第10話 はじめましての挨拶を

「じゃあ交渉成立ね。制服持ってくる~」


 と如月初芽は嬉しそうに和室から出て行った。

 ガランと広い和室には、俺と和歌乃さんが取り残された。

 とりあえず机のお茶がこぼれて、机や足が濡れているのが気になる。

 俺は机の上に置いてあった台拭きで机を拭き、持っていたハンカチを和歌乃さんに渡した。

 でも和歌乃さんは畳の上に丸まったまま、動かない。

 でも小さな声が聞こえてきて……気になって横に丸くなってみると、


「……どうして出来るなんて言っちゃったんだろ、無理……無理……どうしよう……無理だよ、そんなの……無理……」


 そう呟いているのが聞こえた。

 正直……俺も無理だと思う。如月初芽は強烈な人間で、言いたいことはすべてはっきり言う、敵が増えても気にしない。

 それに引き換え……和歌乃さんは、顔がそっくりなだけでどうしようもなく気弱に見える。

 俺は濡れた膝にハンカチで触れた。すると涙で濡れた目が、俺のほうを見た。

 俺が最初に【如月初芽ではない】と感じた瞳。

 涙で濡れて、指でこすったのか、真っ赤になっている。

 俺は可哀相になって声をかける。


「無理しなくていいと思う。こんなの突然、どう考えて無理だよ」

「……あの、私……、はじめましての、挨拶をさせてください、ずっとしたかった。初芽の顔をして、嘘をついていたことを謝ります」

「えっ?」


 その言葉に驚いた。俺は今の状況をなんとかしないと……と思っていたけど、和歌乃さんはそう思っていないようだ。

 思ったより普通の言葉が出てきて、俺は距離を取って正座した。

 和歌乃さんは、丸まった状態から、ずる、ずる……と後ろに動き、身体を持ち上げた。

 そして顔を覆い尽くすようにへばりついていた髪の毛を首の横にまとめた。

 泣きすぎてボロボロな顔が、明るい場所で、はっきりとよく見えた。

 潤んで真っ赤な瞳、薄い唇、それを震わせて……、


「はじめまして。如月和歌乃、です。わかのは、和紙の和に、歌うの、歌、に乃は、乃木坂の乃です」


 とハッキリと言った。

 俺はこの子の言葉を、まずは全部受け取ろうと判断して、ただ頷いた。和歌乃さんは続ける。


「挨拶を、和歌乃として挨拶をしたかったんです。家族以外に名前を呼んでもらったのが久しぶりで、和歌乃さんって言ってくれたの、すごく嬉しかった。だから名乗りたかった」


 そういえば「なんて呼べばいいんだろう」と思って、自然と名前を聞いていた。

 そんな当たり前のことが嬉しいなんて、考えたこともなかった。

 和歌乃さんは静かに頭をさげて髪を振り乱しながら吐き出すように泣き出した。

 

「こんなことに巻き込んでしまって、すいません。私がぶつかったから……私が夜中にふらふらしてて……私……私……っ、うわぁぁん……うっ、うっ……怖いよ、怖い……」


 泣き方がもう、悪いことがバレてしまった時の美琴と同じ……小学校低学年の子どもだ。

 ぐずぐずと言葉が見当たらない。目の前にある割れたガラスのカケラさえ、光っているからと手を伸ばすような危うさで。

 伝えたいけど、伝えられない、言葉も感情も、ぐちゃぐちゃになっている時の美琴や菫を思い出す。

 俺は膝をついて、和歌乃さんのすぐ近くに行って、背中に手を置いた。

 触れた瞬間、びくりと電気が流れたように動いたが、すぐに身体を丸くて同じ言葉を吐き出す。


「私が……すいません、私が。全部悪くて」

「ん」


 もちろんそうじゃないけど、こういうときは何かいうと、その言葉に反応してしまう。

 そうじゃないよというと、そうなんです。それしか言えなくなってしまう。

 だからただ背中に手を置いて、優しくとん、とん、と撫で続けた。

 全部吐き出すまで泣き続けて言ったほうがきっと楽なのだ。

 泣き続ける和歌乃さんの背中を撫でながら、部屋を確認すると、どうやらここは周辺に民家はなく、この家だけで独立している。

 つまり23時をすぎたこの状況で叫んでも泣いても、誰にも怒られないということだ。

 俺も状況が全く掴めてないけど、とりあえず……一番混乱しているのは間違いなくこの子、和歌乃さんだ。

 和歌乃さんは恐ろしく大きな氷河が、生温かい温度に触れたようにゆっくりと言葉を吐き出していく。


「……ずっと、ずっと、ひとりで。明るくて強い、初芽をずっと見てて、憧れて……いいえ、妬んでました」

「うん」

「一緒に生まれたのに、どうして私だけこんなにどうしようもないんだろうって。何を手にとっても、悲しい気持ちでしか物を考えられない」

「うん」

「朝の占い、お気に入りの箸が見当たらない、髪の毛をしばるゴムがない、そんな小さなことすべてマイナス方面にふっていってしまう」

「うん」

「怖い、初芽の代わりなんて、やっぱりできない、初芽みたいにしっかりしてないもん、私はダメだもん……」


 俺は和歌乃さんの背中をトン……と優しく撫でて口を開く。

 そして「こうするしかないんじゃないか?」と思っていた案を口にしてみた。


「これは提案なんだけど……演技が得意なら、学校では如月初芽を演じる……とか……」

「ダメなんです、それじゃダメなんです!! 私は私なんです!!」


 アイデアを全力で否定されて驚いた。

 仕事場では如月初芽を演じているだろうし、映画やテレビで見る和歌乃さんは、こんなに弱くない。

 じゃあ身近な如月初芽を演じれば良いと思った……いや、その自信があるから引き受けたんだと思ったんだ。

 はあ、はあ、と息を吐いた和歌乃さんは俺の服をくっと掴んだ。


「お店で寺田さんに会った時、如月初芽だと思ってほしいと強く願いました」

「うん」

「でも……夜の如月だって、違う人だって、そう言われて、すごく嬉しかったんです」

「うん……」

「私は、私を、見てほしいんだって、やっと気が付いたんです。ずっと自分なんて無くていいと思ってたけど、如月初芽でありたいと思ってたけど、その気持ちが嘘で、それこそが私を苦しめてるって……思い始めて……やっと少し見えてきたんです」

「うん」


 俺は何も気にせず違和感を口にしただけだったけど……全部如月初芽から聞いていたのか。

 そして如月初芽を演じていることが自分の負担だったと、やっと分かった状態。

 その和歌乃さんに「如月初芽を演じろ」というのはつらいことだ。

 でも……俺は考えながら口を開く。


「和歌乃さんは如月初芽を演じるのはいやなんだね。それがストレスだと気が付いたと。それは大丈夫。俺は知ってる、君は如月和歌乃さんだ」

「……はい」

「今度は【外からどう見えるか】の話をするね。うちの学校にきて、制服を着ていたら如月初芽だ」


 和歌乃さんはコクンと頷いた。

 それは和歌乃さんも分かっているはずだ。

 そもそも如月初芽と和歌乃さんが一卵性双生児だってみんな知らないんだから、制服を着て学校に来たら、そうだろう。

 そこに和歌乃さんの「私は如月初芽じゃない」「本当の私を知ってほしい」という気持ちは関係がない。

 でも、俺、気が付いたんだ。


「そのままでいい。無理にあれこれ話さなくていい。【如月初芽】を借りる、利用するって考え方はどうかな」

「利用……」

「そうだ、学校に慣れるために如月初芽を利用しよう。これから和歌乃さんが学校で如月初芽として声をかけられる。でもそれに対して、ちゃんと【如月和歌乃として】答えるんだ」

「私として……」

「そう。俺はさ、コロッケ臭いんじゃないかと気にしてたけど和歌乃さんは臭くないと言ってくれた。如月初芽は臭いとはっきり言い切ったよ。まあ俺が制汗剤かけまくったのがダメだったんだけどさ。でもその差で、はっきりと君たちを認識したんだ。君たちは顔がそっくりなだけで、違う考えを持っている。そうだよね」

「はい……」

「如月初芽と呼ばれて扱われて、どう違和感を抱くか。それを自分で見つけていく。それが和歌乃さんという人を見つけていく最初の一歩になるんじゃないかな」

「……はい」

「和歌乃さんとして、どう思うか。俺も横にいるから、聞かせてほしい」

「……はい、はい」

「まずはそこから始めようか」

「はい、はい……ありがとうございます……」


 和歌乃さんは大粒の涙をぽろぽろとこぼした。

 静かな夜、俺たちは静かに向き合った。

 小さな違和感を見つけて積み上げて、それを見つけていく。

 同化しようとしてはみ出していた……壊れた部分を見つけ出していく……きっとそれが和歌乃さんだ。

 すべてはこれからだ。


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