甘い夢 【完全版】

蓬葉 yomoginoha

甘い夢

≪第1話 甘い夢を魅る≫


 そういえば、昔は妹と二人で近くの山に秘密基地を作ってそこで遊んだものだった。

 ゴミ捨て場から持ってきた、カビの生えたマットの上に平気で寝転がって他愛たあいのない話をわしながら時間を過ごした。酷い時には二人して眠ってしまって、気づいたら夜なんてこともあった。

 

 どうして今になってそんなことを思い出してしまったのだろう。ああ、そうか。あれもこんな秋のことだったからか。

 そんなことを考えながら私はイチョウの木の下のベンチに座る女性に声をかけた。


「マナさんですか?」


 恐らく偽名である依頼人の名前を問うと、長い髪をきつくしばったその女性は「はい」と振り返った。

 事前に受け取っていたプロフィールに嘘はなかったらしい。歳は二十代後半くらいで、ブラウンのロングヘア。身長も高めだ。

 マスクはついているが、疲弊ひへいの雰囲気は目を見るだけでわかる。


「ずいぶんお疲れですね。どうしましょう。ホテル入る前に、一度喫茶店にでも入ります?」

「え。……えっと、それは……」

「サービスになるので、別にいいですよ。どうしますか?」

「じゃあ、それで……」


 小さな声。だからといって自分に自信がないとは言い切れないのはわかっている。大声で話す人でも自分に自信を持っているとは限らないように。けれど、今はその限りではないだろう。この人は何かに怯えているようだった。



 厚手のコートを脱いで、席に座る。向かいのマナさんは物音一つなく、静かに椅子に腰を下ろした。


「一晩ご一緒するわけですから、そんな緊張してたらもちませんよ」

「あ……はい」

「私は一応、相手の方のプライバシーには触れないようにしているので、そちらが何か聞きたいことがあれば答えますよ。答えられる範囲で、ですけど」

「……」


 彼女は黙り込んでしまう。私よりも十歳くらい年上だろうに、随分慎重な人だ。こんなサービスに登録するとは思えないくらい。

 これは、本番まで行かないで解散する流れかもしれないな。と私は思った。その場合は収入にならないから困ると言えば困るが、仕方ないことだ。


「あの……」

「はい」

「ミナト、さんは、社会人ですか?」

「違いますよ。学生です。学校の名前は流石にいえませんけど」

 嘘だった。大学に通えるくらいだったら、こんな仕事していない。

「学生? じゃあ、バイトみたいな感じで、こういう仕事を?」

「ええ。個人でですけどね」

「そう、なんですね」

「ちょっと前に親が死んじゃいまして。私がやらないと生きてけないので」

「……」

「そんなしんみりしないでくださいよ。死んだのはうちの親なんですから」

「今の子は、たくましいですね」

「そんなに変わらないでしょ。私たち」

「私なんかおばさんですよ。ミナトさんたちに比べたら」


 前髪を撫でながら彼女は言った。のぞいた指、指輪が光る。

 旦那がいるのか。そういう人が依頼してくることは決して珍しいわけではないけれど、少し意外だった。


「念のため聞きますけど、わかってますよね? この後のこと」

「……おかしいって思いますよね。夫も子どももいるのに、こんな……」


 彼女はうつむいた。

 一方の私も、流石さすがに驚きを隠せなかった。子どもまでいるとは思わなかったから。その子どもは今どうしているのか、と聞くべきかもしれなかったが、しかしそれは私の関知するところではない。あくまで、私の相手は目の前の、この女性個人だから。


「それでもここにきたってことは、きっとどうしようもなかったんでしょう?」

「……」

「安心してください。聞きませんよ」

「いや、いっそ聞いてくれた方が、楽かもしれないです」

「はあ。いや、それでもこちらから聞くのはやめておきます。医者でも相談員でもないし、後々面倒ごとに巻き込まれても嫌ですからね」


 そう言うと一瞬私を見つめた彼女は小さく息を吐いた。

 相手のことを不用意に聞かないというのは私のポリシーだ。それは今言ったように、知ってしまうことで何に巻き込まれるかわかったものではないから。


 それと、これは決して依頼者に言わないけれど、その人が何を抱えて、何に悩んでいるかなんてことに興味はない。おさえておくのは結果だけでいい。

 何かに苦しんでいるからいやしや息抜きを求めて甘い夢を見に来た。それだけでいい。私はその夢見を手助けするだけだ。


「慎重な人なんですね」

「まあ。あなたに言われたくないところですけど」

 思ったままを言うと、彼女はくすりと苦笑した。やけに大人びた……と思ったが、歳相応の笑みか。


「私は慎重なんかじゃないですよ。慎重に生きてこれていたなら、こんなことには……」

 思わせぶりなことを言って私に事情をたずねるよう催促さいそくしているようだ。苦手なタイプだ。こういう人は。


 おそらく彼女の期待に反してココアを口にふくみながら沈黙していると、彼女は諦めたように笑った。

「本当に、聞いてくれないんですね」

「聞きませんよ」

頑固がんこ

「お互い様だと思いますけど」

「……いいです。口で言わずとも、どうせ……」


 最後の方は小声で良く聞こえなかった。

 互いのカップにはもう頼んだ飲み物はなくなっていた。


「これから行きますけれど、やめるなら、言ってください。続けるなら、携帯電話を預かります」

「はい」


 ほぼ即答で彼女は携帯電話をテーブルに置いた。時代遅れのガラケー、私にはその使い方はわからない。しかし、これも用心の一つだ。万が一、通報でもされたら困るから。


「バッグの中も見せてもらえますか?」

「バッグは、ないです。お財布だけ」

「そうですか。じゃあいいです。さ、行きますか」


 もう脱いだままでもいいのだが、一応コートを身にまとう。

 お金を払い、外に出ると不意に左手に冷たい手のひらの感触が伝ってきた。


「いいですか?」

「事後で言われても。まあ、いいですけど」


 他人からどう見られているのだろう。女子高生が友だち同士で手をつなぐのとは違うだろうし、母娘がスキンシップで手を握るのとも違う。不思議な関係に見られているかもしれない。

 けれど、それでいいのだ。ぐうの音もでないくらいその通りだから。


 手汗がにじんでいるのがわかる。こんなに緊張しいの女性が、その対極にあるようなサービスを受けに来るとは不思議な話だが、まあいい。お金が稼げれば。

 

 五分ほど歩き、駅近くに素知らぬ顔で屹立きつりつするラブホテルの前に立った。

 ギュッと握られた手に力が入る。


「入りますけど」

 最終確認をすると、彼女は頬を赤くしながら「はい」と頷いた。




**

 普通は最初にお風呂で体を綺麗にすると思う。

 しかし、私自身は後から入ることにしている。理由は、相手を信用できないから。

 

 バスローブ一枚をまとったマナさんは湿しめった身体を抱きながら恐る恐るといった体で出てきた。


「マナさんはそこに横になっててくれればいいですよ。あとは全部私がするので」

「……」


 しかし、彼女はなかなかバスローブを脱ごうとはしなかった。

 ここまで来て怖気づいているとしたら、流石の私も腹が立つ。引き返す機会なら何回も与えただろうが、と。


「あの」と私が言ったのと同時に、彼女は口を開いた。

「驚かないで、くださいね」

「はい?」

 何を言いたのか、判じかねていると、彼女はゆっくりとその素肌を露わにした。


 彼女の身体には、紫のあざがいくつも浮かんでいた。胸に、下腹部に、わき腹に、太腿ふとももにも。

「背中にもですか」

「……」

 彼女は無言のまま振り向いた。背中にも臀部でんぶにも、それは浮かんでいる。


「夫は、いい人なんです。でも、時々発作ほっさを起こすというか、癇癪かんしゃくを起こすというか。気付いたらこんなになっちゃってました」


 乾いた笑みを浮かべて、彼女は語る。

 それが定型文なのだろうか。こういう人たちの。苦しんでいるのは本人だろうから偉そうなことは言えないけれど、それは自分自身をもあざむく危険な行為だと思う。……本当に、私の言えたことではないけれど。


「でも、服を着れば、隠せるところにしか、痣はないんです。だから、まだ全然」


 それは違う。服を着れば隠せるところにしか傷がないのは、自らの暴力の痕跡を周

りに知られないためだ。情けなんかじゃない。保身のためだ。


「醜いって、思いますか?」


 叱られた子どものように、彼女は震えていた。

 私は、というと、多少驚きはした。それはそうだろう。今までの彼女は、そんな傷がついている素振りなど見せなかったから。


 けれど、みにくいとは思わない。これまで何人も同じような人を見てきたから、慣れっこだ。

 私の仕事は、つかの間でも彼女たちに平穏へいおんと快楽を与えること。そこに無駄な見下しはいらない。ためらいもない。

 私は胸元の傷跡に、軽く舌を這わせた。その先端がわずかに乳房に触れると、驚きのせいか、恥じらいのせいか、彼女の身体はピクリと動いた。


「今は忘れたらどうですか。甘い夢にひたるためでしょ。ここに来たのは」

「っ……、んうぅっ……」


 指を、舌を動かすと、マナさんは口を押えながら処女のように初々しいあえぎをあげた。


 それから長い時を経ずして、最初の絶頂に彼女は達した。妹と一緒に過ごしたあの秘密基地のとは格段に違う柔らかなベッドの上で、見知らぬ女性は天井を見上げながら運動後のように荒れた呼吸をひたすらにもらしていた。


 そこまで来て、ようやく私はバスルームの方へ向かう。ここまでしておけば、やめようなどという考えはまず出てこなくなるから。

 警戒しすぎかもしれないけれど、お金のためだ。相手は遊びのつもりでも、私にとっては唯一の資金源なのだ、彼女たちは。私と妹の生活がかっている以上、不測の事態を招くわけにはいかない。


「お風呂入ってきます。ま、ちょっと余韻よいんに浸っててください」


 茶化すように私は言った。しかし、返事をする余裕もなかったのだろう。彼女は真っ白な豊胸ほうきょうを上下させるだけだった。

 

 

 身体を綺麗にし、バスルームから出てきた後も、案の定、彼女はやけに冷たく感じるこの部屋に残っていた。

 踏ん切りがついたというのか、開き直ったというのか、入浴中のわずかな時間に、彼女は酒の入った缶を一つ空けていた。


「お、やる気になりました?」


 数秒前に着たばかりのバスローブを脱ぎながら彼女の横に寝転がると、アルコールを帯びたキスが飛んできた。

「……あっ、ごめんなさい。勢いで……」

「いいですよ、別にNGとかじゃないですから。さ、あと二時間くらいですよ。どうします」


 挑発ちょうはつするように笑いかけると、彼女は初めてヘアゴムを解き、まだ恥じらいの残る表情で呟くように言った。


「甘い夢を、魅せて」


 自分より大きい身体を、痣が痛まぬよう配慮して押し倒し、私は、再開した。


 依頼人の女性たちは何かしら傷を負っている。それは身体的な場合もあるし精神的なものもある。私の仕事はその傷に快楽という麻酔ますいをかけることだ。その見返りにお金を受け取る。互いに傷を舐めあうようなものだ。


 尋常じんじょうではないと言われるかもしれないけれど、余計なお世話だ。

 だったら私や妹を助けてくれと、あるいはこういう女性たちを助けてやれと、そう思う。


 涙を流しながら嬌声きょうせいをあげる依頼人のすがた。いつものことながら、その依頼者のすがたは自分に被さって見える。


***

「ありがとうございました」


 午後23時。ホテルを出た依頼人は、ぺこりと頭を下げた。髪の毛を結ぶのを忘れているのだろう。秋の夜長の涼風すずかぜに、長い髪が揺れた。


「気分は、晴れました?」

「ええ。本当に。いい夢を見させてもらいました」

「また、何かあったら連絡してください。お金さえもらえれば何でもしますから」


 そう言うと彼女は苦笑いをしてきびすを返し、都市のすみに消えていった。

 あっさりしていると思われるだろうか。

 けれど私はむしろこれが当たり前だと思う。変になれ合っていては、逆にこんな仕事はできないのではないか。まあ、ひとそれぞれかもしれないけれど。



****

 五枚の一万円札を厚いコートのポケットに入れて、私も帰途きとへ着く。さっきまで自分がしていたことに赤面する気持ちはとっくに消え果てた。いちいち構っていられない。そんな思考には。

 自宅前のコンビニ。売れ残り低価格高カロリーの弁当を買う。貧者はむしろ太るというけれど、それは確かだ。

 私も妹も、もしも毎日食事をしていたなら今頃とっくに肥満体だろう。

 アパートの角部屋。玄関の鍵を開ける。暗い部屋の中、生活感はほぼ皆無だ。必要最低限のものしか置いていないから。


「ただいま」


 呟くように言って部屋に入る。

 豆電球の居間では、いち早く妹が眠りについていた。

 時代遅れのちゃぶ台の上に、「先に寝ます。ごめんなさい」という書置きがあった。


理梨りり……今日はご飯食べなかったの……?」


 薄い掛布団の上、中学校のジャージを着て眠る妹の肩をでながら私は言った。もちろん応答はない。

 瞳に隈の浮いた妹は、やらなくてもいいと言ったのに、スーパーマーケットで働いている。中学生の大半が部活にいそしむ放課後をついやして。


「理梨……」

「んん……? あ、お姉。お帰り」


 おかっぱ頭、瞳をこすり、妹は夢の中から戻ってきた。


「ただいま。ごめん。起こしちゃって」

「ううん。ちょっと横になってただけだからだいじょぶ」

「ほんとに? 体調悪いとか、そういうんじゃない?」


 理梨は昔から身体が強い方ではない。季節の変わり目にはほぼ風邪かぜを引いているくらいだ。まだ冬は少し先だけれど、心配になる。


「だいじょぶだって。ちゃんと早寝早起きしてるし」

「そう……」

 すると、妹は急に表情を暗くして私に抱き着いてきた。

「理梨?」

 何も言わないまま、妹は泣いていた。


 本当に突然だけれど、これは今が初めてではない。両親が死んでから、理梨は時折こうして私の中で泣いた。普段はそんなそぶり見せないのに、発作を起こすように、泣くのだ。顔が見えないようにか、私の胸に顔をうずめて。

 えを訴える空腹の間抜けな音すら悲愴曲ひそうきょくのように聴こえた。


*****

「昔、秘密基地作ったの覚えてる?」

 食後、薄い布団の上、枕を並べて眠る中、私は言った。

「あっ、覚えてる覚えてる。神社のでしょ? 懐かしい」

 さっきまでの涙が嘘のように明るい声音で理梨は言った。

 月灯りがふんわりとさしこむ部屋の中は、暖房もないけれどあたたかかった。いつものホテルの部屋が、暖房が利いているのにやけに冷えて感じるのとは対照的だった。


「楽しかったなあ……」

 あの頃は、と言いかけたのだろうか。いや、穿うがちすぎか。それに、もしそれを言ったからとてたしなめるつもりもない。

 同じ布団の中、懐古かいこ眼差まなざしを浮かべて微笑む理梨。


「ね。ほんとに」

 やわらかなその髪の毛を撫でてやると、妹は私の方に身体を寄せ、猫のようにじゃれついてきた。

 私がどうやってお金を作り出しているか知ったら、こんなスキンシップも消えるのだろうか。

 理梨が欠伸あくびをもらす。そのうなじを見つめるとき、本来、中学生という小さな身体にかかるはずのない重荷を背負って生きる妹の不憫ふびんさを、つい考えてしまう。


「理梨」

「ん」

「あんまり、無理しないでよ。まだ、中学生なんだから。辛いことは私に押し付けていいんだからね」

「無理……しないと、寝れないからさ」

「え?」

「寝れないと、夢も見れないから」

「理梨?」

 妹は、まだ残る幼さの、いや純粋じゅんすいさのせいか。簡単そうで、難しいことを言う。

「それに、あたしたち、二人で幸せになるんでしょ。お姉だけにまかせっきりじゃおかしいじゃん」

 おかしくない、と言ってやれば良かったのだろう。真に妹の青春を守るのであれば。

 けれど、逡巡している間に理梨は眠りに落ちてしまった。


「理梨……」

 いろんな感覚が麻痺まひしているのは自覚している。

 同性とはいえ、身体を重ねた後に何の赤面もなく外を歩けることや妹と話せること。

 見知らぬ人に裸体らたいを見せれること。

 嘘を吐くのに、躊躇ためらいがなくなったこと。

 普通に考えればすべて異常なことだ。

 

 身体を預けるように背を向けて眠る理梨の鼓動を、胸に感じる。あの秘密基地で寝ていた時と同じだ。

 お互い今より小さな身体で、けれど今と同じように私の胸に背を預けて理梨は眠っていたんだ。


 思えば私の異常性の萌芽ほうがは、その時すでにあったのかもしれない。

 何の予兆もなく、眠る理梨の唇を奪った、あのときから既にもう。


 私は、明らかに理梨の隣にいるべき人間ではない。姉としてどころか、家族の風上かざかみにも置けないような人間なのだから。


「ごめんね……。理梨……」


 ああ、また一筋、涙。もはや取り返しのつかない後悔のやり場は、どこにある?   

 いや、ない。あるはずがない。

 思考がまとまりを失い始めた。瞳を閉じる。

 そして朝が来ればまた、私はきっとこの懊悩おうのうを忘れて歩き出すのだ。

 愚かだと思う。けれど、仕方がないと割り切るしかないんだ。


 理梨の身体に触れないよう、背を向けた私は広く距離を取った。掛け布団からはみ出した左半身を、冷たい空気が襲った。



******

「バイバイ、お姉」


 制服を着、弾ける笑顔を見せて家を出る理梨を私は見送る。

「今日は友達の家行くから、夜ごはん代浮くよ」

「余計なこと言わない。ほら遅刻するよ」

「うん。行ってきまーす」

「行ってらっしゃい」

 このやり取りだけを切り取れば何の違和感もないのにな、と私は苦笑した。けれど、その一瞬に立ち止まれる余裕は、今の私たちにはない。


 一人、部屋に戻った私は、今日の依頼人の情報を確認する。こんなふうに切り替えられるところは長所だといっていいのだろうか。

 歯磨きをしながら窓を開け、午後までの短い一日を思った。

 





≪第2話 甘い夢を魅せて≫


 ベッドを揺らす。快楽をなぞる、弾く。

 汗で、唾液だえきで、潮で満ちたシーツの上で余韻よいんにひたる依頼者を横目に、終了時間を確認した私は脱ぎ捨てた衣服を素早く身にまとう。

 厚手のコートを身に着けるのは、私の中、かすかに残った後ろめたさの裏返しなのかもしれないななどと考えながら。


「5万になります」


 てのひらを広げ示して告げると、依頼者は身体を起こし、財布から札束を取り出した。どう見ても5万円の厚さではない。


「あの、5万、ですけど」

「チップよ」


 さすがに、30代のOLは違う。太っ腹というか、頭が悪いというか。

 断るつもりなど毛頭もうとうない。私はうやうやしくそれを受け取り、ホテルを出た。


 封筒には12万円が入っている。二倍以上のかせぎが出たのははじめてだ。

 だれもいない田舎の町だったら、この場で文字通り欣喜雀躍きんきじゃくやくしていただろう。それはできないとしても、このにやつきだけは消せそうになかった。

「スイーツでも買ってこうかしら」

 世間はもうじきやってくるクリスマスの色に染まっている。今となってはもう無縁のイベントだけれど、だからといってくだらないと鼻で笑うつもりはない。むしろ、少しタガの外れたようなこの季節は、好きだった。



「お姉お帰り 」

「ただいまー…ってまだ起きてたの理梨りり

「いいじゃんまだ10時でしょ」

「電気代もったいないでしょ。おきてるなら勉強するなり本読むなりしてなさい」

「むぅ」

「むうじゃない」

 柔らかな妹の頭を叩いて私は卓袱ちゃぶ台の前にひざを曲げる。安価な夕食の時間だ。


「理梨ご飯食べた?」

「食べた。キャベツいっぱいご飯」

「そっか」

 もやしよりもキャベツやイモの方が安いこともある。そんな情報を鵜呑うのみにしてスーパーでキャベツを買ってきた。

 私はそれに手をつけず、妹に食べさせる。栄養を蓄えるべきは私ではなく、成長期の妹の方だから。あとほんの少しだけ野菜が嫌いだから。


「お姉の夜ごはんは?」

「今日はのり弁」

「のりかー……」

 ガクリ肩を落とした理梨はそのまま畳の上に横たわった。

「何」

「お肉食べたいなぁ」

 はかったように妹の腹の虫が、か細く鳴いた。

「肉ねえ……」

「あたしスーパーで仕事してるからわかるけどさ、お肉って結構安いよね」

「でもそれ外国産とかでしょ」

「わかんない」

「そうなんだよ大体。危ないでしょ国産じゃないと」

「そうかなあ」

 そんなことを言ってられるほど私たちが裕福でないのはわかっている。けれど、この身体が言うことを聞かなくなったらいよいよ終わりだろう。


「食べたいなー。お肉……」

「……」

 妹の気持ちは痛いほどに伝わってくる。けれど……、いや、逆に良かった。その要望をうったえてきたのが今で。

「しょうがないな。そのうち買ってきてあげるから」

「ほんとっ!? 楽しみにして待ってるね」

 クリスマスの日くらい、お金を使ってもいいだろう。その日もあの仕事があるけれど、帰り道に買っていけばいいだろう。可能ならケーキも。


「やー。よかったよかったー」

 正座の膝の上に、妹は頭を乗せてきた。

「重たいって」

 ご飯を口に運びながら私は言った。しかし妹は「いいじゃんかー」と笑うだけで戻ることはなかった。

「もう」

 頬杖ほおづえを突き、食事を続けながら、吐息といきがお腹に当たるのを感じていた。


「理梨」

 頬をつつく。しかし、彼女は微動びどうだにしなかった。もう、眠ってしまっているようだった。

 私の太腿ふとももの上が心地よかったのだろうか。

 嬉しいような嬉しくないような複雑な心境だけれど、私は机に立てていた手を彼女の頭に置いた。

 

 ひひっと理梨がおじさんのような引き笑いを上げる。寝ているときの、妹の癖だった。昔からの。

「全く……」

 布団に移動させようと思って、思いとどまった。もう少しご飯を食べ終わるまでは、と言い訳をして、私はそのまま箸をすすめた。





 クリスマスイブの夜。依頼者は制服を着ていた。

 珍しい客だ。相手をする客は大体自分より年上、20代半ばくらいから30代後半くらいの女性ばかりだから。


 そしてそれは私にとって、重大な詐称さしょう行為だ。

「年齢は18ってことですけど、うそだよね」

「……」

 プロフィールの擬装ぎそうを指摘しても、ベッドの端に座った少女は微動だにしない。


「名前とかは全然偽名で構わないけど、年齢嘘つくのは良くないね」

「……」

「見たところ高校生……中学生? 少なくとも、18ではないよね」

 18というのは、私が設定している年齢制限だ。法律的に、ではない。だってそんなものとっくに越境えっきょうしてしまっている。


 私があえてそれをもうけているのは、自分より下の年齢の女の子を抱くのはさすがに気が引けるからだ。

「まだこっち側に来るのは早いよ、しかもこんな日に……。悪いこと言わない。もう帰りな」

「……」

「黙ってないでさ」


「……帰るところなんてないです」


 少女はポツリ、壊れたガラス細工ざいくを指で弾いたときのような声で言った。

 意味を判じかねてどうしようかと思っていると、少女はかたわらのバッグから、布にくるんだ何かを取り出した。


「それ……」


 その布の先端が、赤く濡れている。

 染みているという方が正しいだろうか。

 赤い、いや、赤黒い? ワインレッドの、染み。


「殺すつもりは、なかったんです。つい、かっとして」

「……」


 私が絶句する一方、彼女は上着を脱いだ。そこに、現れる、同じ色の染み。違うのは範囲。


「ど、どうしようも、なくて、その……。こんなはずじゃ、なかったんです。いつもの、喧嘩だったんです。でも、なぜか、変に、腹が立って……」


「誰を、刺したの」

 バクバクと、鼓動のうるさい心臓を抑えながら私は聞いた。思えば、初めてだった。依頼人の詳細を尋ねたのは。


「母親です」

「お母さんを……」

「私、もう、どうすればいいのか……」

「……」

 血に染まった少女は泣いていた。

 その号哭ごうこくは、なぜだろうか、私の心を冷やしていった。

「ごめんなさい……。帰ります。私……」

 

 涙を頬に浮かべながら、それをぬぐうことなく、彼女は上着を羽織ろうとした。

 その手首を、握る。

「えっと、ヒナちゃん、だったよね」

 偽物だらけのプロフィールを頭に浮かべて、私は言った。

「はい」

「いいよ。特別に」

「えっ」

「お金はあるんでしょ。だったら、いいよ。クリスマスサービスで」

「ミナトさん……」

 上着を着ようとしてた手を制止する。そして、涙がしたたる頬に、私は軽く口付けした。たしかNGではなかったはずだ。

 彼女の頬に赤みがさしてゆく。私はそんな彼女の首筋に舌を当てて、ゆっくり、ベッドに押し倒した。


 ルール違反ではあるし、倫理的にも正しいとは思えない。けれど、いいだろう今日くらい。

 どんなことでも正当化できるのが聖夜ではなかったか。そうだ。そういうことにしておこう。だから、犯罪者と、妹と同じくらいの年齢の子と体を重ねたって、いいじゃないか。

 

 きっとすべてが初めての体験だったのだろう。少女はずっと目を閉じて、声を我慢していた。その初々ういういしさが、どこか愛しくて、反面苦々しくて、結論、気持ちが悪かった。



**

「ありがとうございました」

 お礼を言われるのがこれほど似合わないサービスもそうないだろうなあと思いつつ、「どういたしまして」と返す。

「あの、これお金です」

 茶封筒の中から一万円札が五枚。私はそのうちの二枚だけを受け取って、残りを返した。

「えっ」

「特別サービス。クリスマスプレゼントってことにしてあげる」

「でも……」

「いいから。その代わり感謝してよ。普段こんなこと絶対ないんだから」

「……」

 黙ったままの少女を放置して、私は部屋の扉に手をかける。

「それじゃ」


「待ってください!」

 背後、恐らく会ってから一番大きな声で、彼女は言った。

 振り返ると、彼女はカタカタと震えていた。


「私は、どうすればいいんでしょうか」

「……」

「人を殺してしまった、私は、これから……」

「知らない」


 私は食い気味に即答した。

「え」

「知らないよ。私、人刺したりしたことないから」

「……」

「まあ、一つ教えてあげることがあるとするなら、正しい答えなんてないよ。何を選んでも後悔するように、人間はできてるんだから」

 いくら年上とはいえ、随分偉そうな物言いだなあと内心苦笑する。しかし、自分の言った言葉には確信があった。


 私だって、後悔に後悔を重ねている。選べるならこんな金稼ぎはしていない。

 じゃあ、今それを辞めればそれでいいのかというと、きっとそうではない。生きることを諦めたら、それこそ本末転倒だ。


 死なない程度に後悔を重ねて、可能な限り小さな後悔を選択して生きていくのが人間なのだろうと、私は信じている。もっと明るいことを信じろと言われるかもしれないけれど。


「私は、何も言わない。あなたを通報したりもしない。すべてあなたが、自分の責任で決めることだよ」


 偉そうな言い方だけれど、曲がれなりとも私は、それを実行しているつもりだ。たとえ、誤った方向にだとしても。


「……はい」

 伏し目がちな少女の返事に頷き、私は今度こそ部屋を去った。


 ホテルを出て、今日は随分余計なことをしたと反省する。別に誰かに注意されるわけでもないけれど、次からはきちんとしようと思う。

「これもまた、後悔か……」

 路地裏の道、詩人のようにつぶやく息が。白く夜空に滲んだ。



***

「お姉ー」


 玄関を開けるなり、理梨が飛びついてきた。


「もう、またこんな時間まで……」

「ごめんごめん。でも、ほら」

「あっ!! わああ……!」

 約束のチキンと、ケーキを四切れ。普段の生活からしたらはるかに高級な食べ物だ。しかし、その甲斐かいあってか、理梨の瞳はかつてないほど輝いてくれていた。


「メリークリスマスだね」

「そうね。お風呂入った?」

「うん。軽くシャワー浴びた」

「そう。お姉ちゃん風呂入ってくるから、先食べてて」

「やだよ。一緒に食べたいもん。待ってる」

「まあ、好きにして」


 厚手のコートを脱いで、ボックスから寝巻を取り出す。

 理梨はケーキの袋を机の上に乗せて足を伸ばし、どこか嬉しそうにくつろいでいた。

 やはりいつも口に出さないだけで、本当はもっと遊んだり出かけたりしたいんだろうなと思う。それは当たり前だ。私だって同じくらいの歳の時にはそれなりに遊んでいたし、出かけたりもしていた。


「理梨」

「なにー」

「前も言ったけど、もっと、遊んでいいんだからね?」

「んー」

 妹は辟易へきえきしたというように気の抜けた声で返した。しかし、私はどうしても言ってしまう。


「中学生は、二度と来ないよ。だから」

「二度と来ないのは、何歳でもそうだと思うんだけど」

「それは、そうだけど」

「もういいよその話は。ほら、はよ入ってきて」

「……うん」

 口うるさいと思われているのだろうか。理梨の幸せだけを私は願っているのに。

 汗はシャワーで流れても、妙に気落ちした心情は胸の奥深くにこびり付いたまま剥がれることはなかった。



”””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 お腹をふくらませて満足したのだろう。理梨は寝転がるなり、すやすやと寝息を立て始めた。

「身体冷えちゃうよ」

 つぶやきつつ、熟睡する妹に毛布を掛ける。以前より少し髪が伸びたかもしれない。また、切ってあげないと。

 理梨は手を、曲げたはさんで眠っている。小さい頃と同じ寝相だ。「ここあったかいんだよ」と昔から理梨は言う。

 理梨はそのまま変わらず生きてきたんだなと羨望せんぼうにも近い心情を抱く。なのに、時間は、世界は、止まるどころか加速してしまっている。その中で、私たちだけが取り残されてしまっているような、そんな気がどうしてもしてしまう。


 聖夜に似つかわしくない暗鬱あんうつな気持ちを振り払って、私は帰り道に買ってきたクリスマスプレゼントをバッグから取り出した。マフラーと、ブーツ、そして手袋。これを身に着けて、外出してくれたら。

「メリークリスマス」

 呟いた私の声に呼応してか、理梨が何か寝言を言った。それがいとおしくて頭に触れかけたその手を、私は直前で引き留めた。



****

 今日も理梨はアーガイル柄のマフラーをつけている。もう春が終わるというのに。


「理梨、体調崩すからやめなマフラーは」

「いいじゃん。せっかくのプレゼントだよ。ほんとだったらブーツとか手袋もつけたいくらいなんだから」

「馬鹿」

「馬鹿じゃないし」

「馬鹿にされるでしょ。そんな季節外れのもの着てたら」

「別にいいし馬鹿にされたって」

「そういうことじゃなくて」

「遅刻しちゃうからもう行くねー。ばいばい」

「……いってらっしゃい」

 セーラー服の後ろ姿を見送る。アニメじゃないんだから半袖着るならマフラーも外せと思う。


 駆けていく妹の姿は光り輝いて見える。かもめのように、どこまでも飛んでいけるように、そう見えた。私とは違い、綺麗な世界だけを見て生きていくような、そんなあわい期待を抱いた。

 それが、油断だったんだ。




≪最終話 甘夢の香りがする≫


 休日の朝。鍋の中、ゴトゴトお米がうごめく音の間に、体温計の音が響いた。


「ん……、んん? あ、熱、なくなった」

「ほんと? よかった……」

「やった。明日から学校行けるね」

「無理はしないでよ。ちょっとでも調子おかしかったら休んでいいからね」

「大丈夫だよ。お姉心配しすぎ」


 金曜日の昼、理梨は39℃の熱を抱えて学校を早退してきた。薬を飲んでも昨日の夕方までは熱が下がらなかったが、ようやくそれが効いてきたらしい。

「お姉、今日夜仕事だっけ」

「うん。……でも、今日は止めておこうかな。理梨心配だし」

「あーもうやめてやめてそういうの。大丈夫だから」

「そう?」

「大丈夫大丈夫。安心してよ。今日はじっとしてるから」

「……わかった」


 満足そうに笑った理梨は布団を剥いで立ち上がり、カーテンを開けた。

「んー! いい朝日だー!」

「お粥作ったから、ほら」

「ありがとー」

 太陽よりも眩しい笑顔で溌剌と話しながら理梨は、机の上の器に飛びついた。

「もう。ゆっくり食べなよ。今度はお腹壊すから」

「大丈夫だって」

「大丈夫なんて言葉、信用できないわよ……」

 ふとそんな本音が口を衝いてしまった。気付いたときにはもう遅かった。

 スプーンが器の底を叩く音が消える。何も言わずとも理梨には、その意図するところがわかってしまったのだろう。

「ごめん」

「ううん」

 再び、理梨はお粥を掬った。けれどさっきのような勢いはなく。


 大丈夫という言葉を、私は信用していない。それほど何の根拠もない言葉はない。

 十年以上前に入院していた祖父も祖母も、大丈夫大丈夫といっていたのに、その後すぐに死んでしまった。やけに不安になって、「お母さんは死なないで」と言ったときに、「大丈夫だよ」と笑っていた母も、小さかった理梨を抱きながらそのやり取りに苦笑していた父も、結局いなくなったじゃないか。


「9時くらいなったら、お姉ちゃん行ってくるからね」

「うん。早く帰って来てね」

 何気ないこんなやり取りも、どこかぎこちなく感じてしまった。



**

 その日の相手は、見知った女性だった。といってももちろん古くからの知人ではない。この仕事を始めた頃に相手をした女性だった。歳はきっとそう変わらない。違うのは立場くらいだ。


「随分、慣れてきたのね」

「まあ」

「ほんとはこんな仕事したくないって泣いてた時とは大違い」

「そんなこと、言ってないです」

「言ってたじゃない。私に抱きついて」

「言ってない」

「どっちがサービスしてんだかわかんなかったわよあの時は」

「言ってないって言ってるでしょ」

 その話はあまり広げてほしくない。仮に拒絶きょぜつがその事実を是認ぜにんしてしまっていたとしても、話していたくない。


 コートを羽織って、化粧道具をバッグにしまう。

「五万円です」

 彼女の前に立ち私は言う。とっとと出て行きたくて。しかし、彼女はキャミソール姿のまま、ベッドの端に座って私を見るだけだった。

「何ですか」

「ミナトちゃんさ、いつまで続けるつもりなのこの仕事」



「説教ですか?」

「違うよ。める気もないし。ただ、いつまでするつもりなのかなって」

「別に、関係ないでしょ」

「無関係ではないのよ。ミナトちゃん」

「何言って……」

「ねえ。妹さんは、知ってるの?」

「!!」


 それは、あまりに唐突だった。混乱して、視線が右往左往するのが自分でもわかる。

「り、理梨のことを、どうして…」 

 言ってしまってから余計な一言だったと気付く。

「リリちゃんっていうのね」

「も、もういいでしょ。早くお金払って……」

「今日のミナトちゃんはいつもよりボーっとしてたわ」


 私の言葉をさえぎって言い、彼女は眼鏡をつけた。黒いフレームの眼鏡。その横顔だけみれば、公的な仕事についていてもおかしくないと思うくらいだ。

 いや、もしかしたらそうなのかもしれない。だからこうやって説教じみたことを。……いやいや、そんなことはどうでもいい。


「……手は抜いてないです」

「そう? ぼーっとしてたでしょ」

「してないです」

「まあいいわ。ところでちょっと聞かせてほしんだけど、あなた何人も相手にしてきたんでしょ? いろんな人にサービスしてきて、どう思った?」

「どうって……」

「何かかかえた人がいた時、関係ないって思った? それとも助けてあげたいって思った?」

「関係ないことです。一切」


 それは本音だ。相手がどうなろうとも、私には関係ない。私はただ一夜の相手をするだけだ。


「子どもを置き去りにした母親が相手でも、夫の貯金を勝手に下ろしてあなたにみついだ女の人が相手でも、母親を殺してやってきた女の子が相手でも、あなたは無関係?」

「関係、ないです。勝手にここにきてるだけでしょ皆」


「置き去りにされた子どもがその晩に死んだとしても?」


 眼鏡のフレームをなぞりながら女は言った。


「金を使ったのがばれて、夫に一生消えない傷が残るまで殴られたとしても?」

「……」

「何を選んでも正しくない。そんな答えに絶望して、少女が命を絶ったとしても?」

「やめて……」

「ねえ、知ってる? あなたは無関係と言うかもしれないけれど相手からしたら、あなたは立派な関係者になりえるのよ」


 無意識に、私は耳を塞いでいた。何も聞きたくない。

 どうして、こんなことをいわれなければ……私は、私は……ただ必死に、妹のために、こうやってしているだけなのに……。だって、しょうがないでしょ、こうでもしないと、私たちは……。

「う、ううっ……」

「……まあ、いいわ。最初に言ったけど、私はあなたを止めようとしてるわけではないの。ただ、現実はみてあげないと。そうじゃないと」

 言葉を切った彼女は、耳にくっつけた掌を無理やり取って、耳元でささやいた。


「酷く後悔することになるわ。絶対にね」


 何も言えなかった。ただ、以前私があの殺人犯の少女に言った言葉よりもはるかに重厚じゅうこう深長しんちょうで、みるほど痛かった。

「お金ね。五万だっけ」

「……五万です」

「じゃあ十万円あげる」

 彼女は得意げに笑み、財布からお札を取り出して私の前に示した。

 普段だったら嬉しいことのはずなのに、それを受け取るために手を伸ばす、たったそれだけの気力もなかった。

「……」

 彼女はしびれを切らしたのだろうか。小さく鼻を鳴らすと札を宙に放り投げた。そしてそそくさと着替えると、何も言葉を発することもなく、部屋を出て行ったのだった。


 どれくらいの時間が経っただろう。残されたのは十枚の紙幣しへいと汗の香りと背にのしかかった恐怖と。

「……お金……」

 部屋中をいまわってそれを拾う私は、本当にみじめだった。

 よほど目を背けたかったのだろうか。記憶の最後にあるのは、みじめさのあまり、床のカーペットに新しい染みができるその光景だけで、ふと気づくと私はアパートの部屋の前に立っていた。



***

「あ、お姉おかえり。ちょっと遅かったね」

 扉を開けると玄関先に理梨が走ってきた。おかっぱの髪の毛から、お風呂上がりのシャンプーの香りがする。


「うん……ただいま」

「……お姉? どうかした?」

「ううん……。なんでも、いや、ちょっとだけ……」

 受け答えもままならず、私は廊下にひざを折った。

「ええっ!? ちょっとお姉!」

「理梨」


 あまり、妹の身体には触らないようにしてきた。彼女の為というより私の為に。あの日、秘密基地で妹と寝転がっていたときに、何の前触れもなく唇を重ねてしまった時のように、私はいつ禽獣きんじゅうになり果てるともわからないから。ましてあんな手段で金稼ぎをしている今は尚更。


 けれど限界だった。今は、人肌のぬくもりを感じたかった。無条件に信用できる人間の温度を、ひたすらに。


「お姉……?」

 不意に抱きつかれた妹は混乱しているような声だ。


「間違ってないって、言って、理梨」

「え?」

「お姉ちゃんは、間違ってないって、お願い」

 困惑しつつ、妹は私の背に手を添えてくれた。そして。

「お、お姉ちゃんは、間違ってないよ何も」

「……」

「お姉ちゃんは、おせっかいだけど、ずっと、わたしのことを、大切にしてくれる、お姉ちゃんだから。わたし、寂しくないよ」

「理梨」

「お姉ちゃんは、世界一優しいから、わたしも、その、何ていうか……とにかく! ……とにかく、お姉ちゃんは、何も間違ってないよ。だから、そんな顔して、泣かないでよ……」


 理梨まで泣いているのが首筋にれる水滴の温度で分かった。

 こうやって妹の中で泣くのは、初めてだったかもしれない。妹の涙を受け止めることこそあったけれど、逆の立場は初めてだったかもしれない。両親がいなくなった時も、妹の前では泣かないと決めていたから。


 浮かぶ涙を無理やり拭い、私は笑って言った。

「ごめんね。理梨」

「……びっくりした。急に、泣きだすから。だいじょぶ?」

「もう大丈夫。理梨のおかげね」

「……そう。ならよかった」

 妹の表情はいまいち晴れていなかった。けれど、私があれこれと明るい話を重ねるうちに、次第に表情も元に戻って行った。

 それはほとんど自己暗示に近かったけれど、構わない。私は、間違ってないんだ。だって、すべては微かな未来のためなのだから。

 大丈夫。何も、間違ってなんかない。



****

 数日後の夕方。

 いつもの通り化粧をしながら鏡越し、帰って来た理梨に私は言った。


「理梨、今日もお仕事だから」

「うん。でも、あたしも夜、遊び行くんだ」

「え? 友達のとこ?」

「まあ、そんなとこ。ちょっと遅くなるかもだけど、たぶん今日中には帰ってこれるから」

「……」

「もう心配しないで。ちゃんと帰ってくるからさ」


 内心私は心配だった。あの日以来、時折ときおり物憂ものうげにため息を吐くようになった妹が。本人は気付かれていないと思っているのかもしれない。あるいは、完全に無意識なのかもしれない。だとしたら尚更なおさら心配だ。しかし。


「そう。まあたまには行っておいで」

 理梨が外に遊びに行くのは本当に珍しい。いつもバイトがない時は家にいて、遊びに行けばと言うと、「あたしが邪魔なの?」と怒るほど。 

 そんな妹が自分から外出しようとしているのをさまたげるのは矛盾むじゅんしてるし、あまりに無情な気がした。


「ほら、お小遣こづかい」

「え、いいよー。自分のお金あるし」

「いいからいいから。持ってきなさい」

 無理やりお金を持たせると、理梨は「ありがと、お姉」と笑った。

 この笑顔さえ守れれば、どんな後悔も受け入れてやる。

 あの日の忠告に反論するように私は心中呟いた。


*****

 午後9時に待ち合わせだったが、少し早く来すぎてしまったらしい。

 先にホテルに行ってもいいが、それだと疎通が難しくなって面倒かもしれない。

「しかたないな……」

 溜息交じりに喫茶きっさ店に入り、適当にコーヒーでも飲みながら時間を過ごす。窓の外の人波は、皆一様に下を向いている。

ひまなのね。みんな」

 飽和ほうわした、彼らの暇がうらやましい。

 頬杖ほおづえをついて見た空はくもり。けれど、きっと彼らが下を見ているのは、天気のせいではない。

 春のおだやかな夜。近くの河原かわらでは桜が花びらを流していたが、そこでも彼らは下を向くのか。

「……なんて」

 がらにもないことを考えてしまった、と窓の外の景色から目を離すと。


「あら、やっとこっち向いた」

「なっ!!」

 危うく椅子から転げ落ちそうになる。そこにはサングラスをかけたスーツ姿の女性がいた。

「え、誰」

「わからないの?」


 そう言って彼女は眼鏡をはずした。瞬間、驚きが警戒に変わる。

「あなた……」

「今日はこれから?」

 不敵に笑う彼女は、少し前に私に脅迫きょうはくじみた言葉をぶつけてきた、あの女だった。

「そうですけど。なんですかまた止める気ですか」

「別にー。というか言ったじゃない止める気はないよって」

「後悔するよって言ったじゃないですか」

「私にとってはどっちでもいいのよ。あなたが後悔しようがしまいが、やめようがやめまいが。けど、あの子、リリちゃんのことは、少し心配で」

「あなたが理梨の何を知ってるって言うんですか」

「そうね。私は何も知らないわ。リリちゃんのことも、あなたのことも」

「だったら口挟まないでください。もういいですか。そろそろ時間なので」

「あら、時間なんて気にしなくていいのよ」

「何言ってんですか」 

 余裕気よゆうげな、人を小馬鹿にするような言葉遣いに無性に腹が立つ。怒声どせいおさえて私は言った。 

「依頼者のとこに行かなきゃならないのわかるでしょ」

「だってそれ私だもん」


「は?」

 荷物を持ちかけた手を止める。彼女はスマホを取り出して、にやけ顔のままこちらに画面を見せた。

「ほら。ミナトに依頼してるでしょ」

「……名前、違ったじゃないですか」

「あら。偽名でもいいんじゃなかったの?」

「……」

「さ、いつもの部屋行きましょ。いいでしょお金払えば」


 本当に気に食わない。私に連絡してくる人は、自分に自信がない人が多い。だからこちらも話しやすいのだけれど、こんな得体のしれない自信を持っている人は、本当にやりにくい。


 しかし、彼女の言う通りでもある。私は金さえもらえればそれでいい。

「わかりました」

 溜息交じりに返答する。そうだ。相手がだれであっても、断る権利は私にはない。憎たらしいけど、しかたない。


******

 部屋の前まで来た。特段緊張はしない。気にさわる相手ではあるけれど知らない人ではないから。

 直前の覚悟の質問もなく、カードをかざしかけた時、彼女は唐突に、背後から私の身体を引き寄せてきた。

「えっ」

「ねえミナトちゃん。ほんとうにいいのね?」

 無理やり身体を離して女を吹き飛ばす。もう、我慢の限界だった。


「何なんですかこの前から! 私は快楽や遊びのためにやってるんじゃないんです! とがめられる筋合いもない。咎めるくらいなら私たちを助けてよ! わかってるよ正しくないのは! でも、でも、こうでもしないくちゃ生きてけないのよ……! 後悔の予想より、今の生活の方が大切なのよっ!!」


 バッグを振り上げる。フロアに尻餅しりもちをついた女は、無表情でわたしを見上げていた。

「はあっ……」

 寸前で思いとどまった私はバッグを下ろして、溜息を吐いた。

「……そうだね。あなたの言うことは最もだわ」

「……」

「あなたは、覚悟が出来てるのね。それに、自分のしていることの意味も、きちんと理解してる。それなら、私が口をはさむのは、間違いよね」


 彼女はつぶやくように言った。納得したように、しかし一方、心配するように、失望するように。


 けれど、知ったことではない。彼女が考えていることは。ただ何の代案もないままに私のしていることを悪だ、間違いだと嘲笑ちょうしょうされているようで、腹が立ったのだ。


 女は立ち上がると、サングラスをかけ、きびすを返してエレベーターホールの方へ向かっていった。

「何してるんですか」

 その背に声をかけると、彼女は振り返らずに言った。

「依頼人は私じゃないわ」

「はっ?」

 後ろ姿が小さくなっていく、と同時に、左側、扉が開く。


「えっ」


 そんな声が聞こえた。瞳の端でそちらを見て、慌てて見返す。

「な、なん、で」

「お姉……何で……?」

 初めて見た厚化粧あつげしょう口紅くちべに、薄着に浮かぶ胸の輪郭りんかく

(あの人は、このことを? いや……いや、え、いったい、どういう事……)


「理梨、何、してるの?」


 頭が混乱する中、かろうじてそう尋ねる。しかし、理梨は目をらすだけ。けれど、それこそが答えだった。何もやましいことがないのなら、堂々としていればいい。


「お姉こそ、何で」


 かく思う私も、いざ問われると同じだった。頭が真っ白になって、何も、誤魔化しの言葉さえ出てこなかった。


 沈黙が降りる。互いに目を逸らしたまま、互いに後ろめたさを覚えたまま、しばらく時間が経過した。


「あの、さ、とりあえず、中入る?」

 妹は無理やりな笑みを見せて言った。

「帰る」と、きっとそう言わなければならなかっただろう。

 しかし、私はただ一度頷いて、扉の向こうに足を踏み入れていた。その判断に、躊躇ちゅうちょはほぼなかったと思う。




*******

 ベッドの両縁りょうふち、背を向けて二人座る。かつてないほど気まずい。

 自分たちの境遇は、サービスを受けに来る人たちと一緒だと、想像していたはずなのに。想像はしていたけれど、予想はしていなかった。まさか、こんなことが起きるなんて。


「きょ、今日は、泊まってこっかここにさ」

 冗談めかして妹は言う。私は、何も返せない。

「……」

「……怒って、るよね。お姉」

「え……?」

「ごめんなさい。でも、信じてもらえないかもしれないけど、その、いやらしい気持ちがあったわけじゃないの」

「じゃあ、どんな気持ちがあったの……」

「温めて、ほしかったんだ」


 私は振り返る。妹も同じく、こちらを振り向いていた。その頬には、赤みがさしている。

「温めて、って?」

「そのままの、意味だよ。ぎゅって抱きしめてほしかったの。まさかミナトさんっていうのがお姉だとは思わなかったけど」

「……」

「お姉は、あんまりぎゅってしてくれないから。……当たり前と言えば当たり前だけどね。だって、家族だもん」

 私は、妹に極力触らないようにしてきた。さわってしまってはいけない、不可侵の存在だった。


 けれど、それが故に妹は悲しい思いをしてきたのかもしれない。妹にとっての家族は、私一人だけだったのに、私は手作りの倫理観りんりかんしばられて、かえって彼女を傷つけていたのだ。

「お姉」

「私も、理梨に話さないといけないことがあるの」

 きっともう彼女はすべてわかっているだろう。けれど自分の口から言わなければならない気がした。いや、言いたかった。これまで嘘を吐き続けてきた、私なりのつぐないとして。


 全て話した。

 私たちの生活は、すべて、私と依頼人の肉体関係でできていたことを。それをずっと隠し続けてきたことを。


「ごめんなさい。あなたのことを思えば……、ううん、違う。私のことしか考えてなかったのかも結局。酷い話だよね」

「……ううん。いいの。お互い、様ってことで」

「うん。……理梨、そろそろ、上着、着れば?」

 理梨はずっとキャミソール姿だった。いくら部屋が暖かいとはいえ、また風邪かぜをひかれたら大変だ。

「あ、うん。そうだね」

 そうこたえつつ、理梨は上着を着ようとしなかった。

 何をしているのだろうと首をかしげて見つめていると、理梨は予想もしなかった展開の中でも、さらに想定できない言葉を言った。


「あの、あたし、いいよ」


「何?」

「あたし、その、しても、いいよ」

「……何言ってるの」

「だからさ。あたしこうやって寝っ転がってるから、お姉の、いやミナトさんの好きにしていいよ」


 理梨は冗談で言っている様子ではなかった。言った通り、ベッドに横たわる。思いのほかの胸のふくらみから、瞳を逸らす。

「馬鹿言わないで。さすがに、出来ないに決まってるでしょ」

「……うん。でも、とりあえずあたし、ここ寝てるね。あと、お金はあるよ。五万円」

「馬鹿っ!」


 駄目だ。私は頭を抑える。そもそもここで迷っていること自体がおかしいんだ。

 私は一度脱いでいたコートを羽織った。

 ここまでなら、まだぎりぎり戻れるだと思う。しかしもし一線を越えてしまったら、二度と元には戻れない。


「理梨、私は理梨と幸せになりたいの。だから、駄目だよ。駄目、だよ……」

 言葉尻がつい弱くなったのは、理梨が唇をすぼめて笑っていたから。それが、理梨とは思えないくらいあでやかで、可愛らしくて。

「……」

「お姉」

「私は、お姉ちゃん、なんだよ」

「うん」

「だから、だめ、でしょ。こんなこと、しちゃ」

「そうかな」

「そうだよ。理梨。撫でてほしいなら撫でてあげる。抱きしめてほしいならめいっぱい抱きしめてあげる。だから」

「じゃあさ」


 途端、ベッド上、両手を挙げて、理梨は言った。


「今、抱きしめて。あたしのこと」

「……」

「ぎゅって。安心させてよ」


 それくらい、いいだろう。だって、私が言ったんだ。抱きしめてほしいなら抱きしめてあげるって。

「うん。いいよ」

 コートを脱ぎ、理梨の側に膝を立てて座った。理梨は私の方を見て妖艶ようえんに笑んだ。

「っ……!」

「お姉」

 私は、その上におおいかぶさった。あやまちだけはおかさぬよう、けれど互いの鼓動こどうがわかるくらい強く固く抱きしめた。


 異変はすぐに起こってしまった。


 きっと、香りのせいだった。甘い、酸っぱい、その匂いのせい。香りの力は、想像以上だった。理性など簡単にけてしまうくらい。


 よく、覚えていない。けれど、耳に「ミナちゃん……ミナちゃん……」という辛そうな、けれど懐かしい甘い声だけが残っていた。



********

 朝6時。裸身らしんを起こすと、理梨はいなかった。ただ机の上に、5万円だけが置いてあった。


「理梨……?」

 お風呂場にも、クローゼットにもいなかった。クローゼットにいる意味もわからないが。


 スマートフォンの画面を見ると、理梨から2時間前に電話が入っていた。

「え……」

 いぶかしく思いながら、通話ボタンを押すと、全く間を置かずに理梨が出た。

「もしもし」

『あ、もしもしお姉?』

「理梨、先帰ったの?」

『え、何が?』

「は?」

『あたし、昨日リコちゃんち遊び行ってたよ?』

「いやいや。それは」

 とそこで言葉を止める。もしかして、理梨は決めたのではないか。昨夜のことは忘れようと。なかったことにしようと。

『お姉が全然帰ってこないから心配なって、何回も電話しちゃった」

「……そう。ごめんね」

『ううん。もう帰ってくる?』

「うん。すぐ帰るよ」

『じゃー、朝ごはん作って待ってるねー』

 明るい理梨の声が切れる。

 本当になかったことにしようとしているのだろうか。まるで本当に覚えていなかったかのような……。

「……ううん」

 いや、どちらでもいい。あれは、夢だったんだ。それでいい。理梨がそうしたいのなら、それでいい。

 机に置かれた五万円を全て破り、トイレに流す。

 季節外れのコートを羽織る。一度寝ていたベッドシーツ、甘い夢の残り香がした。  


                                  ≪完≫

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甘い夢 【完全版】 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina

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