第5話 さあ、色のある死を選べ(如月和歌乃視点)

 花の香りがほのかな苦みを持ち、ごろりと転がる静かな夜。

 降ってもいない雪で指先が凍える。


 目の前に広がるのはいつも通り灰色の世界で、冷蔵庫の中みたいに冷やされた空気があるだけなのに、私の目には雪が見える。

 掌に落ちて、そのまま消えずに積もっていく。

 もう足は埋まって見えない。身体が氷の塊のように冷たくて、動けない。

 そんな風に玄関から動けなくなってしまったのは、まだ買ったばかりのランドセルがピカピカだった頃だった。


 姉の初芽は迷わず赤色で、私は違う人になりたくて青色を選んだ世界で、結局私は自分で自分を殺して死に続けている。


 姉の如月初芽と、私、如月和歌乃きさらぎわかのは一卵性双生児として生まれた。

 初芽のほうが先に産まれたので姉として。

 数分後に生まれた私が妹として。

 生まれてからは、ずっと初芽と一緒。服も同じ食べるものも同じ、すべて同じように扱って貰っていたのに、初芽のほうが間違いなく神様に選ばれた子だった。


「初芽ちゃんはすごいね。本当になんでも出来る」

「初芽ちゃんはすごく頑張り屋さんだね。毎日練習してるって分かるよ」

「初芽ちゃんは優しいんだね。こんな素敵なお手紙はじめてだよ」


 そう聞くたびに。


「初芽ちゃんは何でもできるけど、和歌乃ちゃんは無理なんだね」

「初芽ちゃんはすごく頑張ってるけど、和歌乃ちゃんは頑張ってないんだね」

「初芽ちゃんは優しいけど、和歌乃ちゃんは優しくないんだね」


 と脳内で勝手に変換して脳内に入れた。

 私の耳は最初から腐っていた。

 初芽が褒められるたびに、私はそうじゃない、私はそうできない、と付け足した。

 両親が呼んでくれたカウンセリングの先生と話して冷静になってみると、それを言われてないことは分かった。

 でも言われないけれど、思っているでしょう? と一度思い込んでしまった気持ちはそう簡単に消えなかった。

 一度見えると信じてしまった雪は、目の前から消えることはない。

 壁のようにどこまで続く均一な闇は、指先を入れると数センチ先も見えない。

 奥に何があるのか分からない。怖くて一歩も動けなくなった。


 実際初芽は天才ではない。むしろ努力の人で、何でも人一倍考えて勉強していた。

 私は何もできないのに、私がちゃんと動いているのを見ている不思議な感覚。

 誰より理解してると思うし、好きで尊敬していて、誰よりに苦手で、誰より見たくなくて、誰より見ていたくて、大好きで大嫌いで羨ましくて眩しい存在。

 それが初芽だ。


 小学校二年生から学校に行かなかったが、芸能事務所社長をしている父は家庭教師を呼んで勉強させてくれたし、女優だった母は私に色んな劇を見せてくれて、世界の広さを教えてくれた。

 でもそれさえ、私はずっと辛かった。

 どうせ私は二分の一の不良品。もう半分が良かったから、良かったね。

 だから気を使ってくれているのね。どうしても見えない言葉の裏側を見つけて探して作り出して自らを苦しめる。

 存在しない刃を見つけて自らを切りつけて自害する毎日。

 ただ辛くてやめたくて、それでもそう出来なかった。

 だって初芽のほうがすべてにおいて素晴らしいもの。



 そんなある日、とある劇の主役オーディションに行くはずだった初芽に泣きつかれた。

 インフルエンザになってしまい、行けない、でもどうしてもこの劇に出たいの! だから私の代わりにオーディションを受けて! と。

 同じ顔だから大丈夫、オーディションだけ! と。

 無理だと叫んだけど、初芽は私の両肩を掴んで言った。


「和歌乃は自分が嫌いなんでしょ? 世界で一番自分が嫌いなのよね? でも演技すれば、別人になりきれば、和歌乃は消えるんだよ。私は私が好きだから私を見てほしいから人前に出たいだけだけど。和歌乃は別の人になってみたら嫌いな自分じゃなくなるよ?」


 嫌いな自分を捨てて、別人になる。

 その言葉に渡された台本を見た。

 それは天真爛漫な女の子の役だった。

 私はこんな風に明るくない、私はこんなに優しくない、私はこんな風に考えられない。

 でも演じたら? なりきったら? 私は私じゃないと、心の奥底から思い込んだら、私はこの子になれるのか。

 それは新鮮な感覚だった。その子になって本を読んだらセリフはすぐに入った。

 私は演技をすることで、私から逃げることができた。

 私は世界で一番私が嫌いなので、私から抜け出すことは思ったより容易だった。


 そして初芽の身体を借りた私……和歌乃はその劇のオーディションに合格した。

 それからなぜか演劇はすべて私が初芽の代わりにすることになった。

 演じたいと言っていた初芽が「演劇だけは和歌乃に負けたわ」と言ってくれたのも嬉しかった。

 そんな風に素直に褒めてくれる言葉も、飲み込めていないけれど。


 もはや普通の生活には存在しない……もう十六歳になったけど七歳から学校に行ってない……九年も外を『如月和歌乃』として歩いていない。ドラマに出ているのも映画に出ているのも『如月初芽』。

 如月和歌乃はもう消えた。初芽と一心同体、演技の化身として生きていく。

 演じる瞬間だけは生きていると感じて嬉しくて気持ちが良くて、それだけで良い。

 そう思っていたけれど……。




「ねえ、和歌乃。どーーしてまた行ったの? もう行かないって言ったよね、総菜屋。話を合わせるのが面倒なんだけど、やめてくんない?」

「……ごめん。ちょっと外の空気すいたくて、出たら、いつの間にか行ってて……」


 左手の親指の爪をかちりと噛んだ。同時にじわりと鉄の味が広がる。

 私にはどうしよもない癖があって、親指の爪を食べてしまう。食べ過ぎてもう指先の皮膚を食べている状態だがやめられない。

 真っ赤で少し触れると血が出るほど痛めているが、どうしても止められない。

 自分で自分に痛みを与えないと、冷静になれない。

 その手を初芽がクッと握った。


「冬真くんに会いに行ったの?」


 その言葉に静かに頷いた。

 気が付いたら行っていたけど、ただ指を食べて心配させてしまった気がする。

 私は日中外に出ない。正確にいうと初芽が家から出ている時、私は出ないと決めている。

 家から出ている【如月初芽はひとり】。

 あの日も深夜の街をぶらぶらしていて、あのお惣菜屋が目に入った。

 私は初芽と違って太りやすいので、甘いものを控えている。

 甘い物を食べるとすぐに太ってしまい、初芽と体形がかけ離れてしまうことを心配している。

 だから食べてないんだけど、たまにどうしようもなく食べたくなって……お店の外から見えたイチゴ大福とプリンを買った。

 すぐ横のコンビニの席でこっそり食べようと思ったら、ぶつかってしまったのだ。

 そして会ったのが偶然にも初芽と同じクラスの男の子、寺田冬真くんだった。

 苗字を呼ばれて心臓が飛び出してきそうなくらいドキドキした。

 怖い、怖い、怖い。

 泣きながら帰ってきて、初芽が学校にしていっているアプリから聞こえる音を泣きながら待った。


 寺田くんが変だと思っていませんように。

 深夜にあった私を初芽だと思ってくれてますように。

 バレたくない、バレたくない、ごめんなさい、ごめんなさい、出歩いてごめんなさい。

 祈って祈って祈った。

 

 実は私たちは、お互いの声が、いる場所が筒抜けになるアプリをスマホに入れている。

 私が話したことは初芽に筒抜けだし、初芽が学校でどういう風に過ごしているか、すべて聞こえてくる。

 これは私たちが望んでしていること。

 初芽は女優の仕事をしている私のことを知りたがったし(会った人を記憶したいらしい)私はただ……初芽が学校で生活している音を聞きたかった。

 私には出来ないことだから。毎日家で初芽の生活を聞いて暮らしている。

 初芽の先生の声、初芽が学校で役員をしてること、初芽の友達もみんな知ってる。

 だから初芽が「とりあえず朝イチで寺田くんに話しかけてみるね」と言っていたのを待っていた。

 そこから聞こえてきたのは、驚くべき言葉だった。




「目が、違ったから。すごく深い、夜の目。目の奥が、違ったから」




 言葉のひとつひとつが突き刺さってスマホを握ったまま崩れ落ちた。

 一瞬だった。

 私は一瞬しか寺田くんの前に居なかった。

 それなのに寺田くんは、私を初芽だと思わず、別の人間だと認識した。


 気が付かれたくない、初芽だと思ってくれますように、そう祈っていたのは、嘘だったと気が付いた。


 ずっとずっと思い込んでいたのは自分自身だったと、やっと本当の意味で分かった。

 先生に何度言われても、両親に言われても、納得できなかったのに、簡単に一瞬で。

 長く降り積もっていた雪が、ほわりと風に揺れるように、やっと自分の心を見た。



 私は誰かに、私だと認識してほしかったんだ。



 誰かに見つけられて、私だけを見てほしかったんだ。



 初芽は私の手を優しく撫でた。

「ねえ、ずっと言ってるよね。和歌乃は全部自分に嘘ついて生きてるって。何度いっても信じないし、もうダメだこりゃと思ってたけど、違うんだよ」

「……びっくりしたの。ずっと仕事してる人たちも私に気が付かないのに、どうしてって」

「カレ、超絶苦労人みたいよ」

「どんな風に……」

「自分で聞きなよ! 話したくて行ったのに爪噛んで帰ってきただけじゃん! 明日バンドエイドしなきゃいけないのよ、面倒だな!」


 初芽にズバリと言われて俯いた。

 本当にその通りなのだ。でも……惣菜屋さんで寺田くんの前の立っているのは、私じゃなくて初芽だ。

 でもどこか、一瞬でも、私を私として認識してくれた人。

 それだけで会いたくて仕方がない。

 だから初芽に「もうやめてよーー」と言われても行ってしまったのだ。

 初芽は私の横に座ってギュッと抱きしめてくれた。


「行きなよ、会いたいんでしょ? ちゃんとスマホ持って行って、何あったかも、何買ったかも、ちゃんと教えてよ? それに、甘い物はせめてひとつにして! ふたつも買ったなんて冬真くんに言われるまで知らなかったよ。太るよ!」

「……うん」

「どれくらいバイトに入ってるのかとか、明日聞いてくるね。和歌乃がそんな風に人と関わりたいって思ってくれて私は嬉しいの。本当にちゃんとしてほしいんだよ、和歌乃は才能あるんだから! もういい加減にしてほしい、私の気持ちも分かってよ」

「……ん」


 これはどうしても何回言われてもどうしても飲み込めない。

 でも認知されたくないと思っていた自分の心の声が嘘だと知った今、この気持ちも嘘なのかも知れない。

 長く自分の中にナイフのような言葉を集めすぎて、どれが本音なのか嘘なのか、何もわからない。

 寺田くんに言われた言葉を何度も何度も思い出す。

 目が、違ったから。すごく深い、夜の目。目の奥が、違ったから。

 そう、違うの。私はそれが嬉しかった。


「……はなして、みたい」

「お! いいじゃん、よっしゃ明日確認してみるね、お姉ちゃんにおまかせあれだよ!」


 初芽は私をギュッと抱きしめてくれた。

 信じたい、やっと見つけた私の気持ちを。

 初芽は少し顔を離して、まっすぐに私を見た。


「それでね、お願いがあるの。お姉ちゃん、ずっとこれを和歌乃にお願いしたかったの」

「……何?」


 初芽の目が……インフルエンザの時に私に代役を頼んだ時と同じように強くて、迷いがなくて、私は親指の爪を噛んだ。

 苦い血の、ぬるい味。

 

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