三
目を覚ますと、そこは知らない和室だった。あやめはゆっくりと上体を起こす。
もう三度目のことなので、すぐに状況を把握した。夢の中だ。またあの屋敷に来てしまった。畳の香ばしい匂いに混じって、やはり藤の甘い香りがする。
朧げな思考はゆっくりと冴えていった。身体があった。五感もある。手足の感覚もある。しかしやはり少しだけ身体が軽く、ふわふわした心地であった。
部屋は以前目覚めた場所よりもやや広いが、飾り気は薄い印象だった。正面の違い棚に、仏のような小さな木造が置かれてる程度で、あとは机も掛け軸も花もない。
しかし
正確な時刻は分からないが、夜であることは明白だった。あやめは再び障子を開いて濡れ縁に出る。
見覚えのある庭園は宵闇に沈み、今ばかりは月も雲に紛れて遠く霞んでいる。
いつかと変わらず庭にはしめやかな風が吹いていて、葉擦れの音と、わずかに流れる川の水音だけが、静寂の空気を揺らしている。
遠くのほうで小さく、
だとしたら、人がいるのだ。
人........思いつくのは、やはりあの少年だった。会いたくはないが、果たしてずっとここに居てもいいものなのだろうか。
そもそもこの夢はどういうものなのだろう。悪夢のような恐ろしい思いはしたことがないが、良い夢なのかと問われるとそれも否である。
連続で同じ夢を見るということは、なにか意味があるのだ、と誰かが昔言っていた気がする。オカルトじみたものを信じたことはないが、現状、自分が世間の常識の尺度では図れないような事態にあっていることは確かであった。
少年はここから出ていけ、と言っていたが、それは夢から出ていけ、と言っていたのかこの屋敷から出ていけ、と言っていたのか、どっちの意味なんだろう。もし前者であれば、少年はあやめの夢の登場人物であることを自覚しているという意味になる。後者であれば、あやめは夢を介してよそ様の家に不法侵入していることになる.......これってまずいのでは。
不法侵入した人間に対して、嫌悪や侮蔑の視線を送って来るのは当然であろう。冷静なつもりであったが、あやめはここで初めて自分のことを客観的に見れたことを悟った。しかし、それでもやはり、あの憎悪の感情の理由は分からない。それに、なぜ一番最初に会ったときに、『来てくださったんですね』なんて声をかけられたのだろう。そこにあったのは紛れもない好意であり、歓迎の意であり、間違っても侮蔑や憎悪なんてものでは無かったはずだ。なぜ、彼はあんなにも態度を変えたのか―――。
(いや待てよ。そもそも最初に会ったときはやっぱり私の姿は見えてなくて、後ろにいる誰かに声をかけた可能性も......)
考え始めたら、そっちの説のほうが遥かに現実味を帯びてきて、恥ずかしくなる。悶えるように頭を抱えたその時、後ろのほうでふわりと藤の香が香った。
「良かった。ようやく貴女に会えた」
凪いだ
振り返ると、そこには少年がいた。最初に藤の下で出会ったときのように、嬉しそうな顔を浮かべている。行燈の灯りで照らされた頬は陶器のように滑らかで、黒水晶のごとく透き通った瞳には、隠しきれない安堵と喜色が見て取れた。
一目見て分かったのは、目の前の少年があやめに全く負の感情を持っていないことだ。それどころか、あやめを見て心底嬉しそうにしている。
少年は固まっているあやめの手をとり、恭しく瞳を伏せて言った。
「ずっとお探ししておりました。こちらに来ていらっしゃるのは分かっていたのですが、なかなかお姿が見つからず.....お迎えに上がるのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
少年は大袈裟なほどに
「
少年はあやめの腰に手をやり、あやめが歩くのを促した。あやめは戸惑いながらも言われた通りに廊下を歩き出した。
「あの、ここはどこですか? あなたは...誰?」
あやめの問いに、少年はハッとしたように息をのみ、またも申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません。お会いできたことに安堵してつい....なにも説明なく驚かれましたよね。私の名は
「主.....? どうして貴方の主が私に会いたがるの? ていうか、ここは私の夢の世界だよね。待って、なにがどうなって....」
もう全てに混乱していた。少年の態度も主という言葉も、なにもかもが想像の上を行っていて理解が追いつかない。
蒼の名乗った少年はあやめを安心させるように笑った。
「混乱するのも無理はありません。ですが、大丈夫です。全て順を追って説明いたします。今宵は多分、そのくらいの猶予はあると思うので.....。あの、失礼ですが、貴女様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「...........あ、あやめ。
「あやめさん.........あやめというのは、やはり花の
少年の問いに、あやめは頷いた。
「父が....その名に相応しい女性になるようにって。まぁ、名前負けですけど」
語末に自虐を入れてしまうのは現代病かもしれない。それでも『いずれもあやめかかきつばた』という言葉に従って、美しい女性像をそのままあやめという言葉に結びつけてしまった父の浅慮は恨めしい。
「とんでもない。この庭でも、毎年初夏には池の辺りにたくさんの菖蒲が咲きます。愛らしくも気品がある....とても美しい花です。貴女によく似合っている」
あやめは体温が上がっていくのを感じた。拝みたくなるほどの美少年にとてもありがたいことを言われているのに、野暮ったい部屋着であることが情けなくなった。
「庭では
蒼に笑いかけられて、あやめは今度こそ心臓が跳ねるような心地がした。と、同時に自身のミーハー心を
廊下は長く、細く、どこまでも続いてるように思えた。二人分の足音と、板が軋む音がやけに大きく響いている。廊下の端には行灯がずっと一定の間隔で置いてあった。行灯のお陰で足元が照らされて有難いが、こんな面倒なことをするなら、蛍光灯を設置すればいいのに、と思った。
「ねえ、あの、蒼さん」
「蒼で構いません。あやめさん」
「ええと……この庭を作った人は、紫色が好きなの?」
云った刹那から、自分でもなぜこんなことを聞いたのだろうと思った。他に問いたいことは山ほどあったはずなのに、あやめの口から出て来たのはあまりに当たり障りのない問いである。
しかし蒼は嬉しそうに笑った。
「藤をご覧になりましたか。見事なものでしょう。あやめさんのおっしゃる通り、この屋敷の
「へえ、そうなんですね」
「よろしければ、今度また改めて庭をご案内いたします。今宵はそれほどの時間はないと思うので…」
「は、はあ」
時間がないとはどういうことだろうか。それを問おうとした時だ。蒼が立ち止まった。
一際大きな四枚の襖に、壮麗な藤の木が堂々とした姿で描かれている。木の色は青白いが、その分、花の紫が良く映えていた。余白の部分には全て金箔が貼られ、贅の限りを尽くしたような
(本当にお金持ちなんだな.....)
「失礼いたします。
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