七
目が覚めるとソファの上だった。
この時、あやめの息はすでに上がっていた。まずい、このままでは過呼吸になる。あやめはうずくまって喉元に手を添えた。自分の意志とは関係なく、呼吸がどんどん深くなっていくのを感じる。苦しい。辛い。怖い。
その時だ。玄関のドアがガチャリと開く音がした。次いで、
「ただいまー。……あやめ? どうしたの ? 大丈夫? …具合悪いの? ねえちょっと?」
母の声色が変わった。荷物を投げ出してあやめのもとに駆け寄ると、下から顔を覗き込んだ。口を開けて「はぁ、はぁ」と呻いているあやめを見て、看護師の母はすぐに状況を察したようだった。
「聞いて、あやめ。お母さんが言った通りに息をするのよ。いいわね。吸ってーー吐いて。もう少し吐いて。そう。また吸ってーー長く吐いて。もう少しもう少し。そう、その調子」
背中を撫でながら言う母の声に、あやめの呼吸も次第に落ち着いていった。母が持ってきたグラスの水を飲み干すと、あやめはふう、と溜息をついた。
流石に花畑脳の母も心配になったのか、あやめに「何かあったの?」と聞いてくる。あやめはどうしようかと悩んだ。まさか、夢で見たことをそのまま伝えるわけにもいかないが、何もないのにいきなり過呼吸になるわけもなし。ここは適当にスプラッタ映画を見たとでも言っておこうか。まぁ、この母のことだから信じるだろう。
(いや、待てよ)
これはひょっとしてチャンスではないだろうか。親の前でこんな風に深刻っぽい状況になったことは滅多にない。今なら真面目に取り合ってくれるかもしれない。
あやめは母に向かいの老人(本名は森山さんという)の話をした。過呼吸の話は老爺に変なことを聞かれてパニックを起こしたせいかもしれないということをそれとなく示唆した。
母は、うんうんとあやめの話を心配そうに聞いていた。能天気だが、基本は娘思いのお人好し気質な母親なのだ。ここまで弱った姿を見せれば、それなりの対処を考えてくれるだろう。
しかし、母の反応は意外なものだった。
「そうねえ。私もお父さんも森山さんがうちを気にしていることには気が付いてたんだけど........まさかそこまで執着しているとは思わなかったわ」
「執着?」
この時点で鈍感の両親が森山さんの奇行に気が付いていたことにも驚いたが、母が使った執着、という言葉が引っかかった。
「ご近所さんに聞いた話だから、どこまで本当か分からないんだけど.......森山さんところのおうちはね、代々このあたりの地主さんだったのよ」
「え、そうなの」
「森山さんのおうちから、半径二十メートルくらいはみんな森山さんのところの土地だったの。でも、なんの建物も建っていなくて、ただ持て余していたように見えていたんですって。でも、ある時ね、森山さんの息子さん...あやめが会ったお爺さんの息子さんがね、お爺さんに内緒で勝手に土地を分割して売りに出してしまったみたいなの。お爺さんはそれはそれは怒ったらしくて、でもその時にはもう土地の権利は違う人に渡ってしまっていて、どうにもならなかったの。でもお爺さんどうしても諦められないみたいで、この家に新しい人が引っ越してくる度に『出ていけ』って言ってるみたいよ」
「……それほんとに?」
というより、なんでそんな大事なことを今まで黙っていたんだ母。
要するに、とっくに人のものになった場所に執着して『そこはもとは俺の土地だったんだから出ていけ』といちゃもんをつけに来ていたということか。
「.....あれ、でもその話だと、なんでうちだけなの? この辺の他の家の土地ももとは森山さんの家の土地なんでしょう? 近所の人にも言いがかりつけてないわけ?」
「最初はあちこちの土地を買い戻したいって申し出ていたらしいけど.....断り続けたら段々言わなくなったみたいよ。でも、私たちが住んでいるこの場所は、最初はお金持ちの別荘が建っていて、誰も使わずに放置されていた期間が長かったらしいのね。それで、そこに目を付けた森山さんが何度も取り返そうと当時のオーナーと揉めたっていう話は聞いたわ。でも結局、土地は別の人に渡ってしまい、また違う家が建ったの。それからはいくつかの家族が住みついたり、引っ越していったりを繰り返して.....そのたんびに家主と森山さんでひと悶着あったんですって。どうしてか、ここに住む人たちってあんまり長く居着かないで引っ越してしまう人が多いみたい」
というより、森山さんと揉めるから引っ越していくのだろう。
つまり、あれだ。既に人の居着いてしまった家は諦めて、引っ越してきたばかりの新参者を威圧して、追い出そうとしているわけだ。なんて性質が悪いジジイなんだ。
「でも、どうしてあやめに若い娘はいるか、なんて聞いてきたんでしょうね」
「若い娘なら簡単に怖がるし、大げさに騒ぐから、最初にターゲットにしてじわじわ親も追い込もうとしたんじゃない」
「でも、それなら子供でもいいわけでしょう。若い娘っていう言い方が妙ね」
「それは....確かに」
母の言葉に、あやめは閉口して考え込んだ。歳を聞いてきたのも気にかかる。十七という年齢に、あの老人は何を思ったのだろう。
沈黙を破ったのは母だった。
「やっぱり、
その線は、あやめも考えていた。というよりもう、それ以外の理由を自力で捜索するのは無理そうだった。
「認知症で徘徊癖のある老人.....土地うんぬんのこと抜きにしても、勝手に人の家に入ってきたり、変なこと口走ったりはあり得るんじゃないの?」
認知症についてさほど詳しくもない人間の取ってつけたような見解であったが、あの老人がまともではないことは確かだと思った。
「今日、お父さんに相談して警察に行ってみる? あやめがそこまで追い詰められてるんだったら、もう来ないように警察に注意してもらうか、パトロールしてもらうかして....」
そう言う母の申し出を、あやめは断った。正直、母の話を聞くまでは、警察に言うことも視野に入れていたが、これまでの老人の行動を聞くに、特に危険性のあるような話ではなかったので、とりあえずもう少し様子を見ることにしたのだ。
先ほどあやめに気押されていた様子を見るに、そこまでの脅威にはならない気がしていたし、なにより転校してから然程の時間が経っていない時期に警察沙汰を起こしたなどと噂が立って大袈裟になることを危惧した。
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