三
翌日。
明朝に紫伊那は藤間へと旅立っていった。
誰もの思惑とは裏腹に、いつも通りの朗らかな顔つきで着飾って、屋敷を出発する紫依那を見て、茜は絶望を隠しきれなかった。
(なんでだ蒼!?)
疑念と非難を持って隣で見送りをする兄を見た。
蒼は、悄然としていた。全ての気力が失せたかのように、呆けた青白い顔で、紫伊那の乗った籠を見つめていた。
それを見た瞬間、茜は自分の考えが甘かったことを悟り、頭を抱えた。
(俺は、紫伊那さまの聡明さを見くびっていた)
紫依那は本来、誰かのために自分の腕でも足でもほいほいとあげてしまうような人間だ。己を犠牲にすることに躊躇がない。祖父や村人たちと立場が危うくなると知って、嫁入り前日に逃げ出すような娘ではない。
茜にもそれは分かっていた。
でも、蒼の言葉なら。
紫依那が蒼を想っていることも知っていた。好いた男からの言葉なら、紫伊那の頑なな心にも届くだろうと思ったのだ。揺れて、よろめいて、普通の娘のように恋に溺れてしまえばいい。ほんの一瞬でも揺らぎを見せれば、蒼は紫依那を攫って行けたはずだ。
しかし、紫伊那は揺れなかった。あくまで毅然と蒼に拒絶の旨を伝えたのだろう。
そして、蒼もまた、紫依那の覚悟を
蒼も昔は、こんな人間ではなかった。自分と茜以外の他人に迷惑をかけることに躊躇が無かった。誰かを慮ることなんて無かった。
蒼は紫依那を見て変わったのだ。彼女の聡明さが蒼にうつった。だから出来なかった。
(ああ、なんということだ)
この二人が、ほんの少しでも愚かであれば。
あるいは、己の愚かさを許せる人間であれば。
きっと、今頃――――
今思えば、この時既に蒼はおかしくなっていたのかもしれない。
紫依那が嫁いで半年ほど経った時、嫁ぎ先から文が届いた。
ぼろぼろの古紙に走り書きのような文字だったが、確かに紫伊那の筆致だった。
『タスケテ』
あまりにボロボロであったので、ちゃんと読めたのはその部分だけであったが、蒼は字面を見るや否や、すぐに屋敷を飛び出した。
そして、茜が追いついた時には既に全てが終わっていた。
朱に染まる壮麗な屋敷。当主を含め、その時屋敷に居た全てのものが蒼によって葬られていた。
蒼は修羅になっていた。壊れて、人ではなくなっていた。
そして、紫依那は文字通り化け物になっていた。
蒼の怨念、紫依那の無念、屋敷中の人間の死の気配、全てが混ざりあってこの土地は汚た。
そして、茜は迷った末に、蒼の味方についた。
許されないことをしている自覚はあった。罪のない人を殺し、紫依那への贄にする計画に加担している。こんなことをしても、本来の紫依那は取り戻せないし、きっと彼女も望んでいない。
それでも蒼のことを思うと、止められなかった。
そんな呪いにまみれた生活をしていたある日、一人の少女が屋敷に現れた。
奇怪な身なりから
この濁りきった空間では、あまりに眩しい澄んだ瞳に一瞬で魅入られた。刹那のうちに、少女の白い頬も、艶やかな黒髪も、華奢な体躯も全てがこれ以上なく好ましく感じられ、とっくに
(なんて綺麗な人なんだろう)
恋なんてどんなものが分からなかった。この先も、自分には一生縁が無いと思っていた。
でも、蒼が紫依那を純粋に慕っていた頃は、きっとこんな尊い気持ちだったのだろう。
―――相手の幸福を願うような。
「あぁ、.......」
どんなに願っても、この少女は手に入らないのだ。汚れ切った自分に、この娘は美しすぎる。
この娘を、紫依那の贄にしたくない。
せめて元の世界に戻してやらなければ。
身のうちを焼くような感情を抱え、茜は少女に短刀を突きつけ罵声をあびせた。
怯えた少女の顔を見て、苦しくなり、同時に酷く憎くもなった。
この叫びだしたいような自分の苦しみを、何も知らぬ娘が、愛おしくて、恨めしかった。
「ここは、お前のような下賤が来る場所ではない。今すぐに出ていけ。さもなければ斬るぞ」
茜の声に、少女は肩を震わせて一歩下がる。
(俺を恐れろ。もっと)
そんな目で見ないで欲しい。
(怯えろ)
嫌わないでくれ
(帰れ! 二度とここへ来てはいけない!)
行かないでくれ!!
次の瞬間、少女は姿を消し、茜はその場に崩れ落ちた。
きっと、あの娘はまた来てしまうだろう。蒼も紫依那も今まで通り娘を騙して、魂が馴染んだ頃に贄にするのだ。今の蒼を説得など出来るわけもない。
(どうするか.........)
茜が少女を追い返したことがばれれば、蒼は茜でも敵と見なすだろう。だから、迂闊には動けない。万が一にでもばれたら最後、蒼と戦うことになる。兄と紫依那を殺して少女を助けるか、兄たちの味方をして少女を見殺しにするか。
―――どうすればいい。
葛藤を抱えながら、半月を過ごした。今まで通り昼の屋敷を預かりながら、こっそりと夜も少女の様子を伺っていた。少女の名前は、あやめというらしい。紫依那の好きな花の一つだ。何の因果だ、とまたしても運命を呪った。
あやめは蒼たちの策略に気が付かず、これまでの娘たち同様に懐柔されていったようだった。蒼と親し気に話す横顔を見て、あやめが蒼を想っていることを悟り、また恨めしくなった。
そして、茜は決意を固めた。
これ以上、こちらに来れば、魂が馴染んで戻れなくなってしまう。そうなる前に、あやめを向こうに返さなければならない。
茜は鬼になるつもりで、あやめを斬った。少女の肉を裂く感覚に吐き気がした。
きっと、あやめは自分を嫌っているだろうから、自分が何を云ったところで信じてはくれないだろう。恐怖心を最大限まで植え付けて、二度とこちらに関わらないように、あやめに決意させるつもりだった。
(それなのに、あの馬鹿)
あやめは再びこの屋敷に戻ってきた。
今は、茜にも引けない理由がある。
何をとしても、あやめを元の世界へ無事に帰さねばならないのだ。
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