(それにしても........)


 聞き間違いじゃなければ今、名前を呼ばれた。あやめはまだ名乗っていなかったはずだ。それなのに、向こうはあやめの名を知っていたようだった。

 悶々と考えながらも、あやめは立ち上がって歩き出す。

 どこかで会ったことがある......のかもしれない。でもそれは、彼に見覚えがあるとかでは全くなく、可能性としてあり得なくはないという話だ。

 あやめは育ちは東京であったが、生まれたのは母に実家が近いこの街付近の病院であった。その後、小学校中学年くらいまでは、祖父の病気のこともあり東京の家と母の実家を行ったり来たりしていた時期があった。もしや、その時に出会っていたのかもしれない。

 だとしても、かなり昔の話だ。勿論、物心はとっくについていたし、はっきりしている記憶もところどころはあるが、疎遠になった人も多く、忘れてしまっている知己がいてもおかしくはない。

 少年の顔を思い返してみても、やはり全く見覚えがない。誰かの面影を感じたこともないし、話していて懐かしく感じることも無かった。

 でもきっと、幼いころに出会っていたのだろう。そうでなければ、あやめのことを知っていた説明がつかない。


 そんなことを悶々と考えながら、改札を抜け、電車に乗り、家の近くまで歩いて帰ってきた。こちらに引っ越してきてようやく一月ちょっと経ってきたくらいだったが、もう家の近所まで来ると安心している自分がいる。


 しかし、家が見えてきた時、あやめの顔が強張った。斜向かいの老人が、駐車場の前あたりに立っている。あやめはどうしようかと逡巡してから、やはり迂回して裏から帰ろうとした。しかし、その前にあやめの姿に気が付いた老人が「おい、そこの」とあやめを呼び止めた。嫌な感じの声だった。流石に明確にあやめを捉えて声を掛けてきたので、無視をする事も出来ず、あやめは仕方なく「はい、なんでしょうか」と問い返した。


 老人は、七十から八十代くらいに見えた。白いワイシャツにモスキーグリーンの薄手のニットを着ていて、面長の顔に、鋭い三白眼さんぱくがんが威圧的に光っている。あやめは緊張しながら、老人の言葉を待った。なにか値踏みするように男はあやめを上から下まで見てから、口を開いた。


「いくつだ」


「はい?」


「歳はいくつだと訊いている」


 あやめは目をしばたかせた。


「十七ですけど」


 あやめが答えると、老人は顔を険しくした。


「姉妹はいるか」


「いません」


「女は母とお前だけか」


「家に住んでいるのは、私と母と父だけですが....」


 と、そこまで答えて、あやめは嫌悪感にぞっとして口をつぐんだ。

 尋常じゃない、と思った。

 近所に越してきた人間の家族構成を問うのは、別におかしなことではないだろう。だが、この老爺は「女は何人いるか」と訊いてきた。そんな訊き方、普通はあり得ない。


 今度はあやめが対面する老人をじっと観察した。ここで逃げないのが、あやめの凄いところだった。昔から、トラブルや土壇場に強く、大抵のことでは動じない度胸があった。


 老人が家の前をうろうろしているのは、父ではなく、母かあやめに用があるのだろう。でなければ、女の数など気にするわけもない。そして、恐らく本当に用があるのはあやめのほうだ。年齢を問われた。老人はあやめが歳を答えると険しい顔になった。母の年齢は訊いてこない。十七だと老人にとってなにか都合が悪いのだろうか。


「本当にほかに若い娘はいないんだな」


 念を押すように老人が訊いてきた。この言葉には流石にあやめも嫌悪と苛立ちがこみ上げた。


「いませんが、若い娘になにか用があるんですか」


 強めに問い返しながら、あやめは思考をフルに回転させて別のことを考えていた。

 老人は、若い娘と接点が欲しいのだ。この時点でもうまともではないが、老人の発言からすると、恐らく十七よりも若い娘ではないとならないのだ。若い娘というよりも、未成年の少女を求めている。どう考えても頭がおかしい。


あやめの強気な返しに、老人は少々面食らったようであった。あやめはその隙に、早口にまくし立てた。


「ちょっと非常識じゃないですか。いきなり来て、女の数は何人だとか、若い娘は居ないのか、とか。傍から見れば、普通に不審者ですよ。それに、あなたいつも家の窓から私たちの家を覗いてますよね。何考えてるのか分かりませんが、これ以上おかしなことするようなら警察に行きますよ」


 できるだけ、きつい口調で言い放った。もし気の弱そうな少女を狙って声をかけたならこれだけで十分に効果があるはずだ。そして、やはりあやめの気迫に気押されたのか、老人のほうは明らかに狼狽した様子だった。

 あやめはそんな老人を蔑むように一瞥してから大股で横を通り過ぎて家に帰った。

 ソファの上に鞄を投げ出し、沈みこんでからようやく一息つく。

 毅然とした態度で対応していたが、あやめだってかなり緊張していたし、怖かったし、苛立っていた。だが、この時点で怒りという感情が湧いてきたのが、幸いだったのかもしれない。普通に気の弱い少女だったら、きっと恐怖心だけに支配されて逃げることしかできなかっただろう。そうなったら、ますますターゲットにされるし、後が面倒だ。早めに牽制をしておいて正解だった。正解.......正解だったと思う。きっと。多分。そうだったらいいなぁ。

 

 「刺激したことになるのかな....あれって」


 努めて冷静に対応したつもりであったが、今こうして振り返ってみると、やや頭に血が上っていたこともあり、アドレナリンと感情に従って行動してしまった気もする。徘徊癖のあるボケた老人とかならまだいいが、気違い相手の対応としてはやっちまった感があった。


 所詮は自分も感情の制御が出来ない子供であったと、どこか老成した感慨を抱いているあやめに、ゆるゆると睡魔が襲ってきた。


 そういえば、三日前は変な夢を見ていたせいで、眠りが浅かったのかもしれない。父も母も仕事で居ないし、帰って来るまで少しこのまま眠ってしまおう。   


 あやめはソファにくたりと首を落とし、そのまま睡魔に身を任せた。



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