糸雨しうが降っている。

  月光が、霞に反射して宵空に淡く溶けた。

  空き巣のように抜き足差し足で濡れ縁から外に飛び出したあやめは、破風はふの下で雨を避けながら、庭の様子を伺っていた。

 目はとっくに暗順応しているものの、悪天のせいで今までにない暗い庭園で、頼りになるのは行燈と灯篭の僅かなあかりと、申し訳程度の月明りのみ。故に行動も自然と慎重になった。


 松の木の影に隠れて、あやめは正面の薬医門やくいもんを睨みつけていた。

 門の前には、木の皮のような顔をした老婆が屹立していて、同様に裏口にも全く同じ姿形の老婆が立っていた。そして、後の一人は先ほどからぐるぐると庭の周辺を動き回っている。皆、それぞれ片手に灯篭を持っていたので、闇の中で良く目立つのが救いだった。



「厄介だな、あの三婆さんばば.........」


 茜曰く、山路、川路、天路の三人は人間ではないのだという。泥人形に魂が宿った蠱物まじものとかなんとか。


 ここにきて今更、そういう非科学的なものにいちいち突っ込むような野暮はしない。

 呪術だの妖だのとオカルトチックなことはよく分からないが、とにかく見つかったらまずいということだけは理解した。


 (さてどうしたものか)



 入口はあの正面の門と裏門二つしかないが、そこには既に山路と川路.......いや、あれは天路のほうか? まあ、どれかが既に見張っていて、抜け出せそうにない。周囲は二メートル近くある石壁で囲ってあり、なんとか頑張れば登れそうではあるが、多分登っている間に見つかってしまうだろう。中でも厄介なのは哨戒しょうかいしている天路(?)であった。確実にあやめを探しているのだ。


 聳立しょうりつする石壁に目を向ける。どこかの城の石垣のように、人工的に削った石を使っているわけではなさそうだ。自然な石を上手い具合に噛み合わせているようなので、あやめでも登れそうではある。


「.......よし」

 

 哨戒している天路が、あやめの視界の端に入った。自身の居場所が、山路、川路からは死角になっていることを確認してから、天路が背を向ける瞬間を狙い、手に取った小石を思い切り反対方向に投げた。投擲した石は、運よく四阿の屋根にぶつかり、音を立てて数回跳ねてから自重で地面に落ちた。

 その音に反応した天路が、くるりと振り返って、石が落ちた方へと歩いていく。

 

(今だ)


 警邏けいらが意識を一か所に向けている今がチャンスだ。あやめは木陰から飛び出し、石壁に向かって駆け出した。なんとか素早く壁を登り切って、屋敷の外に出ないといけない。出たら、村人に馬を出して西家に送ってもらえと茜に云われていた。


 石の隙間に手をかけて、思いっきり踏ん張って身体を持ち上げる。クライミングの経験なんてないので、とにかくがむしゃらに目についた石に足を乗せた。

 よし、この調子ならなんとか抜け出せそうだ。

 そう確信した刹那


 何かに足を取られて思いっきり身体が引っ張られた。そのまま背中から地面に強かに叩きつけられる。


「痛った........!!」


 一瞬、肺から空気が抜けて呼吸が苦しくなる。何が起こったか分からないままに、自分の足を見ると、泥のようなどす黒い何かが足全体を覆っていた。


「なにこれ........!?」


 どろどろとした、見たことのない物質だった。否、物質とは云ったものの、それはなにかの瘴気、概念.........まるで呪いが具象化したもののように見えた。

 あやめは一種の確信を持って、正面を見据える。

 あやめの前には、藤色の単衣ひとえを纏った、麗しい少女が立っていた。


「紫依那..........」


「酷いわ。あやめ、私との約束を破るのね」


 ずっと友達でいるって云ったじゃない。一緒に居るって云ったじゃない。

 この夜直よたたの地獄で、共に在ろうと。




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