三章 よるべなき者たち②




「えっと……この辺、ではあるんだよな?」

 スクーターを路肩で停め、片足を地面についた姿勢で、海里はスタジャンのポケットからスマートホンを取り出した。

 あまりにも見たくない着信が殺到し続けるので、以前のスマートホンは、兵庫に戻って来てほどなく解約してしまった。今使っているものは新しいものなので、まだ扱いに慣れきってはいない。

 幾分もたつきながらも液晶画面を操作し、海里は地図アプリを立ち上げた。

「ここや。暗いからわかりにくいけど、芦屋神社と公園を目印に行ったらええわ。淡海さんの家の近くの道はカーブがすごいから、それだけ気ぃつけや」

 店を出る前、夏神はそう言って、目的地を地図アプリに登録してくれた。

 住所は東芦屋町。海と山が極めて近い芦屋市において、いわゆる山手にあたる高級住宅街の一角だ。

 しかし、高級住宅街ほど道幅が狭く、暗い……というのが、どうもこの街の傾向のような気がする、と海里は思った。

 夏神に警告されていなかったら、本当にこの道でいいのだろうかと迷ったことだろう。海里の目の前にある上り坂は急で、しかも大きくカーブし、道路の幅もかろうじて二車線分あるが、それまで走ってきた道路に比べれば、あからさまに狭い。

 スマートホンの地図で目的地への道のりを確かめ、海里は頷いた。

「このぐねぐね道を、とにかく上がってって、神社の手前、左側……だな。よし」

 スマートホンをポケットにしまい込み、「出前」の皿を入れたバックパックを慎重にい直すと、海里は再びスクーターのアクセルグリップをぐいと手前に回した。

 人っ子ひとり通っていない、家々のあかりがほとんど消えた道沿いは、ちょっとゾッとする暗さだった。あまりにも静かで、スクーターのエンジン音が申し訳なく思えるほどだ。

 一軒ごとの敷地が広いので、自然と庭部分が大きく、余計に町並みが暗く見えるのかもしれない。

(みんな、早く寝るんだな。まあ俺も、テレビ出てたときは、毎晩九時に寝てたけど)

 そんなことを考えながら坂を上っていると、左手に石造りのさくのようなものが見えてきた。あっと思うと、すぐにちんまりしたコンクリート製の鳥居があった。

 夏神に持たされたLEDのハンディライトで照らしてみると、「芦屋神社東参道」と書いてある。うっかり目的の家を通り過ぎ、芦屋神社まで来てしまったらしい。

 なるほど、右手を見ると、公園らしき闇が広がっている。

「行きすぎた。神社より、ちょこっと下るんだよな」

 スクーターを反転させ、今度は注意深く低速で走らせながら、海里はハンディライトを片手に、道路沿いの家の玄関を照らしてみた。

 すると、神社のすぐ南隣、道路からやや奥まった場所に門扉のある家に、「淡海」という表札がかかっていた。

 どうやらここが、目指す小説家の邸宅らしい。

 門扉に照明はついておらず、高いコンクリート塀に囲まれた広大な庭にはうつそうと樹木が茂っていて、そのはるか向こうにかろうじて、灯りのついた二階の窓が見えた。

「コワ……なんかちょっとお化け屋敷っぽいな、ここ。大丈夫かよ。マジで作家先生、住んでんのかな」

 店に来る幽霊は平気なくせに、こういう薄気味悪い環境には弱い海里である。急に冷えてきた気がする両腕をさすりながら、どうにか見つけたインターホンを鳴らしてみた。

 鳴っているのかいないのか、まったくごたえのない呼び出しボタンを三度ほど押したところで、かすかに扉を開閉するような音がした。

 それからサンダル履きとおぼしきぺたぺたした足音が近づいてきて、やはり懐中電灯を持ったヒョロリとせた男が、眠そうな糸のように細い目で門扉を開ける。

「どちらさま?」

「え……えっと、あの、『ばんめし屋』でっす。ご注文の日替わり定食、お持ちしました」

 懐中電灯で全身を照らされ、海里はヒソヒソ声で告げた。家のあるじとおぼしき、もじゃもじゃ頭の長身そうな男は、「あ~」とうれしそうに笑った。へにょ、というオノマトペが似合う、何ともへたれた笑顔である。

「助かるよ~。このままだと朝までに低血糖で倒れると思ってさあ、無理を承知で電話してみたんだ。来てくれてよかった。あ、そこ、階段に気をつけてね。僕が照らしてあげるから」

 海里にとっては耳慣れた関東のイントネーションでそう言いながら、男は懐中電灯で足元を照らしつつ、ゆっくり歩いていく。

 階段を上り、大きな踏み石が並ぶ長い通路を通って、二人はようやく明るい玄関にたどり着いた。

「でっかい家っすね!」

 思わず素直な感想を漏らした海里に、サンダルを脱いで、がりがまちにぺたりと正座した男は、天然パーマなのか、もつれた髪を細長い指できながら、あははと笑った。

「子供のない叔父おじ貴がのこしてくれたんだよ。ボロだし、独り身の男には広すぎるけど、まあ、ぜいたく言っちゃ駄目だよね」

「いいじゃないですか。うらやましいっすよ」

 そう言いながら、海里は上がり框に腰を下ろし、バックパックを慎重にフローリングの床に下ろした。

 本当に、ひとり暮らしらしい。馬鹿げて広い三和土たたきの片隅には、男のものとおぼしき同じサイズの革靴と履き古したスニーカーが一足ずつ並んでいる。

 吹き抜けのホールの頭上からは、やけに壮麗なクリスタルのシャンデリアが下がり、それが全体的に古びた床やしつくい壁と、何とも物寂しい調和を保っていた。

「えっと、今日の日替わりはハンバーグです。夏神さんがお伝えしてましたっけ」

 そう言いながら、海里は樹脂製の丈夫な使い捨ての皿を持ち、キョロキョロした。さすがに床に食べ物の皿を置くのを躊躇ためらう海里の仕草に気付くと、男は「あ、ごめんね」と言って立ち上がり、バタバタと長い廊下の向こうに消えた。

 ほどなく彼は、寄せ木細工のやたら装飾的なトレイを手に戻ってきて、「どうぞ、ここに」と海里の前に置いた。

「あ、ども。じゃあ、ハンバーグ。そんで、しると、ご飯です。この容器、そのままレンジで温めて大丈夫らしいんで。あっ、だけどそんときは、サラダだけは先に何かにどけてくださいね。ヘナヘナになっちゃいますから」

「わかった。レンジに入れられるのは、助かるねえ。僕、食が細くて一度にたくさん食べられないんだ。ハムスターみたいに、分けてちょっとずつ食べたいんだよ」

 男はのんびりした笑顔で、きっちり正座している。年齢は、四十歳を少し過ぎたくらいだろうか。細い目と常にちょっと上がった口角、それに鼻の下がほんの少し長めなのが特徴的だった。

 コットンシャツにゆったりしたズボンを穿き、毛玉だらけのひじてつきカーディガンを着ていて、全身からふわっと煙草の匂いがする。

 海里は他に小説家という職業の人間に会ったことがないが、作家という言葉の響きに実にしっくりくるルックス、それに雰囲気だと感じた。知的で、少しだけ偏屈そうで、それでいて妙に他人との心の垣根が低い感じがする。

(もしかして夏神さん、店番しなきゃっていうのより、むしろ禁煙中だから、この人んちに来たくなかったのかもな)

 そう思いながら、海里はもう一つ、アルミホイルの包みを取り出して、ハンバーグの皿の横に置いた。

「これ、夏神さんからのサービスです。きっと朝方に腹が減るだろうからって、おにぎり」

「おおお! お母さんみたいな思いやりだな」

 男の笑みがさらに深くなった。

「朝までに食べるチャンスがなかったら、冷凍しとけばいいって言ってました。えっと、税込み千と八十円になります」

「はいはい」

 うなずきながら、男はカーディガンのポケットから小さながま口を出し、五百円玉を三枚、海里の手のひらに載せた。

「あー、すいません、俺、うっかり財布置いてきちゃって。いいっす、端数はおまけで」

 そう言って海里は五百円玉を一枚返そうとしたが、男は「いやいや」と、片手でそれを断った。

「でも」

「いいんだよ、食器代と配達代と、君とはお近づきのごあいさつってことで。また、こんな非常識な時間に出前を頼むかもだしね」

「……すんません。じゃあ、ありがたくいただきます」

 硬貨を軽く持ち上げて礼を言ってから、海里はそれをポケットに入れ、立ち上がった。

「えっと……そんじゃお仕事頑張ってください。淡海先生、なんですよね?」

「うん、淡海ろう……っていっても、君くらいの若い子は知らないよねえ。僕、文体が古臭くて、若い子向けの軽妙なラノベとかは書けないからね」

「うう……重ね重ね、すんません」

 海里は瘦せた背中を丸めるようにして、申し訳なさそうに頭を下げる。一応、夏神から彼の代表作を数冊、見せてもらってはいたが、そんな付け焼き刃で愛読者を気取ったところで、噓くさいに決まっている。

(そこまでの演技力があるなら、とっくに俳優業で食えるようになってたさ)

 そんなちようめいたことを考えながら、海里はハンディライトを手に、玄関から出て行こうとした。だがそんな海里を呼び止め、自分も立ち上がってサンダルをつっかけた淡海は、質問を投げかけてきた。

「いいんだよ、そんなの。そういや君、全然なまってないけど、こっちの人じゃないの? 東京?」

 海里は正体に気付かれたかとギョッとしたが、ままよと正直に答えた。

「ずっと東京に住んでたんですけど、出身は神奈川です」

 すると淡海は、ニコニコして自分を指さした。

「ああ、僕も! 僕はあざみ野なんだけど、君は?」

「あ、俺、緑区です!」

「そう。何だか嬉しいな。同郷の人が、みの店で働いてるなんて。夏神さんに、くれぐれもよろしく。美味おいしくいただきますって」

 孤独な執筆作業中で、人恋しいのだろうか。淡海は懐中電灯を持ち、門扉まで海里を送ってくれた。

「ここ、マジで暗いっすね」

 近所迷惑をはばかり、辺りを見回してヒソヒソ声で言った海里に、淡海はちょっと困った笑顔で頷いた。

「そうだねえ。うちの辺りは特に。うちが暗いのがそもそもいちばんいけないんだけど、ほら、道を挟んだあっちは神社だし、そのお向かいは公園、公園の北側がお寺だろ? どこも敷地が広い分、どうしても暗くなっちゃうね」

「……なんか怖いっす」

「ふふふ」

 海里が薄気味悪そうに周囲を見回すと、淡海はちょっと悪い笑顔になって、こうささやいた。

「お隣の芦屋神社には、大昔のお墓があるからね~。ちょっと怖いかもね~」

「ひッ。う、噓でしょ?」

「ホントだよ。知らない? 芦屋神社の敷地内には、小さな古墳があるんだ。石室だって残ってる。今はその石室に芦屋川のずっと上のほうから水神様を移してきて、おまつりしてるんだよ」

「へ、へえ……」

 思わず首を縮こめた海里に、淡海は済まなそうに片手をヒラヒラさせた。

「ごめんごめん、無駄に怖がらせちゃったかな。噓、ホントは別に怖くないよ。水神様といえば、田の神、山の神だもの。人間に不可欠な水を恵んでくださる神様だから、君もちょっと外から拝んでいくといい。いい水の流れに乗れるかもしれないよ」

「は、はあ……」

「あと、この道を下るのが嫌だったら、このまま上がってどん突きを左に折れると、太い道に出られるから。少し回り道だけど、そっちからのほうが走りやすいかも。じゃ、僕は冷めないうちに、ハンバーグをいただくね。ホントにわざわざありがとう」

「いえ、そんじゃ失礼します。お駄賃、ありがとうございました!」

 海里はペコリと頭を下げ、淡海が門扉の向こうの闇に消えてから、スクーターを手で押して道路に出た。北に向かってしばらくそのまま歩いて、さっきの芦屋神社の鳥居の前まで来る。

(いい流れに乗れるかも、か。中に入るのはさすがに肝試し状態で怖いから、ここからちらっと拝んでくかな)

 スクーターのスタンドを立て、バックパックを一応シートに下ろした海里は、手ぶらになって鳥居の前に立った。

 水神様がどのくらいの距離の場所に祀られているのかは見当も付かないが、鳥居に向かって拝めば、まあ、そう遠すぎることはないだろう。

(今日はおさいせんがなくてすいません。けど、また改めて来ますんで、支払いはそんときってことで!)

 いささかそんな言葉使いでまずはび、それから音を立てずにごくごく小さなかしわを二度打って、合掌のポーズで目を閉じてこうべを垂れる。

(なんつーか、元通りになりたい……とか言っても無理なのはわかってるんで、せめてこう、ぎぬだけでもいつか晴らして、事務所にも、役者の仕事にも、戻れますように)

 心の中で、夏神には恥ずかしくて言えないそんな未練を口にして、海里は合わせていた手を下ろした。

(馬鹿馬鹿しいけど、信じる者は救われるって言うからな)

 そう思いながら、さて店に帰るかときびすを返したそのとき、海里の耳に、やたら耳に快い男の声が聞こえた。

『そこの信心深い感心な若人わこうどよ、「信じる者は救われる」と同じくらい有名なことわざ、「情けは人の為ならず」という言葉をご存じですかな?』

「ッ!?」

 海里はとつに身構え、周囲をキョロキョロと見回した。ハッと気付いて、ハンディライトのスイッチを入れ、LEDの明るい光で周囲を照らす。

『さよう、日本古来の神に祈るのも結構ですが、誰かに情けを掛けて徳を積むというのも、若人には必要なことと存じますよ』

 またもや同じ声が聞こえたのは、公園のほうだ。

 公園内の生け垣沿いに建つ、内部に蛍光灯がいているコンクリート製の小さな建物は、たぶん公衆便所だろう。そこに誰か入っていて、海里に声を掛けてきたのだろうか。

(いやいや、もう日付変わってだいぶ経つんだぞ。そんなときに、公衆便所に潜んでるって、どう考えてもヤバイだろ、金銭的にも、俺のカラダ的にも!)

 海里の顔からざっと血の気が引いた。

 逃げよう。

 とにかくこのまま坂を上がって、広い道路に出れば、きっと街灯の数も増えるに違いない。スクーターで全力の逃亡を図れば、いくら変質者でも走って追いかけては来るまい。

 火事場の何とかで、すさまじい勢いで脳を回転させ、そういう結論に達した海里は、バッとスクーターにすがり付いた。バックパックをもどかしくい、エンジンを掛けようとする。

 だがそのとき、もう一度、さっきと同じ声が聞こえた。

『ああいやいや、お待ちください。わたしは決して怪しいではございませんよ。有り体に申し上げれば、ちとお助けいただきたいだけで』

「い……いや、今のこのシチュエーションで、どこが怪しくないのかすっげ聞きたい、いやむしろ、聞きたくない!」

 とぼけた言い様に、海里は思わず小声で突っ込みを入れた。

 公園のほうから声が聞こえるのは確かだが、どのあたりかが今一つ定まらない。すぐ近くから聞こえるような気もするが、茂みの陰に潜んでいるのでない限り、公園の入り口近くに人影は見当たらない。

 ハンディライトを手に、あちこちせわしく照らしながら、海里は探るように小声で呼びかけた。

「つか、どっからしやべってんの? とりあえず、姿を見せろよ。助けるかどうかは、それからの話だろ」

 ところが声は、ちょっと情けなさそうな声音でこう応じた。

『そうできるものでしたらば、わたしとてそう致します。それがかなわぬので、お願い致しております次第で。いやいや実にお恥ずかしいことです』

 さっき、息が止まるほど驚いたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、お上品で、のんな口ぶりである。

 だが、相手が男、それも声の低さ、豊かさからして、いい歳の大人の男であることは確かだ。相手のペースにつられてつい緩んでしまいそうな警戒心を、海里はギリギリと巻き直した。闇を透かすように視線を動かしながら、低く言い返す。

「動けないってことか? 怪我でもしてんの? それとも病気?」

『今はそのいずれでもございませんが、このままでは遅かれ早かれ、そうなると思われます』

「は? 意味わかんねえ。とにかく、どこにいるか言えよ」

『もう少し、ずずいと前に進んでいただいて……』

「前って、公園のほうに来いってことか?」

『さようでございます』

「くそっ……なんかしようとしたら、ソッコー逃げるからな!」

『何もできぬからこそ、ご助力をお願いしているのでございます』

 相変わらず馬鹿丁寧かつ落ち着き払った調子で、男は海里を誘導しようとする。夜風に公園や神社の木々がざわめいて、海里の恐怖心をあおった。

(何だよ、目の前に幽霊が座ってるより、こっちのほうがよっぽど怖いじゃん)

 とはいえ、ここで助けを求めているらしき男を見捨てて逃げたら、きっと気になって気になって、店に戻ってからも落ち着かないことこの上ないに違いない。

 海里はまるで忍者のように腰を落とし、じりじりとアスファルトの道路を渡った。いざとなったら近所迷惑など気にせず、ミュージカルで鍛えた全力のシャウトをお見舞いしてやろうと、胸いっぱいに空気を吸い込んで準備する。

「よーし……そっち行くぞ。どこだ……?」

『あなた様の真ん前にございます階段の右手の茂み、その根元を、慎重に照らしてみてくださいませ』

「階段……?」

 確かに目の前には、道路より高い場所にしつらえられた公園に向かう、八段ほどのコンクリート製の階段がある。幅はわりあい広く、中央にはステンレスの手すりがあった。

 階段の両側には石垣があり、コンクリートで土留めをして、塀に沿うようにツツジか何かだと思われる丈の低い、刈り込まれた植栽がある。

「何だよお前、茂みに倒れてんの?」

『お恥ずかしながら、さようで』

「マジかよ。何したら、そんなことに……あ?」

 階段のいちばん下の段に立ち、右側の植栽の根元をハンディライトで照らした海里は、整った顔をしかめた。

「こんなとこ、人は入れねえだろ。なあ、どこだよ? 遊んでないで、早く出てこいっつの。俺、店に帰らなきゃいけないんだから」

 イライラしながら文句を言うと、今度は確かに、植栽の根元から声がした。

『ですから、慎重に照らしてくださいませとお願いしております。先ほど、わたしの頭上を、その懐中電灯の光が行き過ぎましたよ』

「はあ? マジかよ」

 決して気が長いほうではない海里は、ジリジリしながらももう一度、今度は植栽の枝をき分けるようにして、ゆっくりとハンディライトを動かしていった。

「ん?」

 やがて、ハンディライトの白い光が、地面すれすれの枝に引っかかった、何かを照らした。

『あっ、それです。今、あなた様の懐中電灯が、わたしを照らしております』

「お? 待て待て。どう考えても人間はいないぞ。何だよお前、くっそ丁寧に喋るセキセイインコか何かか?」

 海里はその「何か」を照らすため、手元のハンディライトを動かし……そして、絶句した。

「……め、が、ね?」

 茂みの中に隠れ、細い枝に引っかかっていたのは、間違いなく眼鏡だった。男の声は、うれしそうに弾む。

『あっ、そうでございます。見つけてくださって、ありがとうございます。重ねて慎重に、茂みより救出していただけましたら幸甚に存じます』

 海里は絶句した。

 男の声は間違いなく人間の男性のものだが、この流れからいくと、彼が見つけてほしかったのは眼鏡ということになる。

「おいおい、ちょっと待て。本体はどこだよ? ここには眼鏡しかねえじゃん」

 あきれ声でたずねた海里だが、次に聞こえた男の返事に、あんぐりと口を開けたまま固まってしまう。

 男は、『いえ、ですからわたしは眼鏡でございます』と答えたのである。

「……は?」

『眼鏡でございます。どうぞ、お助けください。あと一歩、ほんの少しでございます。たいしてお力もお手間も取らせません』

「…………」

 開いたままの海里の口から、風船から空気が漏れるように、吸い込んで溜めてあったシャウト用の息が抜けていく。

 驚きすぎると、人は感情がして、むしろまったくの平常心のようになってしまうものだ。海里も能面のような無表情になり、さっきまでの用心深さは何だったのかというほどの無造作なアクションで、茂みに右手を突っ込んだ。

『で、出来ましたらもう少しだけ丁寧にお願いいたしたく』

「うるせえ」

 眼鏡をつかむと、そのままバサバサと植栽の葉を散らしながら、荒っぽく手をひき抜く。

『ああああ、そんなになさっては……はあ、どうにか救われた』

 信じたくないが、やはり男の声は、海里の手の中から聞こえる。

(眼鏡が喋ってやがる)

 茂みに手を突っ込んだせいで、細い枝にこすれて手の甲がヒリヒリした。海里は右手を開き、ハンディライトで眼鏡を照らして観察しようとした。

『あっ、まぶしゅうございますよ』

「仕方ないだろ、これしかあかりがないんだから」

 普通に眼鏡と会話している自分に気が遠くなる思いだが、こんな場所で気絶している場合ではない。足をしっかり踏ん張ってしげしげ見ると、眼鏡はやたらクラシックな代物のようだった。

 あるいは、古めかしいデザインをえて採用した新しいモデルなのかもしれないが、いわゆるセルフレームである。レンズの形は大きく丸く、ちょっとずっしりした感触があるので、ガラス製のレンズがめ込まれているのかもしれない。

「どこにも口はねえな。あの機関車何とかって奴みたいに、強引に唇が付けてあんのかと思った」

 そんな冷静なコメントを口にしてしまった自分がだんだん可笑おかしくなってきて、海里はぷっと噴き出してしまった。男……眼鏡のほうも、大真面目に答える。

『いわゆる、目だの鼻だのは、残念ながらわたしにはございませんので。強いて申し上げれば、すべてが口、すべてが目でございます』

「何をテツガクっぽいこと言ってんだか……。とにかく、俺は頼まれたとおり、お前を助けたからな。この辺に置いてくぞ」

 海里はそう言ったが、眼鏡は慌てた様子で、海里の手のひらの上で飛び上がった。

 そして、海の中でホタテが移動するときのように、シュッと勢いよく、海里のスタジャンのポケットに滑り込んだ。

「お、おいおいおい! 何すんだよ、出ろよ!」

『いえ、わたしの生涯最大の危機をお助けくださったあなた様こそが、今日よりわたしがお仕えすべき新たなあるじ。お供致しますよ、我が主』

「マジで、意味が、わからない。出ろ」

 海里はポケットから眼鏡を引っ張りだそうとしたが、眼鏡は狭いポケットの中で、魚のように逃げ回る。

『いかに我が主のお申し付けといえども、それだけは平にご容赦を』

 そのくせ、声だけはやたらのんびりした美声なのがしやくに障る。

「何なんだよ……! 我が主とか、勝手に言ってんじゃねえ。うッ」

 思わぬ展開に動揺しているうちに、いつしか声が大きくなっていたらしい。さっき、淡海が寺だといっていたあたりから、ガタガタと音がして、光が一筋漏れた。

 おそらく、海里の声を聞いて、誰かが公園でけんしているとでも思ったのかもしれない。警察など呼ばれてしまっては、事態がもっとややこしくなる。

 今はまだ、「五十嵐カイリ」はいかなる問題をも起こすわけにはいかないのだ。

「くそっ。いいか、店に戻ったら、ソッコーでトンカチ借りてぶっ壊すからな!」

 ポケットに向かって押し殺した声でどうかつすると、海里はとにかくこの場を離れるべく、急いでスクーターに駆け戻り、エンジンをかけた。

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