「いやぁ、終わった、終わった。やっと開放ーー」


 夕焼けを背に、恵茉とあやめは並んで歩いていた。展示準備は予定より一時間ほど押し、残業を余儀なくされたがなんとか終わり、明日から無事展示会が開催される予定である。


 大仰に伸びをした恵茉に、帰りになにか食べて帰ろうと誘われ、二人で最寄り駅にむかっていた。棗は用事があると言って、公民館で別れた。

 

 「藤の香りがする」


 「え?」


  あやめの呟きに恵茉が振り返った。自分でも無意識に言った言葉に驚く。どこかから藤の匂いがしたのだ。甘くてかぐわしい匂い。ここ数日ですっかり身近なものになっていた。


「うちにも藤が植えてあるから、藤の匂いがすぐ分かるようになっちゃって」


 庭の連理藤は、ちょうど今が見頃だ。

 花の実りが良く、壮観なので、恵茉たちにも見せてあげたいと思った。


「へえ......あやめちゃんちかぁ。今度行ってみたいな」


「おいでよ。空き部屋たくさんあるし、棗ちゃんも呼んでお泊り会しよう」


「えーーそれめっちゃ最高ー! やろやろ! お菓子いっぱい持ってくね」


 恵茉が笑うと、あやめも嬉しくなる。この頃は本当に、彼女と友達になれて良かったと思っていた。


「恵茉のおかげで、クラスにも馴染めたし、ほんと感謝してるよ」


 あやめが言うと、恵茉が照れくさそうに笑う。


「あやめちゃんと居ると、なんか居心地いいっていうか.....変なこと言うけど、あんま初めてあった気がしないんだよね」


「それは、なんかちょっと分かる」


「前世で会ってたりしてね」


 などと冗談を言い合いながら歩いていると、ふとあげた視線の先に、何やら見覚えのある少年が立っている。


 いつかと違って私服だったが、アイスをおごった男の子だった。

 春先の、冷たい風が吹き付ける時期だというのに、膝の出ているズボンを履いて、上は白いTシャツというラフな薄着である。


 小さな公園の前で、望洋と立ち止まっている少年の半身は夕日に浸かり、残照を秘めたように茜に染まっている。不思議とその何気ない姿が、とても絵になるように思えて、あやめはしばし言葉を失った。


 あやめの様子を怪訝に思った恵麻が、顔を覗き込んでくるも、その挙動には気が付かず、あやめは少年にかける言葉を探していた。


「きみ、」


 と言いかけて、そういえば名前も知らなかったと思い出す。

 言葉を止めたあやめに、少年は肩を揺らしながら愉快そうに振り返った。

 その何気ない動作で、少年があやめに気がついていたことを知る。気がついていてなお、こちらから声をかけるのを待っていたーーーーそんな気がした。


「ともだち?」


 視線の先に、あやめを捉えた少年の、開口一番がそれだった。

 また会ったね、偶然だね、なんて言葉を全て省いた少年の問いかけは、不思議なほどにすとんと頭に入ってくる。


「高校の友達」


 あやめも簡潔に答えた。それがふさわしいと思った。

 彼に感じていた様々な疑問を、この場で問いかけるのは、ひどく野暮なことだと感じた。


「そう。名前は?」


 少年は薄く弧を描いた唇で再びそう問う。その視線は恵麻の方を向いていて、あやめは口を閉じた。


たちばな恵麻えまです」


 恵麻が、半分呆けたような声でそう答えた。


「えま、エマ、恵麻……そう。仲良しなんだ、あやめと」


 口の中で恵麻の名前を転がした少年が、なんだか嬉しそうに笑った。


「え? うん。同じクラスで……」


「そう…そっか。同じクラス。それはいいね」


 何が良いのかはよく分からないが、少年は嬉しそうに見えた。


「―――良かったね。―――ま」


 最後のほうは、ほとんど聞き取れないくらいの掠れ声で言って、少年は去っていってしまった。

 

「うわあ、何あの子……あやめちゃん知り合い?」


 少年が立ち去り、しばしの沈黙の後、突然時間が動き出したかのように恵麻がつぶやいた。


「知り合いっていうか…まあ、うん。一回会っただけだけど」


 少なくとも、あやめの記憶の限りでは二回目の会合である。


「なあんか、随分雰囲気のある子だったねえ…。多分、歳下なんだろうけど、空気に呑まれちゃったよ」


 恵麻の言葉を聞きながら、ああ、やっぱりそうなんだな、とあやめは思った。

 初対面の時もそうだったが、あやめも少年の持つ独特の空気に呑まれて、彼のペースに持っていかれていた覚えがある。



「結構イケメンじゃなかった? 中学生?」

「え、どうだろう」


 パッと目を引くような華やかさこそないが、言われて見れば確かに整った顔をしていたような…。


(でもなんか)


 いつかも感じたが、春風のような子だなあ、と思った。

 野に遊び、花を散らし、種を運ぶ。

 小さな嵐のように、突然吹いて、髪を乱し、振り向く前にはその姿を消すような。

 去った後にはただ、甘い花の香の余韻を残して。



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