きみたちの願いは

 あやめは走っていた。

 紫依那の身体から漏れ出る泥のような澱みに触れた足が、焼けつくように痛む。雨に濡れた身体はとうに冷え切り、向かい風も一層強く吹く中で、必死に逃げ回る事しかできない。


「茜.......! これ.....どうしよう!?」


 最早、屋敷の外に出ることなど叶わない。何故か庭に出てきた紫依那に見つかり、追いかけてくる彼女から必死に逃げまわる。

 幸い、紫依那の足はそこまで速くはない。が、振り向いたとき、彼女の悍ましい姿に怖気おぞけが走った。

 かろうじて着物は着ているものの、肩から羽織っている程度で、布の間からはその肢体が丸見えであった。だが、そこにあるのは艶めかしい女体にょたいなどではなく、まるで化け物のようにどろどろした身体。どす黒い澱みが寄って集まって、なんとか人型を模しているような状態である。その上に紫依那の小造こづくりの顔が乗っているのだが、その顔も白い頬のあちこちに亀裂が走り、その罅割れの間隙かんげきから血やら黒い液体やらが飛び出していて、かつての繊美せんびな少女の面影はどこにもない。

 開ききった眼球は血走り、目の焦点は定まらない。常軌を逸したその姿は、恐怖を優に超えて生理的な嫌悪すら覚える。

 加えて、この悪臭。

 茜の云うには、死と呪いの匂い。

 そこに藤の甘い香りが入り混じり、一息吸うだけで吐き気をもよおす。


 紫依那の澱みは身体から溢れ出し、あやめを搦めとろうと伸びてくる。あやめはなんとかそれを躱し、庭中を必死に駆け回っていた。

 山路たちがあやめを追いかけてこないのが唯一の救いだ。どうやらこの傀儡たちは本当に紫依那の『目』のようで、あやめに直接攻撃を仕掛けてくることは無いようだった。


「はぁっ、はぁ」


だが、いよいよ体力も限界に近づいてくる。そうずっと逃げ続けられるわけもない。


(茜.......!! どうしようほんと!?)


 茜に呼びかけたところで、当然返事はない。というか、彼が無事かも分からないのだ。今頃茜は蒼と丁々発止の最中かもしれない。あやめを助ける余裕はないだろう。

 そうだ。一旦、屋敷の中に入って紫依那を巻こう。そう思い、方向転換しようとした矢先、背後から飛びついてきた重みに身体が地面に沈んだ。

 

「紫依那.......!!」


「酷いじゃない、あやめ。私を置いてどこに逃げるの....」


「っう....」


 酷いにおいに顔をしかめる。のしかかってきた紫依那はあやめの首に腕を回し、そのまま肩に嚙みついた。


「あぁっっっ!!」


 あまりの痛みに目が白黒した。焼けつくように肩が熱い。次いで、血が肩口から染み出してくるのがわかった。


 まずい、このままじゃ殺される。

 以前とは勝手が違うのだ。魂が馴染み切った今、夢の中で命を落とせば現実でも死ぬと茜が云っていた。紫依那の狙いはあやめを食らうこと。あやめが食われれば、紫依那は生き永らえ、また次の犠牲者が出る。あやめはジタバタともがいて紫依那の腕を掴んだ。


「どいて! 離れてよ!」


「どうして? ずっと此処に居るって約束したのは嘘だったの?」


「先に嘘ついてたのはそっちでしょ!!」


 悍ましい外見に見合わず、声だけは無垢な少女のままだった。その事実がよりいっそう紫依那の狂気を際立たせており、更にあやめは怒りを覚えた。


「友達になりたいなんて嘘ばかり! 本当は自分の生贄にするために呼んだくせに! 薄倖面はっこうづらして同情を誘って.......私を留めておこうと必死だったんでしょ!」


 怒りに任せてあやめは叫んだ。

 この土壇場で、不思議と恐怖心よりも怒りが勝った。

 頭の中がカッと熱くなり、思いつくままに怒声を浴びせる。


「あの屋敷の下に、どれだけの娘たちが埋まってるの!? 知らないなんて言わせない。あんたがどんなに辛い生い立ちを送ってても、関係ない人巻き込んで、たくさん殺して........死骸の上でのうのうと笑って生きるなんて、許されると思っているの?」


 あやめは叫びながら痛みも忘れて思い切り紫依那の頬を叩いた。

 すると、紫依那の瞳が揺れた。


「だって........仕方ないじゃない。私じゃないもの。蒼が勝手にやったんだもの。私が望んだんじゃないもの。殺したのも、蒼が全部勝手に」


 おろおろと、瞳に涙を浮かべて、まるで迷子の子供のように言葉を紡いだ。

 明らかに様子が妙だった。いつかの聡明な彼女でも、悍ましい化け物でもない。まるで、稚気ちきの抜けない幼子おさなごのようだった。

 しかし、この言葉が、更にあやめを怒らせた。


「望もうが望まなかろうが、止めなかった時点で同罪よ! 蒼が自分の為にやっていると知っていて、黙ってそれを見ていた。従っていた。今更責任逃れなんて、許されるわけないでしょう!?」


「でも、私にはそれしか出来ないもの! 贄を食らうことしか許されていないんだもの! 蒼がそう望んだから......贄を食べて、健やかに穏やかに暮らすことを望んだから」


「........え」

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