コーンと、どこかで獅子脅ししおどしの小気味良い音が響く。

目覚めると、そこは小さな和室だった。

あやめはまだ霞みがかった意識で身体を起こす。甘い香りがした。

訝しげに身じろぎをして振り向くと、背面はふすまになってた。どうやらそこに寄りかかるようにして眠っていたようで、少しだけ背中と腰が痛い。―――痛い?


 ここはどこだろう。

最後の記憶はリビングのソファで眠ったところで途切れている。眠った、ということは、やはりまた夢を見ているのだ。だって、そうでなければ説明がつかない。全く見覚えのない和室で、一人眠りこけていた説明がつかないからだ。


 あやめは四肢に力を入れて立ち上がろうとした、が、あまり力が入らなかった。だが、身体はふわりと、まるで何かに押し上げられるようにして簡単に立ち上がった。妙に身体が軽かった。というより、若干ふわふわしている。やはり夢の中の世界だからだろう。そういう風に勝手に納得することにした。


 立ち上がってから、まずあやめは自分の身体を見下ろした。前の夢では魂だけで身体がなかった。今回はある。制服を着ていたままだった。紺色のブレザーにワイシャツ。一回折った状態の赤チェックのスカート。黒いソックス。何もかも眠る前の格好のままだ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚もある。わからないが、多分この調子なら味覚もあるだろう。


 十二畳程度の小さな部屋だった。

 眼前には小さな文机ふづくえが鎮座しており、その前にはなだの座布団が敷いてある。

視線を真っ直ぐ向けたあたりには、簡素な白磁はくじの一輪挿し。そこに手折られた桜の枝が一本生けてある。白い花弁が数枚、畳の上にうつぶせに散っていた。 さらに花瓶の奥には、藤の花と青い小鳥が描かれた掛け軸が一枚かかっている。

 あやめから向かって左側は襖になっており、何やらまだ別の部屋に繋がっているようだ。 その反対側の障子からは、わずかに空いた隙間から外の様子が少しだけ見える。あやめは障子を抜けて、淡い茜の差し込む濡縁ぬれえんにでた。

 

 ソファで眠ったのは5時くらいだったはずだが、同じ時間が流れているのだろうか。薄暮はくぼと云うにはまだ早いが、空には既に月が出ていた。

 濡縁から見る庭は広く、美しく、それでいて見覚えがあった。昨日見た夢の庭で間違いないと確信したのは、向こう側にあの四阿が見えたからだ。


さて、どうしたものかな。とあやめは周囲を見回した。

どうやら妙なことに巻き込まれたらしい。


きっと普通じゃないことが起こっている。

夢、夢、だと自分に言い聞かせてきたが、ただの夢でないことは明らかだった。

夢の中で覚醒するという感覚、最初に感じた腰の痛み、冴えている五感、確かな体の感覚、何より、今ここに存在しているという自負が、あやめにはある。


リアルな夢。という次元を超えていた。

ここで、この場で息をして、生きてる自分がいる。それを正しく認識している。

 絶対に普通ではないことが起こっているのに、相変わらず少女は落ち着いていた。否、対外的に見たら、そう見えただろうという話だ。これでもあやめだって十分に混乱していた。だが、ひとしきり混乱した後で、すぐに深く考えることを放棄したのである。事態はあやめの手に負えないことが分かりきっていた。これ以上分析したところでどうにもならない。言ってしまえば、半分やけを起こしていた。


あやめは途方に暮れるつもりで、途方に暮れていた。

あやめが目覚めた場所は、きっと大きなお屋敷の小さな一部屋だったのだろう。誰の家かは分からないが、特に荒れた様気子もなく綺麗に整えられた部屋を見る限り、人の手入れが入っているに違いない。この家には住民がいるはずだ。


(住民―――)


 とりあえず、家の主を探すべきだろうか。ここでいつまでも立ち尽くしていたところでなにも変わらない。一瞬だけ、昨日の夢で出会った美しい少年の姿が頭に浮かんだ。


 濡縁から別の部屋に移動しようとて――ふと気になって最初に目覚めた場所に戻ってきた。

 気になったのは、匂いだった。

 目覚めた時から、この屋敷はずっと藤の香りに包まれていて、屋敷の中も外も甘い香りが充満している。しかし、この部屋は一際香りが強いように思えた。

 匂いはあやめがもたれていた襖の向こうからしていた。もしかしたら、天然の藤の香りではなく、お香を炊いているのかも知れない。もう一度、襖の傍に立つと、確かに藤の強い香りが漏れ出ていた。しかし、なんだろう........それだけじゃない。なにか、えたような匂いがするような.........。

 襖を開けようとするも、何故か全く開かなかった。鍵をかけることもできないのに、なぜだろう。


「誰だ」


 鋭い声に、あやめの動きがぴたりと止まった。驚いて声のしたほうを振り向くと、そこには少年が立っていた。

 昨夜、夢でみた少年だ。花のように美しいかんばせを険しく歪ませてあやめを睨みつけていた。しかし、あやめが振り向いた途端、呆けたように少年の表情が抜けた。


「えっと、あの」


 あやめがなんと云おうかとしどろもどろしているうちに、少年の顔はみるみる青くなっていった。そして、最初の威勢はどこへやら、「っう……」だの「ああ……」だの、言葉にならないうめき声のようなものを漏らして片手で顔を覆うような仕草をした。

 だが、次の瞬間には何かが吹っ切れたようにキッと顔を上げて、そのままズカズカと向かってきて襖にかかっていたあやめの手を乱暴に引き剥がした。


「痛っ」


「お前、何度目だ?」


「え?」


「ここに来て、何度目になる?」


 あやめは少年の言葉を反芻した。何度目? ここに来る夢を見たのは、二回目だ。魂だけでふわふわしていたのが一度目。身体を持ってやって来た今回で二度目。


「に、二回目です…」


 あやめがそう云うと、少年はチッと舌打ちをした。あまりに横暴な態度に、あやめは目を白黒させる。以前に見た少年の様子と目の前の彼があまりに違くて、なんだかとても失望している自分がいた。


「二回目? 阿呆あほうめ。もっと来てるはずだ。じゃなきゃこんなにはっきりしているわけがない」


 吐き捨てるように、あるいは嘲るかのように少年は云った。言葉の意味はよくわからなかったが、ひどく貶されていることはわかった。


 あやめはこの少年に失望している自分に気が付いた。失望? なぜ? 


(私はこの人に何を期待していたの―――?)


 最初に見た横顔が、身を切られるほどに切なかったから。向けてくれた笑顔が、木漏れ日のように優しく尊かったから。

 あの感情を、自分に向けてくれたことが、舞い上がるほどに嬉しかったから。

 今度会ったら、少しでも話がしたいと思っていたのだ。


 だから、こんなに嫌悪を込めた眼差しを向けられて酷く悲しくなった。


「ここは、お前のような下賤が来る場所ではない。今すぐに出ていけ。さもなければ斬るぞ」


 そう言って、少年は着物の合わせ目からナイフのような小さな刀を取り出して、鞘から引き抜いた。鋭い白刃はくじんが茜を反射する。時代劇なんかで見る、懐刀ふところがたなによく似ていた。


 少年は短刀を構えてあやめをめつけている。

 あやめの背筋を恐怖が這った。刃物を突きつけられたこともそうだが、それ以上に少年の瞳に宿る憎悪が恐ろしかった。初めて出会ったはずなのに、なぜここまで憎しみを向けられているのかが、分からなかった。


 憎しみに歪んでいてもなお、少年の顔は嘘みたいに綺麗だった。それが、あやめの恐怖を増長させた。美人が怒ると怖いなんていうが、浮世離れした美しさと、並々ならぬ雰囲気を纏う彼の威圧感は、とてもあやめには受け止められるものではなかった。


 「わ、たし......」


  唾を嚥下した、喉奥が痛んだ。


 「失せろ。今すぐこの場からね」


  その言葉で、限界が来た。


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