「はあっはあっ」


 喉が焼けつくように痛いのは、ただの息切れだけではない。起こったことのあまりの残酷さに過呼吸になりかけたのを、必死に押さえた結果である。


 茜があやめを引っ張って来たのは、小さな客間の押し入れだった。壁を押すと、からくり扉のように回転し、地下へのきざはしが現れた。茜は廊下から持ってきた行燈を手にもってあやめを先導して降りていく。


「ここは?」


「地下に続く隠し通路だ。この屋敷には座敷牢の他にもこういう地下室がいくつかある。先代当主の残した負の遺産だ」


「負の遺産.......?」


「私刑のための拷問部屋だ。本当に悪趣味な男だよ」


 そう唾棄だきした茜の言葉に、あやめの背筋を嫌悪感が這った。


「ここは蒼も知らない筈だ。一先ず身を隠せる」


 階を全て下り、土塀で固められた小さな空間に出たところで茜は腰を降ろした。行燈を置き、二人分の空間を足元から照らす。

 この場所はかび臭いが、血の匂いよりも藤の匂いよりも、今は余程安心出来る。あやめは茜に習って隣に腰を下ろした。茜に対する不信感も嫌悪感も既に無かった。

 あやめが座ると同時に、茜が口を開いた。


「なんで俺を選んだ?」


「え」


「俺に散々な態度取られて、挙句の果てに斬られたっていうのに、なんであの時懐いてる蒼じゃなくて、俺の言葉を信じたんだ」

「それは.........」


 今、冷静になって考えてみれば、判断材料はいくらでもあった。あやめにはこの一か月弱の間、見て見ぬふりをしてきた違和感がある。

 だがあの時、パニック状態で恐慌に陥っていて、冷静さに激しく欠けた状態で、それでも茜を選べた理由は、一つだ。


「一番の理由は........匂いかな」


「匂い?」


 茜が怪訝そうに目を細める。その遠慮のない顔つきは蒼とは全く別物だった。今更ながら、どうして最初、目の前の少年と蒼を見間違えたのだろうと不思議になる。


「あの時、蒼の伸ばされた腕から藤の香りがしたの。この屋敷は藤の匂いに包まれていて....どこもかしこも甘い香りに溢れてた。そして、紫依那、蒼、山路さんたちからも同様に強い藤の香りがした。最初はみんな......というか今の今まで紫依那の趣味に合わせて香を焚きしめているんだと思ってたけど、蒼の腕を見たあの瞬間、もしかしたら私は大きな勘違いをしてたんじゃないかって」


「勘違い?」


「昔の貴族とかって、趣味とかお洒落とかの為じゃなくてエチケット....最低限の礼儀として自身の体臭を隠すために香を纏っていたって話を聞いたことがあった。だから、紫依那たちが執拗に香を纏っていたのは、なにか別の匂いを隠すためなんじゃないか、って思ったの」


思えば、紫依那はあやめと向かい合って長時間話すときは、必ず二回以上の着替えを挟んだ。あれは今考えると、身体についた何かの匂いがばれるのを警戒していたからではないだろうか。

それで、最初に茜に会ったときのことを思い出したのだ。隣の部屋に続く襖を開けようとしたとき、周囲よりも一段と濃い藤の香りに混じって、何かが腐ったような匂いがした。

肉が腐ったような.......生理的嫌悪を覚えるような悪臭。


「例えば、もしも........もしもあれが、人の肉の腐った匂いだとしたら」


 まだ、あやめが小学生の時のことだ。近所で孤独死をした老人の家から、凄まじい悪臭がしたのを覚えている。ハエやウジが無数に湧き、生ごみのような、饐えた匂いが周辺に蔓延していた。

 あの部屋の向こうからする匂いは、死臭によく似ている。

 そして、蒼も紫依那も山路たちも皆、死の匂いを藤の香で隠している。

 あの屋敷で死の匂いを纏っていなかったのは、茜と彬文、それから外から来た桐麻だけだった。

 だから、あやめは茜を選んだ。この屋敷で今、唯一死の気配を纏っていない茜の手を取ったのである。


 あやめの説明に、茜はまだ腑に落ちないような顔をしていた。


「それだけ? たったそれだけで俺を選んだのか? あの時、選択を間違えてたら君は死んでたんだぞ」


あやめは暫し逡巡した上で答える。


「さっきも云ったけど、私も気が動転してたし、なにがどうなってあんな状況になってたのかは今でも良く分かってない。…..でも、そうだな............紫依那も蒼もなんだか........嘘みたいに綺麗で。こう、なんというか現実離れした美しさがあるでしょう。それでいて、最初から不自然なほどに好感度が高かった。それこそ私にとって都合の良い、夢の登場人物みたいに。それはとても居心地が良かったけど、同時に得体の知らない空恐ろしさがあった」


こうして改めて口に出してみると、本当にその通りだと思った。

紫伊那は白百合。蒼は凪いだ湖面のような人だと思った。

微塵のけがれなく人格的な瑕疵もなく、完璧に美しい人々。

そんな彼らを尊敬し、愛しく思いながらも時折ザラつくような違和感を覚えていた。


―――まるで、人ではないみたい。


神や精霊のように人の手には届かない崇高ななにか。あるいは、人間の浅ましい理想を体現化した物の怪のようなうすら寒さ。狐に化かされているような、そんな薄気味悪さ。


「そんな人たちの中で、茜は唯一、地に足つけて生きている人のように思えたの。怖かったし、嫌な思いもさせられたけど、でも茜は私に近いと思った」


 だから、あなたを選んだ。

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