蒼に支えられながら、あやめは呆然と階段を上がった。蒼のほうも終始無言で、どこか申し訳なさそうに、居心地悪そうにしていた。


「あの、ごめんなさい。勝手に入っちゃって」


 あやめはとりあえず、地下室に無断で入ってしまったことを詫びた。しかし、蒼は首を横に振る。


「いえ。きちんと説明しておかなかった私が悪いのです。今まで、あの地下牢に気が付いた未来人さきびとは居なかったので........。私も油断して入口の管理が甘くなっていた。さぞ、恐ろしい思いをさせたことでしょう」


「いや、いえ........。あの、さっきの人って」


 聞いてもいいんだろうか、と思いつつも聞かずには居られなかった。


「そうですね....。あんなものをお見せして、不安にならないほうが無理でしょう。今後のことを考えてもきちんと説明をしておいたほうがいい。今頃、紫伊那さまはお部屋であやめさんのお越しを焦れてお待ちになっていると思いますが―――」


 と、そこで区切って、蒼は人差し指を口元に持ってきて、悪戯っぽく笑った。


「少し、私と歩きませんか」



 庭園に出てすぐに、思わぬものを目撃してしまい、あやめは固まった。

 戸口の傍に、老婆が立っている。先ほど見た、妖怪のような小さな老婆だ。

 そうだ、こいつのことをすっかり忘れていた。


 驚いて口をパクパクさせているあやめを見て、蒼が不思議そうにしていた。



(まさか、見えてない.......? 私にしか見えないとかないよね)


「いや、その人。そこに居るおばあさん」

 


あやめが老婆を指差して云うと、蒼はようやく合点がいったように、「ああ」と頷いて


「そういえば、彼女たちを紹介してませんでしたね」


「え?」


「彼女は天路あまじ。屋敷の使用人です」


「え、え、使用人........あーーなるほど」


 なんだ、妖怪じゃなかったのか。ほっとしたのも束の間、先ほど起こったことを思い出して、あやめはいやいやと首を振った。


「でも、その人瞬間移動して........あれ、それとも分身........? とっとにかく、私の行った先にまた居たの」

 自分でも何言ってるんだろうと思いつつ、しかし他に言いようがないので仕方ない。あやめが逃げた先に再び現れたのは事実だ。


 あやめの言葉に「しゅんかんいどう........?」とポカンと呟いていた蒼だったが、何を思ったのか急に「ふふっ」と噴き出して笑い出した。


「ふふふっ.......。あやめさんが見たのは、恐らく山路やまじ川路かわじでしょうね。彼女たちは、見た目そっくりの三つ子ですから」


「三つ子?」


 では、最初に見たのとあやめが逃げた先に居たのは、全く別人であったということか。

 そういえば、今落ち着いて思い出して見れば、着物の色が違ったような。


 あやめが一人で勝手に納得している間に、蒼の笑いはどんどん大きくなっていった。


「ふふふっ....ふはははっ」


「わ、笑いすぎだよ........」


 そんなに笑われると恥ずかしくなってくる。しかし、蒼はなにかのたかが外れたかのように腹を抱えて笑い続けた。

 そんなに面白いことだろうか……とあやめからしたら疑問であったが、蒼はツボにはまったのか、「分身......ふふっ」と呟いては笑い続けている。

 ひとしきり笑ったあとに、少年は「失礼しました........ふふっ」と言って、ようやくあやめを先導して庭の案内を始めた。


 今宵も月の美しい夜だった。この屋敷に来る時はいつだって夜であるが、現代の夜よりもずっと趣深い。人工灯がないので星や月が良く見える。

 濃紺の夜空に散らばる星屑は、あやめの知る星よりもずっと輝いて見えた。

 あやめは蒼の隣を歩きながら、改めて屋敷を観察していた。

 

 いつもあやめが目覚める母屋は、瓦葺きの重厚な木造住宅である。間口だけで十数メートルはありそうだが、奥行きも含めるとかなりの面積になるだろう。この母屋は数年前に紫伊那の夫であった前当主が建て直したもので、以前は別の建物を母屋として使っていたらしい。屋敷裏には馬小屋もあるとか。

 あやめと蒼は話をしながら藤の木が植えてある場所まで歩いてきた。


 蒼の説明によると、この更に奥に進めば旧母屋の杮葺き屋根の建物が出てくるそうだ。現在は人が住むようには使っておらず、建物内の襖や壁を全て取っ払って酒蔵にしているらしい。尤も、その酒蔵ですら人手不足により稼働していないという話であったが。


 あやめはどこか望洋とした気持ちで蒼の話を聞いていた。とても具体的で、ある種のリアリティすら感じる話であるのに、やはり自分がこの時代の人間ではないせいか、時代劇の設定を聞いているような気持ちになるのだ。


(時代劇版昼ドラの舞台になりそう........)


 当の本人たちの苦労を思えば、そんな呑気なことは言っていられないが、少しだけそんな風に思ってしまった自分を呵責かしゃくした。


 むせ返るような藤の香りがする。目の前でいくつもの藤が風に揺れ、月明りにライトアップされていた。



 「先ほどの老人は、紫伊那さまの実のおじいさまなのです」


 不意にそう云った蒼の言葉に、あやめは息をのんだ。

 紫伊那の実祖父........関わりがあるとは思っていたが、まさかそんなに近い関係だったとは。

 鬼のような形相で叫んでいた男の顔は、決して孫娘に向けるそれでは無かった。

 ましてや、『殺せ、殺せ』などと.......。


「なんで、牢に閉じ込められてたの」


「地下のあれは、座敷牢ざしきろうです。あやめさんたちの時代では、牢に入れるのは罪人だけでしょうが、私どもは、罪人でない人間も、ああして牢に閉じ込めることがあります。大きな屋敷などで見られることが多く........主には、私刑しけいのためだったり、身内の中でも気が狂った者......精神に異常を来たし、暴力をふるったりする者を閉じ込めます」


―――『私宅監置したくかんち』。

 明治から昭和中期までの日本では、合法的に人を監禁することが出来た。当時、精神異常者に対する治療に有効的なものはなく、私有地の一部に専用の部屋を設けてそこに軟禁、あるいは監禁をして患者と健常者の間に壁をつくった。もちろん、治療というのは建前で、実体は厄介払いのようなものである。多くの患者が劣悪な環境下で長い歳月監禁され続け、栄養失調の果てに亡くなった者も少なくなかった。

 1950年の精神衛生法によって私宅監置は禁止されたが、現代でもまだ似たようなことがあちこちで行われているという。以前、そんなニュースを見たことをあやめは思い出した。


「私と茜は、双子です。私たちの時代では、双子というだけで忌子いみごとして疎まれます。私と茜も親に捨てられ.....幼い頃から二人だけで力を合わせて生きてきました。盗みをしたり、脅したりして.....とても人には言えない、真っ当でない生き方をしてきました。泥水をすすって生きてきた私たちに手を差し伸べてくださったのが、彬文さまと紫伊那さまです。捨て犬のように汚い身なりの私たちに、新しい着物をくれ、暖かい食事と布団を用意して、家においてくださったのです」


 蒼は懐かしむように目を細めた。


「紫伊那さまはもともと、ここからずっと遠い――東方の小さな村の、村長のご息女でした。ご両親は既に他界されて、彬文さまと二人で暮らしておられでした。ですが、紫伊那さまのお母さまの血族は代々、特別な力を持っていらした。古い巫女のようなものです。邪気を払う力と、大地を潤す力。紫伊那さまもその力を受け継ぎ、小さいながらも、村は毎年十分な作物を収穫することができた。その数年はあちこちで大規模な飢饉が起きておりましたが、村は紫伊那さまのお陰で例年通り収穫を迎えることが出来たのです」


 蒼の言葉を聞きながら、あやめはひとつ引っかかりを覚えていた。


(飢饉――というと、やっぱり)

 

 あやめの様子に気が付かないまま、蒼は続ける。



「しかし、その噂を聞きつけた豪農の男が、紫伊那さまを娶りたいと申し出たのです。これには、私も茜も彬文さまも反対しました。その男はめかけをたくさん囲っていて、紫伊那さまよりずっと年上で、目先の逸楽いつらく耽溺たんできするような、横暴な男だったからです。しかし、男は権力と財力を盾に村に脅しや圧力をかけてきました。紫伊那さまはそれを憂い、自らの意志で嫁ぐことを決めた。それが、この藤間家とうまけです」


 やはり、この家は藤間家だったのだ。公民館で見た資料と年代を見て、なにか夢と関わりのある家なのだろうと思っていた。蒼の言う飢饉は、かの有名な天保の大飢饉のことだろう。歴史の授業でよく出てくる、『大塩平八郎おおしおへいはちろうらん』で覚えていた。


畢竟ひっきょう、紫伊那さまは遥々この藤間家に嫁いでこられた。私と蒼はそれについてきた次第です。間もなく、この近辺の村々でも流行り病が起こり、紫伊那さまの夫にあたる当主はお亡くなりになりました。村の人々や屋敷のものたちも病にかかり、亡くなったり、逃げるように村を出たりで――残ったのは私と茜と紫伊那さまと、天路、山路、川路のみです」


 このあたりは、最初に紫伊那に聞いた通りだ。

 いくら夫が亡くなったとはいえ、家督を妻が担うという話はあまり一般的ではないだろうと思っていた。大方、子供や他の親戚の者たちも含めて、みんな亡くなったか、あるいは逃げたか、という話だ。

 

「しかし、ご当主が亡くなってから少しして、彬文さまが遥々ここまで訪ねていらっしゃいました。私と茜と紫伊那さまが出迎えをしたのですが.......彬文さまは紫伊那さまを見るなり血相を変えて、紫伊那さまに襲い掛かったのです。あろうことか、持っていた脇差わきざしで紫伊那さまをしいそうとした」


 あやめはひゅっと喉を鳴らした。では、あの老人、紫伊那を本気で殺そうとしていたのだ。


「私と茜でそれを阻止しました。しかしその後も彬文さまはずっと隙さえあれば紫伊那さまに襲い掛かろうとして.....茜と話し合った結果、彬文さまを座敷牢に閉じ込めることに決めました。恩人を、あのような場所に閉じ込めることは、本当に.....本当に気が引けましたが.....致し方なかったのです。私たちには、他に方法が見つからなかった」


 蒼の横顔がその時の悲痛な心情を物語っていた。

 いかほどのものだろうか。大切で、大好きで、尊敬している人が、自分の大切な人を傷つけようとした様を見るのは。あやめが蒼の立場であっても、同じ選択をしただろう。


「でも....その、なんで彬文さんは急にそんな風に豹変したの?」


 あやめの問いに、蒼は首を横に振った。


「分からないのです。紫伊那さまがこちらに嫁いでからの彬文さまの様子を、私たちは知りません。ですが、一人暮らしのご老人が、突然おかしくなってしまった、という話は時々ありますから....もしや彬文さまもそうではないか、と」


「え、でも....嫁ぎ先まで来て孫を殺そうとするって.......そんなことあるかな」


「ええ、本当に尋常ではない。本当に.......なぜ、こんなことになってしまったのか」


 顔に手をやる蒼の顔は憔悴しているように見えた。あやめは余計なことを言ってしまったのかもしれないと謝る。しかし蒼は苦笑して「いいえ」と言った。


「私は大丈夫ですが、紫伊那さまはしばらくご憔悴しきった様子でした。もともと身体が弱かったのに加え、明るい場所を疎み、怯えるようになってしまった。一時は、本当にこのまま亡くなってしまうのでは――と思うほどに弱っていたのですが、ある日、屋敷にしずくさんが現れて....。彼女はとても明るくて、話し上手な方でした。紫伊那さまは雫さんとお話になるうちに元気を取り戻していったのです。それ以来、紫伊那さまの楽しみは、未来人さきびとの方々と交流をすることでした。未来人さきびとの皆さんの話はとても新鮮で、紫伊那さまにとっては刺激的で愉快なものでした」


 そうか、だから蒼はあの日、泣いていたのだ。

 初めて藤の木の下で見た時、涙を流していた美しい少年の横顔を思い出す。

 蒼は、次の未来人さきびとが来ないことを憂いていた。否、危惧していたと言ってもいい。未来人さきびとが来なくなれば、紫伊那はまた塞ぎこんでしまうかもしれないと思ったからだ。そうなれば、蒼は今生の恩人を二人とも失くしてしまうことになる。


「そっか.....だからあんなに私を歓迎してたんだ」


「あやめさんには、本当に感謝しています。来てくださって、紫伊那さまのご友人になることを承諾してくださって、本当に良かった」


 蒼が心の底からそう言っていることが分かって、嬉しいと同時に、少しだけチクリと胸が痛んだ。


「紫伊那さんが大事なんだね」


「ええ、何よりも」


「それは.....その、慕っている、ということ?」


 この言葉はどうやら、蒼にとって予想外のものだったらしい。目を瞬かせて少しの間あやめを凝視してから、微笑んだ。


「とんでもございません。奴僕ぬぼくの分際で主に懸想けそうなど、あってはならぬことです。紫伊那さまは恩人であり、守るべき主です。彬文さまがああなってしまう以前に、私は彬文さまと約束したのです。必ず、生涯をかけて紫伊那さまをお守りすると。紫伊那さまが健やかにあってくだされば、私にとってそれ以上の幸福はないのです」


 誠実でいて強く、揺るぎない瞳でそう語る少年は、やはりあやめの知る同年代の男の子たちと全然違う。教科書でしか知らない、古い――激動の時代に生きた人間しか持たない逞しさや、しなやかさがある。比較するだけ愚かなことであるが、自分との違いに愕然とさせられた。

 

 毅然と立っている。

 ただ心からそう思った。


 あやめは、彼に惹かれていることを自覚していた。



『フラグがもう立ってるはずだから、セオリー通りなら、この後あやめちゃんは夢の美少年と恋が始まるはずだよ』


 どうだろう、恵茉。あなたの言った通り、私の中では何か始まってしまったみたいだけど。どうあがいたってこれは不毛な感情でしょう。


 二百年前に生きた美しい人。あやめのいる現代ではとっくに死んでいるのだ。

 そうでなくても、彼は別の女性だけを一身に見つめている。

 

 例えそれが、恋情でなくても。


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