刹那、頭を殴られたような衝撃が走った。

 .......そうか。これが、茜の云っていた張りぼての自我だ。

 今、初めてそれを正しく理解した。

 この紫依那は生前の紫依那とは全く別物なのだ。目の前の少女ですらただの傀儡。蒼の願いのためだけに、死んだ娘の身体を器にして生まれた別の何か。

 蒼の夢見た幻想の慣れの果て。

 本来の紫依那はとっくに死んでいて、矢張り人が生き返ることなど出来なかったのだ。

 蒼の願いは紫依那が健やかにあることだけ。それを演じるだけの傀儡が、目の前の少女だ。

 初めから、紫依那なんてどこにもいなかったのだ。


 あやめは、酷く脱力するのを感じた。れに怒っても無駄なのだ。

 偽物の心しかもたない人形に説教など、虚しいだけだ。

 どくどくと肩口から血が流れていく。その痛みも熱さも、今はすべてが遠い。


 ―――なんて虚しいことだろう。


 蒼が禁忌を犯してまで手に入れた願いは、張りぼての虚像。その虚像のために、今までどれだけの命が失われたことか。

 仰臥ぎょうがしたまま、雨を降らせる夜空を見ていた。自身を組み敷いている傀儡のことなど、最早目に入らなかった。

 だって、死んでしまったのだ。人が、たくさん。

 あえてずっと望洋とさせて深く考えてこなかった、その事実が今になって胸に迫る。

 村の娘たちも、若葉雫も、桐麻も―――。

 彼女たちの畢生ひっせいは、桜のように短く散って、誰も彼も憐れなままだ。

 茜も蒼も紫依那でさえも、報われない。

 

 そうして散っていったみんなの無念は、永遠に晴れないのだろう。

 黒雲はそのまま、あやめの沈んだ気持ちを映しているようだった。視界の端に入った藤の木が忌々しい。

 このまま紫依那に食われて死んで、それで自分も虚像の糧となる。

 もういいか、それで。

 絶望的な虚しさは、全てを放棄するのに十分だった。仮に生きて戻れたとしても、たくさんの少女たちが死んだこの地で、自分一人救われることへの罪悪感に耐えられそうにない。 この先の人生を、前を向いて生きていけそうにない。


「あやめさん」


 はっと目を見開いた。紫依那の口から発されたその声は、しかし紫依那のものではなかった。


「......あなた、誰?」


 あやめは紫依那を仰ぎ見て問いかける。少女の顔は先ほどのような幼い表情をしていない。ただじっと、真剣な顔であやめを見据えている。


「負けないで」


「頑張って」


「この呪いの連鎖を」


どうか断ち切ってください。


 一言一言は、全て別人の声に聞こえた。どれもまだ年若い少女の声で―――少女?


「貴女なら出来るわ」


「私たちに出来なかったこと」


「この器を破壊して」


「元の世界に帰るの」


 ―――まさか。

 あやめはずっと視界の端に映っていた藤の木を見た。

 

 『千年藤は願いを叶える』

 

 では、誰の願いに答えたのか。

 紫依那の糧になって散った、少女たちの魂。

 ずっとここに居たのか。ずっとそこで、あやめを見ていたのか。

 再び紫依那が――否、紫依那の中にいる誰かが口を開いた。


「あやめさん、向こうに行ったら、伝えてくれる? 棗ちゃんによろしくって」


「待って、貴女........」


 棗のことを知っている、この少女は。


「あやめさん」


 あやめは紫依那の方に伸ばした手を止めた。聞き覚えのある声だった。


「桐麻....?」


「あやめさん、聞いてください。私たちの願いは一つ。この傀儡を壊して、私たちをここから開放してほしいんです。お願い、どうか」

 

 私たちを助けて。


 あやめは震える声で首をふった。


「でも.....どうやって」


「ああもう時間がない。伝えたいことがたくさんあるのに。あやめさん、この人の帯の下に」


 そこで、桐麻の声が途切れた。


「桐麻?」


 呼びかけても返答はない。しかし、次の瞬間、紫依那の両腕があやめの首を捉えた。


「っつ.....」


 きりきりと首を絞めつけられる。娘たちの意識が消えたのだ。戻って来た傀儡の意志で、あやめを殺そうとしている。


 あやめは膝で紫依那の腹を蹴った。大した力は入らなかったが、腕が緩んだ一瞬の隙を狙って、少女の腰に体当たりする。


 「っったぁ」


 今更になって、肩が死ぬほど痛い。今すぐ意識を飛ばしてしまいたいほどに全身がボロボロであったが、あやめは勢いのままに紫依那の帯の下に手を突っ込んだ。

 なにか固いものが手に当たる。掴んだそれを抜き取ると同時に、身体を反転させた紫依那によって地面に投げ飛ばされる。背中から地面に落ちてうめき声をあげた。

 傀儡の力か、紫依那本来の力か、見かけによらず馬鹿力である。


「.......さては病弱とかも嘘だな」


 軽口が叩けるほどに余裕が戻って来たのか、はたまたこの状況でアドレナリンが出すぎてハイになっているのか分からないが、さっきまでの虚無感はすっかり霧消むしょうしていた。

 犠牲になった娘たちの願いを聞いた。

 あやめにもう、迷いはなかった。


 手に掴んだそれを持って、紫依那に突っ込んでいく。紫依那の身体を覆っていた黒い澱みが、あやめに覆いかぶさった。

 酷い腐臭と全身を炙られるような痛みに悲鳴をあげるも、鉛の海を掻きわけて進むように足だけは止めなかった。

 紫依那の胸に向かってそれを突き刺そうとした瞬間、よろめいて身体が傾く。


(まずい........)


 きっと、これが最後のチャンスなのに。


(力が.......入らない)


 絶望が頭をよぎったその時、突然伸びてきた紫依那の手に、腕を引かれた。


「え.......」


 強い力で引き寄せられ、あやめの腕は紫依那の胸に向かっていく。

 そして、持っていたそれが、少女の胸に突き刺さった。

 凝然とするあやめを他所に、刺さった凶器はずぶずぶと紫依那の胸に沈み込んでいく。

 泥に沈むように奥へ奥へと入っていくが、あやめは先ほどから全く力を入れていない。

 あやめの腕を掴んでいる紫依那が、そうさせているのだ。


「なんで.......」


 自らを刺すような真似を。


 あやめが呆然と顔を上げた時、少女の顔は微笑んでいた。

 ぼろぼろに割れた仮面のような顔だったが、その微笑みだけは何故か胸を締め付けられるほどに優しくて。

 花のような笑顔に、涙を浮かべた少女が、何事かを呟いた。

 刹那、視界が黒に染まる。

 微笑んでいた顔に亀裂が走り、硝子のように砕け散ったかと思ったら、どす黒い澱みがあふれ出てきた。顔だけでなく、全身からものすごい勢いで澱みが横溢おういつしている。

 黒い津波のようにあふれ出たそれに溺れそうになるところで、誰かが強い力であやめの腕を引いた。

 

 「掴まれ!!」


 「茜!!」


 あやめは茜に腕を引かれ、なんとか流れから抜け出た。茜の手を借りながら、

 一際大きな藤の木をよじ登る。

 その間にも、澱みは屋敷全体を覆い、なにもかもを飲み込んでいく。

 まるでこの世の終わりのような光景を、あやめはただ、千年藤の上から眺めていた。



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