憲は以前はかけていなかったレンズの小さな眼鏡を押し上げ、ツケツケと言った。

「今朝の番組で、お前は芸能界追放だと言っていた。どうせ行くあてもなくて、またここでタダ飯を食らうつもりで帰ってきたんだろうが、そうはいかんぞ。俺の忠告を聞かず、勝手に出ていった奴を、二度とここに置いてやる気はない」

「タダ飯って! 金はあるよ。俺、ちゃんと仕事してきたし! 貯金だって、少しはあるんだ。家賃ってか、生活費くらい入れられる」

「ほう、それなら、どこででも自力でやっていけるだろう。ますますここにいる必要はない」

「そっ……それは」

 兄の態度には、取り付く島もない。海里の両のこぶしは、無意識のうちに固く握り締められていた。

 確かに兄の言うとおりだ。

 ミュージカルをやっていた頃のギャラは驚くほど安かったが、テレビに出るようになって、生活は少し豊かになった。どこかに部屋を借りて、しばらく無職で暮らせる程度の蓄えはある。

 それでも実家に帰ってきたのには、理由があった。

 世の中のすべての人たちが自分に悪印象を持ち、自分をちようしようしているように思える今、家族だけは、自分を信じ、守ってくれるのではないか……そんな身勝手な期待があったのだ。

 ここに戻ってきさえすれば、きっと心安らかに過ごせる。そう思って必死で帰ってきたのに、これではあんまりだ。

 実の兄のにべもない冷淡な言葉に、海里の心はみるみるうちにしぼみ、ささくれ立っていった。

 一憲は、まだ怒り足らないと言いたげに、顔を紅潮させ、荒い口調で言い募る。

「それに、お前がここにいることがバレたら、電話じゃ済まない。きっとここにも記者が来る。仕事に出ている俺はともかく、ずっと家にいるお母さんに迷惑がかかる。それは絶対に、避けなくてはいけないことだ。いいか、俺たちは今回のことで、お前のしりぬぐいをしてやるつもりは、一切ない!」

「……よ」

「何だと?」

「もういいよ!」

 怒鳴り返して、海里は足元に置いてあったバックパックをつかみ、おおまたに玄関へ向かった。

『ちょっと、海里! 待って、一憲ももう少し優しく……』

『お母さんは黙っていてくれ! いい加減、子離れしてもらわないと困る。あいつももう二十五だろう。いい大人だぞ。自分の過ちは、自分で片を付けさせるべきだ!』

 そんなやり取りが聞こえたのでしばらく玄関で靴を履いた状態で待ってみたが、母親は海里を追いかけてはこなかった。

 ずいぶん前に仕事を辞め、一憲に養われている立場上、彼の意向に背いてまで海里を家に泊めるつもりはないのだろう。

 海里にとっては最後の希望も、無残に打ち砕かれたことになる。

(俺……兄ちゃんには愛想尽かされてるかもって思ってたけど、お母さんにも、とっくに捨てられてたんだな。兄ちゃんが駄目って言ったら、もう俺をかばってくれないんだ)

 それは確かに一憲が言うとおり、二十五歳の男の感慨としてはあまりにも幼すぎる。

 だが疑心暗鬼の果てにようやくここにたどり着いた海里にとって、ただ一つ残されていた家族というとりでもろくも崩れ去ったショックは、あまりに大きかった。

 兄は怒りすぎたと思っていないだろうか。思い直して、母親を引き留めに寄越してくれたりはしないだろうか。

 なおもそんな女々しい、すがるような願いを込めて、のろのろと玄関を出て門扉に向かったが、家の中からは誰も出てこない。母親の声も、小さな物音すらも漏れてこない。

(俺……ホントにひとりぼっち、なんだ。何もかも、あっという間になくしちまったんだ)

 スキャンダルで事務所を解雇されたばかりの元芸能人、現在は無職の宿無し。

 それが今の海里が置かれた立場だった。

 昔、一憲が言っていたことは本当だったと、さっき自分を家から追い出したときの兄の厳格な顔を、海里はしみじみと思い出していた。

 役者も芸能人も、自称すれば誰でもなれる職業だ。「元」がついてしまえば、それはもう「何でもない」と同じことなのだ。

「じゃあ……俺、この六年、何やってたんだよ。俺、俺なりに必死でやってたのに。チャラチャラしてたのは、そういうキャラ要求されたからで……」

 門扉の外にぽつねんと立ち尽くし、海里はうつむいてひとりごちた。

 両目の奥がジンジンと鈍くうずいて、ちょっと気を抜けば、涙がこぼれてしまいそうだった。

 ここに帰りつきさえすればと、それだけを考えて行動していたので、いざ実家を追われてみると、これからどこへ行って何をすればいいのか、見当もつかない。

 東京には戻れないし、以前に住んでいた横浜も、東京に近すぎる。

 高校卒業以来、同級生にはほとんど連絡を取っていないので、誰が地元に残っているのかも知らず、友人も頼れない。

 とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 このあたりは閑静な住宅街だが、大きな道路の突き当たりという立地のせいもあり、車の往来はそれなりに多いし、歩行者もまばらではあるが通る。

 大の男が門扉の前に延々と立っていれば異様に映るだろうし、きっとそのうち兄が仕事に戻るべく出てくるだろう。そのとき、半べそをいた顔を見られた挙げ句、もう一度追い払われるのはゴメンだ。

(とにかく……一度、駅の近くに戻ろう。どっか店にでも入って、これからのことを考えるしかないだろ)

 狼狽うろたえる自分を心の中で叱りつけ、海里はきびすを返した。そして、さっきまでとは違う意味で重い足を引きずり、来た道をのろのろ戻っていった。

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