第24話 コケッコと和歌乃の決意
握った瞬間の冷たさが好きなのかもしれない。
掌にくっと主張してくる存在と、インクをつけるときの「ほんの少しのがきれい」という危うさ。
私はガラスペンが好きで、学校に行ってない時ずっと書いていた。
原稿用紙とセットになっているものが売っていて、有名な作家さんの文章をそこに書き写す。
インクは無限に売っているけど、ひとつとして同じものがない。
メーカーによって黒だって違う。
少し緑っぽい黒、深い紺色を飲み込んでいる黒。
それは私の心を、甘く許す。
同じ黒だと言われてるのに違うのね。
そうよ、あなたの黒と、私の黒は、違うもの。
でも手紙を書く相手がいなくて、少し寂しかった。
「透桜子さんに手紙を書いたらどうかな」と提案したのは、私が書きたかっただけかも知れない。
ひとりで家にいたころ思ってたこと、考えていたこと、したら心が救われること、ずっと使いたかった特別なインクで書いた。
書くたびに自分のなかがすっきりして、落ち着いた。
ほどなくして透桜子さんから手紙が帰ってくるようになり、何度も話をした。
最初は警戒されていた。誰だか知らない人。でもいいの、ただ同じ立場で、視点で、話がしたかった。
お散歩は夜がいいとか、ふらふらするなら都内のほうが目立たないこと、本や映画を見てメモを書き日々の達成感を保つとか、色んな話をした。
長く家にいると分かる……みんなはちゃんとしてるのに、自分は何もしていない、このまま置いて行かれるという恐怖感。
それは日々の境界線がないことだと気が付いたから。
毎日何かを見て、ちゃんと書く。それだけで何かをした記録が残る。
見直すだけで、何もしてない日などないと、自然と思える。
そんなやり取りを続けたある日、透桜子さんからきた手紙に書いてあった。
『やっぱり許せない。初芽さんなら強いから、トカゲ、なんとかしてくれるかな』
『もちろんよ』
そう答えて、私は見知らぬ友人から初芽になって、透桜子さんの家に向かった。
会った透桜子さんは、文章の通り、優しくて静かな人だった。
でもその口から語られたのは、想像以上につらい話だった。
透桜子さんと話した後、別の部屋で待っていた彩華さんと話した。
彩華さんは録画した映像を見ながら説明してくれた。
「見ての通り、トカゲは絶対に指紋認証しか使わないの。私の目の前でパスワードを入力しない」
「スマホを水没させるとか……壊す方向性は?」
「水没させたってデータはバックアップ取ってあるでしょ。でもバックアップ先は分かるかもと思ってる。でもデータを消しても透桜子の心の傷は永遠に消えないわ」
その言葉に私は何も言えなくなった。
私は自分で自分を傷つけて、ずっと動けなくなっていた。
それは今も残ったままだ。それでも動き出せたのは、寺田くんが目の前でコケッコをひらひらさせてくれたから。
こっちだよ、こっちにおいでって、見せてくれたから。
言うだけじゃないの、ちゃんと見せてくれた。
言うひとはたくさんいたの。「勇気を出して」「大丈夫」「まだ間に合う」「和歌乃ちゃんなら頑張れるよ」。
たくさんたくさん言葉をくれた。
でもなにひとつ私の心の奥には届かなかったし、踏み出せなかった。
むしろまだ期待されてるのかとつらくなった。こんな自分を早く見捨ててほしくて、消えたくて、情けなくて。
気持ちがない言葉は、むしろ心を傷つける。それは言われないとわからないことだ。
そして太陽の下、目の前を歩くリアルだけが、背中に添えられた大きな手だけが、私を歩かせた。
今透桜子さんは、彩華さんの勇気だけを支えに生きてるんだろう。
彩華さんは「一度は逃げ出したけど……透桜子が可哀そうで、やっぱり探ることにしたの」と言っていた。
絶対的な味方が、助けを求めて視線を投げると笑ってくれる、いつも見てくれている人の存在のおかげで今も通えている。
寺田くんがいなかったら、ぜったいに行けてない。
寺田くんが学校お休みなら、私もいかない。一人じゃ無理、怖い。
まだまだこんな状態で「気持ち分かるよ」なんて偉そうなこと言えないけど、それでも……。
透桜子さんの家を出て車に乗り込むと、道尾さんが慌てていた。
「初芽さまが発熱されて、倒れてしまったようです」
「!! 寺田くんがいるのよね?」
「はい。お部屋に運んでくださり、眠られるまで見てくださったようです」
「良かった……」
「主治医に連絡したので、夜には来ると思います」
「喉かな……熱がすごく高くなるから心配。ゼリー飲料はまだある?」
「買って帰りましょうか」
道尾さんの言葉に私はうなずいた。
初芽は熱が出るとゼリー飲料しか食べなくなる。
私はここ数年、体調を崩したことはない。あまり熱が出ないし、喉が痛いとか、そういうことにならない。
代わりに心がどうしようもなく弱いのは自覚してるけど。初芽は逆で、年に数回倒れる。季節の変わり目、急激な温度変化。
そのたびに思うの。私たち、ふたりで一つの身体だったら、最強だったのに。
それでもふたりで生まれたきたんだから、ふたりで幸せになりたいって、最近はすごく思う。
「ただいま」
「おかえり。さっきからたまにのぞきに行ってるけど、寝てる」
「ありがとう。すごく助かりました」
「いやいや、和歌乃さんも透桜子さんの所にいくの、おつかれさまでした」
「はい」
家に帰ってきて、寺田くんの顔を見たらすごく落ち着いて、大きく深呼吸をした。
道尾さんが主治医に電話して、バタバタしているのを見て、寺田くんがお茶を出してくれた。
いつも通りの黒豆茶。外は雨がふりはじめて寒かったから、すごく美味しい。
うちは平屋の日本家屋だから、雨が降り出すと地面が近いのか、土のにおいがする。
雨の音と土の香りがなじむころ、寺田くんはお茶を飲みながらぽつり、ぽつりと雨だれのように話し始めた。
「……すごく汚い部屋だな、と思ったけど、あれは初芽さん自身なんだなって、さっきから思ってる」
「初芽自身?」
私は長く初芽と一緒にいるので、そう言われてもわからない。
正直あの部屋は荷物が多すぎて汚いと思ってしまう。何があるのか、まったく分からない。
寺田くんは続ける。
「浮かび上がるんだ、あの部屋にいる初芽さんが。机の上にはミシン。縫いかけの布、切り落とした糸。見ていた参考書。色々試してるのかな、後ろには同じ色の種類が違う布があるんだ。これはさ、父さんたちもそうだから。同じ布を持ってきて、テストしてる。そして足元にはなぜか経営学。右手には心理学、ベッドサイドには自己啓発本。あそこに初芽さんは座ってるんだな。ここが頭の中心なんだなって分かったよ」
その言葉に驚いた。
私はずっと初芽といるのに、何一つわかってない。ずっと恐ろしく汚い恐怖の部屋だと思っていた。
寺田くんは、たった一度あの部屋に入っただけで、初芽を見つけている。
それはきっと初芽の中、表面じゃなくて、もっと奥のほうに沈んでいる初芽の中を、一瞬で私を見つけたような素早さで。
いつの間にか、私は寺田くんの横に移動していた。
そして手元の服を引っ張った。
「……なにも、分かってない気がします、私」
「いや、俺もだけど。どうしたらいいんだろうね、トカゲ。俺には全然わからないや」
そういって寺田くんは大きなため息をついた。
何もない、何もわかってない私だけど……現時点ですごく得意なことがあるの。
それだけしかない。もうそれだけしか私には無いって、ここにきてまっすぐに思えている。
「ういー-す。もう大丈夫だわ。あー、和歌乃おつ~」
「初芽! おはよう」
今回は喉頭炎までいかなかった初芽は、四日寝込んで起きてきた。
喉頭炎になると一週間……ひどくなると入院になってしまう。
こうなると喉頭炎と嘘ついて学校で黙っていた自分を恥じてしまう。
本当に毎回大変そうで。私は元気になった姿が嬉しくて初芽の横に座る。
「もう良いの? ご飯食べられる?」
「おなかすいたー。マック食べたい」
「初芽。この前熱があったのにそれを黙っててマック食べたのね」
「少し喉が痛いくらいで、いつもの兆候はなかったのよ! 朝の時点では37度の微熱だったの! あのクソトカゲの話聞いてたら、熱がバイーーンと上がったのよ。どうしてやろうか、あのトカゲ。丸焼きか、おおう? みんなで飛び掛かってスマホ認証させて消すのが一番早くない? 手首切り落とす? もうやっちまお、時間の無駄ぁ」
その言葉を聞いて、私は背筋を伸ばした。
そして口を開く。
「あのね初芽。私がトカゲの誕生日パーティーに行くのはどうかな。もちろん初芽として」
「……おおう? 火の中に飛び込もう作戦? 私はプライドが許さないから絶対行きたくなかったけど、和歌乃が行くならいいよ。それなら……色々と作戦考えない? 楽しくなってきたわ。ネタは集めてあるの」
「うん。私、決めたの」
「そっか。オッケー、作戦練ろう。道尾さん、ご飯ー--っ!」
私たちは朝ご飯を食べながら話し始めた。
私は何も知らない。
それでも出来ることから動いて、見せていかないと、誰の心にも届かない。
初芽がいれば、寺田くんがいれば、なんとかなる。
してみたいの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます