門屋の”洋食”物語

@takagi1950

第1話 門屋(もんや)

秀樹が生まれた1950年(昭和25年)は、朝鮮戦争の真っ最中で、ここから日本は右肩上がりの成長を経験することになる。大阪府堺市に回りの発展から取り残された一角があった。そこは戦災から逃れた地域で、周りの人々から差別されるかのように「門屋(もんや)」と呼ばれていた。因みに門屋は、江戸時代の隷属農民が、主家の屋敷地内の門小屋(長屋)に居住していたことに由来する。事実、秀樹が生まれた門屋は、小さな潜り戸から中に入ると、大家によって大切に守られた中庭があり、その回りを囲むように長屋が並んでいた。この門屋で、8所帯が息を潜め、肩を寄せ合い生活。各々六畳と四畳半の二間に二~三世代、それぞれ2~7人が暮らす。

住人は門によって回りの地域から隔離されている分、団結力が強く、一族の様に生活していた。貧しく助け合わないと生きて行けない環境が団結力を強めた。秀樹が生まれた1ヶ月後、秀樹の家から四軒隣に一人の小柄な女の子が誕生。名前を香織と名付けられた。


ご飯は土間のへつぃさん(かまど)で炊いて、家の前に七輪を出して、おかずの魚を焼きなべ料理などを作った。いい香りにつられて門屋の人々が集う。

「おっちゃんこれうまそうやな」

「そうか。ちょっと多いからもし良かったら2、3個持って行きや」

「ほんま。おおきに遠慮のうもらっとくは」

「こっちも余ったら困るから助かるは。またこっちが、もらうこともあるしな」

このように門屋の仲間で分け合った。こんなことが、秀樹が中学に入るまでは自然に出来ていた。食事は、丸いちゃぶ台で食べ、折りたたむことが出来るので、寝る時にはたたんで広くして布団を敷いて寝る。

秀樹が小学2年生の時に水道が引かれるまでは、大家さんが管理する共同井戸に水を汲みに行った。それを持って帰り、水甕に入れ蓋をして保管し、必要な時に柄杓で掬って使う。水道が来た時は、『これで水汲みから解放される』と嬉しかった。水道口から水が流れた時は感動。トイレは共同便所が3カ所、家の外にあって各所帯が決められたものを使う。冬場は寒さで震え、雨の時は移動に傘が必要だった。

門屋の人々には、貧しさを強さに変えて生き抜き、将来は幸せな人生を送りたいとの思いが充満していた。子供の誕生、結婚、就職など数少ない喜びを皆で祝福し、金が無いことによる多くの悲しみや不幸を分かち合う精神があった。


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