夢の住人
一
貴女があまり優しい人でなければいいのに。
聡明でなくとも、賢くなくとも、気高くなくとも、お慕いし続けたでしょう。
御身の優しさに救われた身でありながら、かようなことを申し上げるのは、誠に自分勝手なことだと承知しております。
それでも、こんなことになった今、どうしても考えてしまう。
貴女が自分勝手で、我儘で、自愛しかない人であったならば、こんな不幸は起こらなかった。
貴女を失った私の、この身を焼くような苦しみと怒りは、一体、どこへ行けばいいのでしょうか―――。
「よいしょっと。これで全部かな」
五十枚近くある画用紙の束を机の上に置いてから、あやめはふぅ、と溜息をついた。
隣で画用紙の整理をしていた
放課後の美術室だ。美術部員である恵茉と、同じクラスの
九つある美術室の大きな机のうち、三つは展示予定の絵に占領されていた。いずれもこの近辺の小中学生の描いた作品の中から、市の選定で優秀作品として厳選されたものばかりである。あやめは地域と学年ごとに絵を選別する雑用を担い、恵茉と棗はキャプション(題名や名前が記載された小さなボード)の作成をしていた。
「大変だね、これ。毎年やってるの?」
あやめが問うと、棗が苦笑して答えた。
「いや、ほんとはね、このへんの三つくらいの高校とか、PTAとかで分担してやる作業なんだけど、うちの前任のアホ顧問が『うちの部の生徒にやらせますよ』とか口走ったらしくて、四年前から毎年、な、ぜ、か、うちの学校の美術部員がやらなきゃいけない作業になってるんだよね」
棗は美術部員だが、パッと見はボーイッシュなスポーツ少女という風体をしている。現に、中学までは陸上部に所属していたらしく、サッパリとした性格が同性の目に好ましくて、女子人気が高い。現に、そのへんの男子よりイケメンだった。
「で、地域整理とキャプション作りは二年の担当。一年はチラシとかポスター作り、三年は展示室の準備っていう振り分けなんだけど。今年は二年が四人しかいないし、残りのアホ男子二人はサボって消えるし、届いた作品が例年より量多いし.....もう大変。あやめちゃん手伝ってくれて助かったよ。私たちだけなら死んでたかも」
そう言う恵茉の顔は引きつっている。ほんとうにうんざりしているようだった。
あやめは、「お疲れ」と言いながら恵茉の手元にある絵をちらりと見た。
それは、クレヨンで描かれた絵だった。
長方形の画面に三頭のイルカが堂々とした姿で描かれている。
いずれも赤、緑、水色、とパッキリとした原色に近い色が使用されていて、背景にも同じくらい強い青が使われており、悠々と泳ぐイルカたちの後ろにはオレンジ色の大きな山が描かれていた。
イルカのダイナミックな存在感と、彩度の高い色味のお陰で、ぱっと目につく華やかな絵だ。
しかし、手前に描かれた淡色のサンゴ礁や、グラデーションになっている海の色が、幻想的で柔らかい印象も与えている。
一目で子供の描いた絵だと分かるものであったが、とても魅力的な作品だと思った。
出来かけのキャプションを見ると、どうやら小学四年生が描いた絵のようだ。
「私、小4のときこんなの描けなかったよ。上手だね」
「ああ、これ。いいよね。色も綺麗で可愛いし」
あやめの視線に気が付いた恵茉が、その絵を手に取って机の空いているスペースに置いた。
「多分、直感だと思うけど、配色もよく考えられてるね。青の背景の前には赤とか緑のイルカを描いて、オレンジの山の前には青いイルカを描いてる。輪郭線を太くしてそこも濃い色に変えてるから、見やすいし、どことなくお洒落な感じがする」
「手前に見切れのサンゴを描いてるのもうまいよね。後ろの山が周りに比べて淡い色味になってるから遠近感出てる。最初に視線が真ん中に行って、そのあと後ろにいくように自然に誘導されるから」
恵茉と棗の感想を聞いて、あやめは感心していた。流石は美術部員。
子供の戯画に対しても専門的な視線から見解を述べている。
「でもまあ、なにより一番は楽しそうに見えるところが素敵。きっと楽しんで描いたんだろうなーってのが想像出来るもん。家に飾って眺めるならこういう元気な絵がいいよね」
「分かる。大人の絵って上手だけど、死にかけの人間が描いたのかな? って思うようなのあるよね。いくら上手くてもそういうのは飾りたいとは思わない」
「なるほど......」
二人の会話を聞いて、あやめは分かったような分からないような気持ちになった。明るい絵と暗い絵、ということだろうか。確かに部屋に飾るなら暗い絵より明るい絵のほうがいい。.....でも、やっぱり下手な絵より上手い絵のほうがいいとも思う。
あやめはもう一度まじまじと絵を見てみた。素敵な絵だと思ったが、いくつか気になる点があった。
「これ、海の中なのに山があるよね。すっごいおっきい山....海底火山ってこと?」
あやめの呟きに、恵茉と棗はきょとんとした顔になった。それから二人、顔を見合わせてなにやらニヤニヤと悪戯めいた顔をした。
「え、なに?」
「案外、逆かもよ」
「え?」
恵茉の言った意味がよくわからず、あやめは答えを求めるように棗の顔を見た。棗もなにか面白いものを見つけたかのように口角をあげている。
「これは海中じゃなくて、地上かもしれないよ。青は海の青じゃなくて、空の青かも」
「........? でも、サンゴがあるし、背景の色も空色というよりは群青に近い感じだし。なによりイルカが泳いでるし....海の中の世界を描こうとしたんだと思うよ。山は、多分.....なんかスペース余ったから描いたのかな」
あやめが言うと、恵茉が「ふははっ」と噴き出した。棗もなにか笑いをこらえている様子だ。
なにか....面白いことでも言っただろうか。怪訝な顔をしていると、ひとしきり笑い終わった恵茉が口を開いた。
「地上にサンゴがあったっていいじゃない」
「え?」
「陸にサンゴが生えてても、イルカが空を泳いでても、海にオレンジの山があっても、イルカが赤色でも青色でも緑色でもいいんだよ」
あやめは不思議そうにしていると、棗が恵茉の言葉を引き継いだ。
「これを描いた子は、そんなに深くは考えてないと思うけど....自分があったらいいなって思ったものを、自分が素敵だと思った世界を自由に描いたんだよ。だからこの絵は生き生きしてて、楽しそうなんだ」
「.....あぁ」
棗の言葉を反芻して........理解した後、あやめは顔が熱くなるのを感じた。
この人たちは、そういう考え方が出来るのだ、と思った。
あやめにとって、イルカもサンゴも海にあるべきもので、山は陸にあるべきもので、そうじゃないと違和感を感じてしまう。
だが、恵茉も棗も、あやめよりもっと広い視野で、柔らかい頭で物事を捉えているのだ。
所詮は絵の中の話だ。あやめだってイルカの色が違おうが、山が何色していようが、そこまで気にしていなかった。しかし、やはり自分の中での基準が明確にあり、『青とサンゴとイルカが揃ったのなら、海でなければおかしい』という考えが根源にあった。そう思っていたことに、指摘されて初めて気が付いた。
「あやめちゃんみたいな考え方の人がほとんどだと思うよ。そりゃあ誰だってこれ見たら、海の中の景色だって思うよね。現に、私たちだって最初の印象はそうだったもん。でも、捉え方なんて人それぞれで.......どんな作品も鑑賞者の思考の中で完成されるものなんだよ。右の人が格好いいって言って、左の人が可愛いと言ったって、どっちも正解になる。どっちも正解ではないって言い方もできるけど。芸術は数学みたいに答えのある世界じゃないから」
究極を言うと、それは作者ですら不介入の領域なのだという。例えば、作者がこの絵を『海だ』と言ったとしても、見た人が『陸だ』と思えばその人の中ではそれが正解になる。
それぞれが抱いた感動を侵害することは、創造主であっても野暮なことだと。
そう、恵茉は言った。
「まあ、これはあくまで私の考えだから、みんながみんなそう思ってるわけではないけどね」
恵茉の言葉を聞いて、あやめはなんだか、自分がとても幼く無知で
「分かる、分かる。私も混乱するもん。固定概念で考えるなって言われたって、それが常識の世界で生きてきたんだから、違和感覚えるのが普通だし」
「思い込みって、本当に自分でも気が付かないうちに根付いちゃうから怖いよねー」
恵茉と棗の会話が、どこか遠く聞こえる。
きっと、自分には物事の表面しか見えていない。海だと思っていたものが、陸である可能性がある。今までも、起こり得た様々な可能性を、常識や固定概念に従って踏み潰してしまっていたのかもしれない。
そう考えると、なんだか今まで生きてきた人生のほとんどが、惰性の上に成り立っているような気がしてきて、自分自身のことすら酷く胡散臭く思えてしまった。
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