二
「いやぁ、終わった、終わった。やっと開放ーー」
夕焼けを背に、恵茉とあやめは並んで歩いていた。展示準備は予定より一時間ほど押し、残業を余儀なくされたがなんとか終わり、明日から無事展示会が開催される予定である。
大仰に伸びをした恵茉に、帰りになにか食べて帰ろうと誘われ、二人で最寄り駅にむかっていた。棗は用事があると言って、公民館で別れた。
「藤の香りがする」
「え?」
あやめの呟きに恵茉が振り返った。自分でも無意識に言った言葉に驚く。どこかから藤の匂いがしたのだ。甘くてかぐわしい匂い。ここ数日ですっかり身近なものになっていた。
「うちにも藤が植えてあるから、藤の匂いがすぐ分かるようになっちゃって」
庭の連理藤は、ちょうど今が見頃だ。
花の実りが良く、壮観なので、恵茉たちにも見せてあげたいと思った。
「へえ......あやめちゃんちかぁ。今度行ってみたいな」
「おいでよ。空き部屋たくさんあるし、棗ちゃんも呼んでお泊り会しよう」
「えーーそれめっちゃ最高ー! やろやろ! お菓子いっぱい持ってくね」
恵茉が笑うと、あやめも嬉しくなる。この頃は本当に、彼女と友達になれて良かったと思っていた。
「恵茉のおかげで、クラスにも馴染めたし、ほんと感謝してるよ」
あやめが言うと、恵茉が照れくさそうに笑う。
「あやめちゃんと居ると、なんか居心地いいっていうか.....変なこと言うけど、あんま初めてあった気がしないんだよね」
「それは、なんかちょっと分かる」
「前世で会ってたりしてね」
などと冗談を言い合いながら歩いていると、ふとあげた視線の先に、何やら見覚えのある少年が立っている。
いつかと違って私服だったが、アイスをおごった男の子だった。
春先の、冷たい風が吹き付ける時期だというのに、膝の出ているズボンを履いて、上は白いTシャツというラフな薄着である。
小さな公園の前で、望洋と立ち止まっている少年の半身は夕日に浸かり、残照を秘めたように茜に染まっている。不思議とその何気ない姿が、とても絵になるように思えて、あやめはしばし言葉を失った。
あやめの様子を怪訝に思った恵麻が、顔を覗き込んでくるも、その挙動には気が付かず、あやめは少年にかける言葉を探していた。
「きみ、」
と言いかけて、そういえば名前も知らなかったと思い出す。
言葉を止めたあやめに、少年は肩を揺らしながら愉快そうに振り返った。
その何気ない動作で、少年があやめに気がついていたことを知る。気がついていてなお、こちらから声をかけるのを待っていたーーーーそんな気がした。
「ともだち?」
視線の先に、あやめを捉えた少年の、開口一番がそれだった。
また会ったね、偶然だね、なんて言葉を全て省いた少年の問いかけは、不思議なほどにすとんと頭に入ってくる。
「高校の友達」
あやめも簡潔に答えた。それがふさわしいと思った。
彼に感じていた様々な疑問を、この場で問いかけるのは、ひどく野暮なことだと感じた。
「そう。名前は?」
少年は薄く弧を描いた唇で再びそう問う。その視線は恵麻の方を向いていて、あやめは口を閉じた。
「
恵麻が、半分呆けたような声でそう答えた。
「えま、エマ、恵麻……そう。仲良しなんだ、あやめと」
口の中で恵麻の名前を転がした少年が、なんだか嬉しそうに笑った。
「え? うん。同じクラスで……」
「そう…そっか。同じクラス。それはいいね」
何が良いのかはよく分からないが、少年は嬉しそうに見えた。
「―――良かったね。―――ま」
最後のほうは、ほとんど聞き取れないくらいの掠れ声で言って、少年は去っていってしまった。
「うわあ、何あの子……あやめちゃん知り合い?」
少年が立ち去り、しばしの沈黙の後、突然時間が動き出したかのように恵麻がつぶやいた。
「知り合いっていうか…まあ、うん。一回会っただけだけど」
少なくとも、あやめの記憶の限りでは二回目の会合である。
「なあんか、随分雰囲気のある子だったねえ…。多分、歳下なんだろうけど、空気に呑まれちゃったよ」
恵麻の言葉を聞きながら、ああ、やっぱりそうなんだな、とあやめは思った。
初対面の時もそうだったが、あやめも少年の持つ独特の空気に呑まれて、彼のペースに持っていかれていた覚えがある。
「結構イケメンじゃなかった? 中学生?」
「え、どうだろう」
パッと目を引くような華やかさこそないが、言われて見れば確かに整った顔をしていたような…。
(でもなんか)
いつかも感じたが、春風のような子だなあ、と思った。
野に遊び、花を散らし、種を運ぶ。
小さな嵐のように、突然吹いて、髪を乱し、振り向く前にはその姿を消すような。
去った後にはただ、甘い花の香の余韻を残して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます