目を覚ますと、そこは見覚えのある和室であった。

以前、目覚めた場所だ。違うのは、畳の上に直接眠っていたのではなく、布団が敷かれていたということだ。もしかしたら、以前、あやめがこの部屋に現れたことを慮った誰かの采配なのかもしれない。ベッドの上に仰向けの状態で寝ていたので、そのままの体勢で目を覚ましたのだろう。


さて、この屋敷に来るのは2日ぶりである。あやめはゆっくりと上体を起こして立ち上がった。


前とは違って、不安はさほど無かった。とりあえず、害のある夢ではないと分かっているし、どうすれば良いのかも分かっているからだ。

紫伊那に会いに行けば良いだろう。しかし、屋敷は広く、一人でたどり着ける自信は薄い。蒼はどこにいるのだろうか。というか、他にこの屋敷には誰がいるのだろう。まさか三人だけというわけではあるまい。


あやめはとりあえず廊下に出ようと襖を開けて―――絶句した。


何か、居た。


最初、それは子供のように見えた。あやめの腰あたりまでの背丈しかない小さな子供。しかし、無造作に伸ばされた白い蓬髪ほうはつからわずかに覗く顔が、子供ではないことを伝えていた。

 落ち込んだ眼窩がんかに、不釣り合いなほど大きなギョロギョロとした目。まるで木の皮のようにしわしわで、乾燥しきった茶色い肌。煤けたような藍色の小袖を纏った、恐ろしく醜い―――まるで妖怪のような老婆がこちらを見上げている。


 ―――目が、あった。


「きゃああああ!」


 悲鳴とともにたたらを踏んで、その勢いで廊下に躍り出た。

 老婆からとにかく距離を取ろうとあやめは廊下を駆ける。ひんやりとした冷や汗が背筋を撫でて、その感触からも逃れたいと思いながら走った。


 嘘つき、嘘つき。紫伊那も蒼も騙していたのだ。やはり悪い夢じゃないか。

 あんな化け物が出るなんて聞いていない。


 無我夢中で走り、角を曲がったところであやめは再び悲鳴をあげた。後ろに置いてきたはずの老婆が、目の前に立っている。息切れをしているあやめとは対照的に、まるでずっとそこにいたかのように、老婆は根を張った木のように立っていた。

 冗談じゃないと思い、あやめは角を逆走した。そして、途中に納戸のような場所を見つけてそこに押し入る。

 扉を閉めて恐る恐る振り返った。ホラーの定番であったら、振り返った先にまた居る、という展開がお約束であるが、そんなことは無かった。戸口に耳をそば立てても、追って来ている様子はない。とりあえずは大丈夫だろう。

 

 納戸は狭く、連子窓のお陰で僅かに月明かりが入る程度である。ここから直接外に繋がってるらしい。ほのかな明かりを頼りに、あやめは納戸を見聞する。

 大きな木箱がたくさん積まれていた。この部屋からも僅かに藤の香りがしている。


 「痛っ」


 前に進もうとして、足に何かをぶつけた。その拍子に、壁に沿って置いてあった木箱がずれたようだ。


 「あれ、何これ」


 木箱が置いてあった場所には、小さな扉のようなものが現れた。長方形の蓋のような形であったが、かんぬきがかかっているところを見るに、戸口なのだろう。かんぬきは僅かな力でもあっさりと引き抜くことが出来た。戸口を開くと、どうやら狭いのは入り口だけらしく、向こう側には大人一人が悠々と通れるほどのスペースと地下に続くきざはしが現れた。


 あやめは暫しの逡巡の末に、階段を降りていくことにした。

現代の階段よりもずっと急で、おまけに真っ暗なこともあって、足場を確かめながら恐る恐る下っていく。しかし、十数段降りたところで、周囲が明るくなり出した。地下には部屋があるらしい。そこから明かりが漏れ出ているようだ。

 


 最後の段をおり、あやめは階下に到着した。足元には古びた行灯が置かれている。木造の屋敷であるが、地下の部屋は粘土のように固めて作られているようだ。

 地下室はじめじめしていてかび臭い。加えて、何かが腐ったかのような不快な匂いも漂っている。屋敷の中の香しい藤の匂いとは対照的であった。

 


「え.....」


 あやめは視界の正面に飛び込んできたものを見て、足を止める。


 薄暗い地下室の奥に現れたのは、牢屋だった。

 あやめの部屋ほどの殺風景な空間に、頑丈そうな木造の格子が降りて境界を作っている。

 その牢屋の奥に、大柄な老人が一人、胡坐をかいて腰を下ろしていた。

 ほの暗い室内に、老人の不健康そうな肌が行燈の火に揺れている。


 わずかに身じろぎをした男は、毛むくじゃらの白髭と白髪の隙間から、ぎょろりとした目を覗かせた。その目で、炯々けいけいとあやめを見ている。


「何者じゃあ」


 しゃがれているが、狭い空間には十分すぎるくらいよく響く胴間声どうまごえだった。


「え.....」


「村のものか」


「いや、あの」


「女.......? 娘か、お前は」


 あやめは一歩後ずさる。すると、男の方はばっと身を乗り出して来た。勢いでガンっと格子に手を叩きつけて、あやめを凝視している。


「女はいかん。女はいかんぞぉ.........」


 男は血走った目でそう繰り返した。ボロボロの着物に、風呂もろくに入っていないだろうその汚い身なりは、とても尋常な様子ではない。

牢に入っているという時点で薄々察していたが、罪人かなにかなのだろう。


「紫伊那はどこに居る」


 男の言葉に、あやめはハッとした。この男、紫伊那となにか関係があるのだ。


「まだ上にいるのか」


 探る様な視線があやめに突き刺さる。それを知って、紫伊那をどうするつもりなのか。

 沈黙するあやめを見て、男は目を細めた。


「いるのだな、まだ上に.....。許さん、許さんぞぉ、こんなことをして........」


 ぶつぶつと呻くように言ったかと思えば、次の瞬間にはカッと目を見開いて


「紫伊那を殺せえ――! 紫伊那を殺せ――! あれを生かしておいてなるものかーー!!」


と錯乱したように叫びだした。

その異様な光景を見て、あやめはいよいよ恐ろしくなった。先ほどからずっと、恐怖で手が震えているのだ。


 ふっと意識が遠くなりそうになった刹那――後ろからあやめの腰をぐっと引き寄せる手があった。


「良かった。どこにもいらっしゃらないので、探していたところです。まさか斯様な場所に迷い込まれているとは......」


 蒼の手は冷たかった。しかし、蒼から香る馴染のある藤の匂いが、あやめを徐々に落ち着かせてくれた。遠のきかけた意識もいつの間にか戻ってきている。


「蒼........お前、蒼だな。やはりまだ生きているか.....。お前、自分のしていることが分かっておるのか!!」


 怒鳴り声をあげる老人に向かって、蒼は険しい表情を向けている。


「私だって不本意ですよ....。恩人にこんな仕打ちはしたくなかった」


「ぬけぬけとまぁ.........ふざけおって!! 悪魔のような男よ! お前と紫伊那を引き合わせるべきでは無かった!! ........あの日.........あの雨の日に、お前を拾うべきでは無かった!」

 

 男の叫喚きょうかんに蒼は一瞬だけ酷く傷ついたような表情をした。しかしすぐにあやめの肩を抱いて、出口へと促す。


 まだなにかわめき続けている男に向かって、蒼は憐れむように一言だけ放った。



「昔のあなたは........そんなではなかった......彬文あきふみさま」


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