茜は頭の揺らぎを振り払うようにした立ち上がり、蒼から距離を取った。

 両者とも一度距離を取って牽制し合う。切っ先と視線だけは常に相手に据えて、呼吸の音は雨に溶けるほどかすかであった。

 

「私は、永久に紫依那さまの傍にあると約束したのだ.....!!」


 蒼のその言葉に、茜は目を見開いた。


(そうだ、俺も........)


 あやめと約束をしたのだ。

 必ず生きて、あやめを無事に帰すと。

 

(ここまで来て、俺が迷ってどうする........!!)


 再び雷鳴が鳴り響くと共に、蒼が踏み込んで来た。

 初手で茜が切り裂いた片手と、蹴落とした腹のせいで既に動きが鈍い。

 蒼の太刀筋は完全に読み切っていた。しかし振り上げられた刀を弾き返そうとした刹那、急に何かに足を取られて世界が反転する。訳も分からぬ内に、顎下がっかを地面にしたたかに打ち付けた。蒼に足払いをかけられたのだと気が付いた時には、白刃はすぐそこまで迫っていていた。


「っつ.......!!」


 伏臥した状態で身体を捩じって転がし、なんとか斬撃を躱そうとするも、背中から腰にかけて鋭い痛みが走った。しかし、ここで止まっては敗北が見えている。

 茜は背中の傷に構わず肢体を転がし蒼の間合いから外れると、すぐさま立ち上がり跳躍して距離を詰めた。

 蒼が構えるよりも早く一気に距離を詰める。

 転瞬てんしゅんかんに太刀を振り上げ、肩から腰にかけて一閃いっせん

 刹那のうちに刃先を返して脇腹から肩先に向かい斬り上げた。


 ――燕返つばめがえし。


 「..........!?」

 

 驚いたのは、斬られた蒼よりも、斬った茜のほうだった。肉を裂く感覚にはほど遠い、幾重にも重ねた濡れ古紙かみを斬ったような不思議な触感を覚えた。


(もうとっくに、人の身体ではなくなっていたのか)

 

 禁忌を重ね、その身に何重にも呪いを受け、異形になり果ててなお、幼い頃の誓いを守るためだけに生きていたのか。

 自分ではもう、止まることが出来なかったのだろう。


「もっと早く、こうしてやるべきだったんだ..........」


 蒼はうめき声をあげて地に伏せた。背や腹、肩、口からも赤黒い血が零れ落ち、最早戦える力は残っていなかった。

 瀕死の蒼の傍に立ち、茜は兄を見下ろした。

 酷く醜い最後だと思った。

 死者の怨念から生まれた呪詛のせいで、蒼の身体はすでに腐っている。白粉おしろいでつくろっていた仮面も、藤の香もすべて剥がれ落ち、かつての秀麗しゅうれいな少年の面影は微塵もなく、おりどろをこねまわした木偶でくのようであった。

 これが、禁忌を犯した咎人とがびとの末路。

 

「........蒼」


「...............」


「俺は、紫依那さまを殺すよ。それが、俺の出来る唯一の償いで、お前たちにしてやれる最後の恩返しだと.........そう思うから」



 すると、潰れたような声が、帰って来た。


「最早.........なにも出来まい。私はこのまま地獄に堕ちて、これまで娘たちにしてきた所業の報いを受けるのだろう。........茜、お前にもずっと.......悪かった」


 茜は眉を潜めた。


「........紫依那さまも、禁忌に触れた。きっと蒼と同じ地獄ばしょにいくだろう。........近いうちに、俺も行く」

「私が.....私の我儘で勝手に紫依那さまを生き返らせたのだ。あの方の意志ではない。お前も、私の行いを見ていただけで、直接手を下していた訳ではない。地獄へは、私一人で逝く」


 もうほとんど生気のない目で、蒼が云った。


「......最後の我儘だ、茜。私が死んだ後、紫依那さまをしいたてまつれ。なるべく、苦しませぬように........そして、あの方の呪詛を禊祓みそぎはらってくれ。さすれば、紫依那さまは黄泉路よみじを渡って行けるかもしれない」


「それは.........紫依那さまと交わした約束に反してるだろ」


 蒼が地獄へ行けば、紫依那の傍にあるという約束は果たされない。


「私は.....初めから私の願いは、紫依那さまが健やかにあることだけ。......私と共にあることで不幸になるのなら.....紫依那さまとて離れたくなるだろう」


 ――御免ごめん、茜。


 ふっと自嘲するように笑い、蒼は目を閉じた。春時雨はるしぐれの水音が鮮明になる。


 死人ほとけになったのだと、茜には分かった。



 茜はすぐさま踵を返して部屋を後にする。

 一刻も早くあやめのもとへ向かわなければならなかった。

 駆け出しながら、蒼の最後の言葉を反芻した。


(本当にそうだろうか....)


 紫依那の約束の本懐は、蒼の意志とは違う方向を向いている気がした。 


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