桜の命が短いことを知っていた。


 首から落つる椿の残酷な最後も、刹那のうちに崩れる牡丹の散り際も、夜になると萎んで消える朝顔の脆さも、全て知っていたのに。


 花のような貴女の生末いくすえを、どうしてもっと気にかけてあげられなかったのだろうか。




「なりません。行ってはなりません!」


 ここ数日、家の中ではうんざりするほど同じ文言が飛び交っている。

 しかし、これほど切実な願いがこの世にあろうか、とも蒼は思った。

 誰もが、紫伊那が男のもとに嫁ぐことに反対していた。

 

「私が行かなくては、あなた達や村の人たちが酷い目にあわされてしまうわ」


 愁眉を寄せる主人に向かって、蒼も茜も、屋敷中の下男下女も口をそろえた。


「構うものですか!」


「そうですよ! 私たちはそんなにやわではないのです」


「紫伊那さまが犠牲になることはないのです」


 憤然とする使用人たちに、紫伊那はくすくすと笑った。


「あら、大袈裟ね。まるで人身御供のような云い方をするの」


「だって、こんなの贄そのものではありませんか」


「大事なお嬢さまを、あんな馬の骨の成り損ないになどくれてやるつもりはないのです!」


「まあ。わたくし馬は好きよ」


「紫伊那さま!」


とまあこんな調子で茶化されて、紫伊那は全く聞く耳を持とうとしない。

どういう訳か、最初は誰よりも猛反対していた彬文まで、いつの間にか紫依那に説き伏せられていて、紫伊那の藤間家への嫁入りはいよいよ明日に迫っていた。

その夜、蒼は茜に、なんとかして紫伊那の嫁入りを阻止できないかと相談した。


「このままでは、本当に嫁いでしまう。どうにかしてやめさせる方法はないか」


 すると、茜はどこか倦んだような顔をして、即座にこう云った。


「連れて逃げればいいだろ」


「え」


おまえがあの人連れて、遠いところに逃げればいい」


 茜の返答に、蒼は一瞬言葉を詰まらせた。


「しかし.....それをしたら、彬文さまや村の皆にも迷惑を」


 この村には、紫依那の他にも大事な人たちがたくさん居た。身寄りのない自分と茜を育ててくれた彬文や、村人たちは、蒼にとっても家族のようなものだ。

 しかし、茜は葛藤する蒼をどこか白々しい顔で見ていた。


「むしろ、願ったり叶ったりだろ。......まさか、お前本当に何も気が付いてないのか。彬文さまが大人しくなったのも、使用人たちが妙にそわそわしてるのも、皆、今宵お前が紫伊那さまを連れ出して逃げることに期待してるからだ」


「は........? 何故、私が」


 茜の話は完全に寝耳に水であった。しかし云われてみれば、確かに紫伊那の婚儀が迫るにつれて、屋敷の者たちから妙な期待をかけた視線を感じるような気がしていた。

 狼狽する兄を前に、茜は盛大に溜息をついた。


「慕ってるんだろ」


「は.....」


「無自覚か。まあ知ってたけど。でもまあいい機会だろう。ここまでお膳立てされて何もしないっていうのは、流石に男が廃るんじゃないのか」


「何を云うか。私はただ紫伊那さまがもっと相応しい男に嫁いでくだされば.....」


 そう、もっとまともで甲斐性のある男であれば。

 それならば。

 ――――本当に?

 胸の内側から、何かが歪んでいくような音がした。

 

(いつからだろう.....)


 あの人の背をただ見守るだけでは足りないと思っていたのは。

 出会った時からずっと、紫伊那は美しかった。

 蒼も茜も薄汚れた子供だった。この家に拾われた当初は、他人なんて信用ならないと云って、紫依那にも随分きつくあたった。

 それなのに、彼女は一度も自分たちを否定したことは無かった。まるで姉弟のように接し、気にかけ、傍にいてくれた。時には叱り、共に笑い、悩み、怒り、そんな相手が、茜以外に今生で出会えると思っていなかった。

 

 いつだったか、幼い日の記憶。紫依那が可愛がっていた猫が死に、遺体を荼毘に伏しているとき、紫伊那がぼそりと呟いた。


「どうして、みんな居なくなってしまうのかしらね」


 薄暮はくぼの静寂。ぱちぱちと粗朶の弾ける音。生き物の肉が焼ける匂い。

 まだ八つの紫依那の後ろ姿が、火の前で揺れていた。

 

「お母さまもお父様も居なくなってしまったのよ」


 蒼は今よりもずっと幼かった。紫伊那よりも背が低くて、頭が悪くて、それでも世知にだけは異様に長けた、奇妙な子供だった。

 大事なものを失くした女の子に、どんな言葉を掛けたら良いのか、分からないくらいには、子供だったのだ。


「誰に望まれなくても、生き物は死んでしまうの。どうしてかしら。私、この子には長生きして欲しかった。おじい様にも、蒼にも茜にも、村のみんなにも死んでほしくないの。誰も死んでほしくないの。誰かに死んでほしいなんて、思ったことないわ。だって、それってとても残酷じゃない。悲しいことばかりで、誰も喜ばない。何一つだって良いことないわ!」


 紫依那はそう云って、肩を震わせて泣き出した。後にも先にも、蒼が紫依那の涙を見たのはこの時だけだったと思う。


 紫伊那の云い分もまた、愚盲な子供そのものだった。箱入り娘の、恵まれた物差しで測った世の中は、彼女の基準から大きく歪んで見えたのだろう。身近な者の死というのが、紫伊那に唯一課せられた不幸だった。

 この時、蒼は紫伊那の嘆きを愚かだと思った。しかし、それ以上に彼女の涙を止めたいと思ったのだ。

 こんな感情は初めてだった。


「俺は、ずっと傍にいます」


 紫依那が振り返った。黒い瞳から、大粒の涙が零れる。

 顔を歪め、はくはくと口を動かしてから、紫依那は静かに云った。


「.....約束できるの」


 低い声だった。子供の口約束にしては、あまりにも緊迫していて、切実で、縋るような声だった。

 蒼は紫依那の傍に寄り、手をとって跪いた。


(――この先、自分がこうして膝を付くのは、この人にだけだ)


 揺れる紫依那の瞳を見上げて、なんて美しいのだろうと思った。


「約束します。永遠とわに、貴女のお傍に在ることを」



あの日以来、この約束について触れたことは互いに一度も無かった。

でも、そうか。

今こそ、この約束を果たすときなのかもしれない。


「茜、ごめん。後は頼めるか?」


 蒼の言葉に、弟はどこか楽しそうに笑った。


「明日が楽しみだな。奴さんひっくり返るぜ。『花嫁はかすみのごとく姿を消しました』って白々しく云ってやるさ」


 蒼は苦笑する。


「あまり煽るなよ。........本当に迷惑をかける」


「馬鹿。うまくやることだけ考えろ。お前たちなら、どこ行っても大丈夫だろ」


「ありがとう.......ありがとう茜。お前も、元気で」


 蒼は泣きながら弟の肩を抱きしめた。きっと今生の別れになる。生まれてから一度も離れたことのない片割れとの別離が胸に迫った。

 蒼にとって茜は唯一で最愛の弟だった。どんなに辛い時でも茜がいるからここまで生きてこれた。

 それは茜にとっても同じであった。

 茜にとって蒼は双子の片割れ以上に『兄』であった。なにかとあっては蒼は茜を守るために矢面に立ち、いつだって茜を庇った。自分の為に苦労をかけた兄になにか恩返し出来るとしたら、今しかない。

 男の手の届かぬ場所で、紫伊那と共に幸せになって欲しい。

 そうして時が過ぎて、二人の間に子供が出来て、その子が大きくなる頃に、またどこかで会えたら。

 そんな幸福な未来を夢見て、自分もこの先を生きていける。



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