四
「どうぞ、お入りになって」
襖の奥から聞こえたのは、高く澄んだ少女の声だった。蒼の様子から見るに、彼女が
「あぁ.......ああ、ようやくお会いできましたね」
少女は花が綻ぶような笑みを浮かべている。あやめは少女の余りの可憐な姿に、凝然と固まって動けなかった。
まるで、白百合のような娘だと思った。
いっそ病的なほどに白い肌は珠のように澄んでいて、黒曜の瞳と
「まあ。可愛らしい方。どうぞ、もっと近くにいらっしゃってください」
少女があやめに笑いかけると同時に、肩にかかっていた長い黒髪がさらりと落ちた。その仕草が、妙に艶っぽくて、対して少女の表情はやはり無垢な乙女そのものに見えて、そのアンバランスさや危うさも全てひっくるめて、あやめは美しいと感じた。
あやめが部屋に入ると同時に、襖が閉められた。蒼はどうやら入ってくる気はないようだった。
「
紫伊那と名乗った少女は、嬉しさを隠しきれないような様子で言った。
「あやめ。首藤あやめといいます」
「あやめさん? まあ、それ本当? 素敵ね! とても素敵。可愛くて綺麗で、貴女にぴったりのお名前。私、菖蒲の花がとても好きなんです」
紫伊那は本当に楽しそうだった。胸の前で両手を握って頬を上気させている。
「あやめさん、あなた、歳はおいくつ? 見たところ私とそう変わらないように見受けられますが。ご趣味は? ねえ、その服素敵ですね。私も来てみたいです、そういうの。そうだ、私の着物と交換してみませんか?」
「あの、それより」
「これが気に入らないなら奥にたくさんの着物があるわ。そうだ、いっそのこと誂えてもいいわね。まだ仕立てる前の反物がいくつかあったから……」
「あの!」
興奮して一気に捲し立てる紫伊那に痺れを切らしたあやめが、ついに大声を出した。驚いた様子で固まった紫伊那を見て、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、あやめは話し始めた。
「私、家で寝てたはずなんです。それなのに気がついたらこのお屋敷にいて。訳わからなくて、これでも結構パニックになってて……あの、ここはどこなんですか。あなたたちは誰? どうして私はここに来たんですか」
あやめが云うと、紫伊那は申し訳なさそうに柳眉を下げた。
「ごめんなさい。私ったら、自分のことばかりであやめさんのお気持ちも考えずに……。そうね、一からきちんと説明しましょう。まず、あやめさんは夢を見ている。その認識で間違いないわ。そして、あなたをここに呼んだのは私…ってことになるわね」
「どういうことですか。夢で私を呼んだ?」
あやめが怪訝に目を細めると、紫伊那は困ったように笑った。
「あなたをよんだのは、私の我儘なんです。お友達が欲しかった私の我儘……。驚かれるかもしれませんが、ここはあなたの生きている時代よりずっと昔の古い時代なんです。そして、あなたにとってこの世界は夢の中ですが、私にとっては
紫伊那の言葉をきちんと咀嚼するには数秒を要した。とても信じられないような話だったが、信じるしかないとも思えた。
古い日本家屋、広すぎる庭園、文明の利器が一切ない家の中には、小風な面持ちの和装をした男女。彼らは主従の関係だという。しかも、前の夢で少年は短刀を持っていた。あんなもの、時代劇くらいでしか見たことがない。博物館や収集家ならまだしも、その辺の少年が持てるものでは無かった。
まだ完全に信じたわけではないが、ひとまずあやめは紫伊那に続きを促した。少女の様子を見るに、まだ何か秘密がありそうである。
「この屋敷の主人は、もとは私の夫にあたる者でした。夫はこの周辺の地域の地主にあたり土地を治めておりましたが、一昨年、病に倒れ亡くなりました。代わって今は妻の私が屋敷の主を努めておりますが、夫を襲った流行病が村中に感染し、たくさんの人が亡くなり、あるいは村を出て行ってしまったのです。現在、村は人も活気も無く、以前より屋敷に仕えてくれていた者たちも次々に居なくなり……。私は寂しく思っておりました。それで、あの藤の木に願ったのです」
つまり、紫伊那はこの歳で既に未亡人というわけだ。この時代がどれほど古い時代なのかは定かではないが、着物が普段着な時代であれば明治以前までは遡れる。紫伊那は貴族でも武家の出でも無いようだが、大きな屋敷を持つ地主の妻という立場であれば、それなりの装いをするだろう。あやめの大雑把な知識だが、彼女の恰好からして中世以降、明治以前あたりではないかと推測した。
「藤の木って、あの庭にあったやつ?」
あやめが訊くと、紫伊那は頷いた。
「はい。とても長い時を生きている藤ですの。あの木々は神木なのです。私は藤に願いました。お友達が欲しいと。お話相手が欲しいと。蒼のように未だ私のもとに残ってくれる者はおりましたが、それでも
懐かしむように紫伊那は語った。
若葉雫という少女がやって来たのは二年前の冬だったそうだ。
雫は当時、あやめと同じで高校二年生の十七歳。彼女は二年前の十一月に現れて、翌年の四月頃までこの屋敷で紫伊那と交流をしていたらしい。活発で、明るくて人懐っこい少女だったようで、最初はこの世界に驚いていたが、すぐに順応し、紫伊那と良き友人関係を築いたのだという。雫は紫伊那に、現代の話や、学校の話などをよく教えてくれたらしい。紫伊那は雫に着物を作ってやったったり、和歌を教えたりして交流を楽しんだのだという。
「雫といた時間はとても楽しかった。私は心が満たされるのを感じました。
しかし、四月のある時期から、雫はぱったりと現れなくなったらしい。だが、少し時間が立つと、また別の人物がこの屋敷に現れ、その人が居なくなるとまた別の人.......というように、入れ替わり立ち替わり未来からやって来る人間と交流を重ねて来たそうだ。
「私たちは、
寂しそうに目を伏せて紫伊那は云った。
あやめは紫伊那の言葉を聞いて、点と点が繋がったような気がした。
やはり、キーはあの家だったのだ。恵茉の家にいた時、あやめは夢を見なかった。
つまり自宅で眠るときだけ、この屋敷の夢を見ることが出来るのだろう。母が近所の人間から聞いた話だと、あそこは『人が長く居つかない家』らしい。その理由は、森山とトラブルを起こすからだ。あの陰険な爺さんとトラブった前住人たちは、結果的に住みにくくなり、家を出て行った。若葉雫という少女も、他の者たちもみんな。
そうなると、考えられることは一つ。
「つまり、この時代と私の時代は、『場所』で繋がったっていうこと......? 私が今住んでいるあの家は、昔、この屋敷が建っていた場所ってこと? もしかして、あの家で眠った場所も時刻もそのままこの屋敷の時代に繋がってる?」
あやめが問うと、紫伊那は頷いた。
「左様でございます。この夢での逢瀬には、いくつか決まり事があるようなのです。この決まり事は、私が決めたわけではありません。初めから、そういう風になっていました」
紫伊那のいう『夢の決まり事』は、紫伊那たちとこれまでの住人で探り探り見つけてきたことだという。
以下に簡単に並べると、
一 あの家で寝たときのみ、屋敷と繋がることが出来る。然し、家で眠ったからと言って、必ず繋がるわけではない。繋がらない日もある。これは、家の住人にも紫依那にもコントロールは出来ない。神の気まぐれということ。
二 屋敷と繋がる頻度は、最初の頃は数日に一回であったが、段々と増え、次第に毎日になってくる。
三 夢の中で活動しているからといって、現実世界の生活に影響は起こらない。寝不足や体調不良にはならない。
四 屋敷で起こったことの記憶は、現実世界で目覚めてからも鮮明に覚えている。
五 屋敷で身体に影響を受けた場合でも、現実世界の身体にその感覚は引き継がれない。つまり、夢の中で怪我をしても現実の身体に傷は出来ないし、夢の中で何をどれほど食しても現実では太らない。
五 屋敷と繋がる際は、現実世界で眠った場所に現れる。要するに、あやめが先ほど目覚めたあの和室は、現代のあやめの部屋に該当する。以前リビングで眠ったときに、別の和室で目覚めたのはそのためだろう。
六 あやめの生きている時間と、この時代では同じ時が流れている。夜眠れば、夜の屋敷に現れるし、昼に眠れば昼の屋敷に現れる。しかし、昼の時間と繋がることはほとんど無いそうだ。
七 夢から自ら覚める方法は不明。いつも突然覚めるのだという。しかし、必ず一晩のうちに覚める。夢を見ている時間は最初は短いが、次第に長くなってくる。蒼が先ほど『時間が無い』と言っていたのはこのことだろう。あやめはまだこの屋敷に来て三度目。今回の逢瀬ではそんなに長くは居られないということだ。
上記七つの決まり事を聞いて、あやめは少しこのファンタジーな現象が現実味を帯びてきたように思えた。紫伊那の言っていることはこれまであやめの体験してきたことに当てはまっている。
「例えば、現実世界で誰かに起こされた場合とかは、どうなるんだろう」
「きっと、あやめさんは目を覚まして、向こうの世界に戻られるのだと思います。過去に何度か、そのようなこともありましたから」
紫依那の答えに、あやめは「へえ」と相槌を打ってから、新たな疑問を口にする。
「でも、同じ家で寝ているのに、私の両親とかは
「私たちが知る限りでは無いと思います。今までの未来人も、住人の中のお一人だけがこちらに居らしていました。きっと、私がお友達が欲しいと藤に願ったからでしょう。そのとき家に住んでいる人間の中で、私に最も歳が近い方がこちらに招かれるようです。雫も、私と同じ歳でした」
紫伊那はハキハキとそう答えた。
なるほど、ではあやめと紫依那は同い年ということになる。
「私、ここに来たのは覚えてる限りで三回目なんだけど、一回目はもっと実体のない......魂だけみたいな感覚でふわふわしてたように思うの。でも、そのときは確か部屋で寝たのに庭で目覚めたような.......。あと、そのとき多分.....蒼さん....蒼に会った」
あやめの呟きに、紫伊那は微笑んだ。
「蒼から聞いております。これまでここに来た皆も同じ体験をしておりました。そして、私たちもその姿を見ています。最初の頃はどうも、魂のような形でこちらに呼ばれるようです。そして、時を重ねるごとに段々と実体と鮮明な思考を得ていく....と。私たちはこのことを魂がこちらに馴染んでくる、と呼んでいるのですが。その時はきっとあやめさんの意志で動けなかったと思います。庭で目覚めたとお思いになったのは、ふわふわと漂いながら、少しずつ自我を得たからでしょう。恐らくあやめさんは、あやめさんが認識している一回目よりも以前に、こちらに来ていたことがあるはずです。今までの方々もそうでした。皆が認識している回数よりも多く、私や蒼は皆さんの魂が屋敷の中を漂っているのを見ておりましたから」
ではやはり、最初に来たときに蒼に『来てくださったんですね』と言われたのはあやめで間違いなかったのだ。しかし、ほっとすると同時に今度は別の疑問が持ち上がる。
「でも、あの....私、二回目に来た時、夕方に来たんだけど.........そのとき、蒼にいろいろ言われて、最後には帰れって睨みつけられたんだけど」
初対面と二回目、そして三回目の今回でころころと態度を変える蒼に翻弄されっぱなしだった。彼は一体なにを考えているのだろう。二重人格? タブスタ? そんな疑念が頭をよぎる。
しかし、紫伊那は驚いた顔をした。
「まさか、蒼が? そんな........いえ、待って。今、夕方と仰いましたね。.......それは、きっと、蒼ではなく
「
「蒼の双子の弟です。蒼、入っていらっしゃい」
「失礼します」
紫伊那が言うや否や、蒼が襖を開いてすぐに入ってきた。恐らくすぐ傍にずっといたのだろう。
「話は聞こえていましたね?」
「はい」
「あなた、あやめさんと会うのは何度目?」
「私の知る限りでは、最初に藤の下で会ったのが一度目。今回で二度目でございます」
「ではやはり茜ね。私たちは、夕方はまだ目覚めていないもの....」
紫伊伊那は病がちになってから、日の当たる日中に目覚めることが無くなったのだという。蒼も紫依那に合わせて、随分前に活動時間を昼から夜に切り替えたとか。代わりに、日中の屋敷を切り盛りしているのが、その
あやめが二度目の時に会ったのは、蒼ではなくて茜だったのだ。
「でも、茜がそんなこと言うなんて、妙だわ。滅多にないけれど、日中に繋がったときは、私たちの代わりに茜が
「その、茜さんは今どこに?」
「屋敷の中にいるわ。夜は眠っているけれど」
「私、なにか嫌われるようなことしたんですかね」
ぱっと見て気に入らない、と思われるならまだ分かるが、初対面であそこまで
紫伊那は心なしか青白い顔になって首を振った。
「そんな.....まさか。茜も普段は温厚で、とてもいい子なの。きっと機嫌でも悪かったのね。ごめんなさい。あやめさんに不快な思いをさせてしまって。私のほうから茜にしっかり云っておきます」
「あぁ、いえ別に.....そんな気にしてないので」
正直、あれが蒼とは別人であると分かっただけで安心していた。昼にしか現れないというならば、昼に眠らなければいい話だ。もともと昼に繋がることは滅多にないみたいだし、この先会うこともないだろう。
突然、紫伊那があやめの手を取った。切なる望みを託すように白魚のような指に力を込めてあやめを見る。
「どうか、お気を悪くなさらないでね、あやめさん。私、本当にあやめさんとお話がしたいだけなの。この屋敷と繋がっている間、あなたがあの家に留まっている間でいいわ。私とお友達で居て欲しいのです。他愛ないことで笑い合ったり、時間を共有して........それ以上のことは望みません。.......そうやって過ごして欲しいの。.........ダメかしら」
最後のほうは弱弱しい声だった。少女の切実な思いがあやめの胸を
この少女の言うことが、すべて本当だとして、彼女の境遇を思うと.........哀れだと思う。 身体が弱く、こんな若いときに嫁がされ、夫に置いていかれ、花の盛りの頃だというのに、夜の籠に囚われて不自由を余儀なくされている。友達が欲しいという健気な願いくらいは叶えてやりたいと思った。
現に、あやめ自身、この少女を既に気に入りつつある。これほど美しい娘は、現代の女優やアイドルにも早々居ない。哀れな境遇であっても、気丈に振舞おうとする少女の強さや、時折垣間見える茶目っ気や、優し気な物腰は誰の目にも好意的に映る。
「いいよ。もし本当に、あなたの言うことが全て本当で、私がまたここに来ることがあったら.......そのときはいろんな話をしよう」
紫伊那の顔がぱっと輝いた。しかし、次の瞬間にはその顔がぼやける。否、あやめの視界がぼやけているのだ。刹那、猛烈な眠気に襲われ―――あやめは意識を失った。
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