最初に認識できたのは深い闇だった。まどろみの中、真っ暗闇に放り込まれた感覚だ。

 やがて、ふわりふわりと緩やかに視界が開けていき、自分が今、どこかの家の庭に居ることに気が付いた。


 冥暗めいあんになれた視界が少しずつ周囲の情景を捉え始めた。

 あやめは今、明るい月夜の下にいる。街灯のような無粋な光は一切無く、宵闇に煌々と存在を示す満月のみが地上を照らしている。


 随分と広い庭だった。ぱっと見ただけでも、あやめの家の庭の十倍くらいはありそうだ。松の木があちこちに植えられていて、あやめの背の半分以上もある大きな岩に、青々とした苔が茂っている。

 風に揺られて舞い散る桜の花弁が、月光を透かして淡く灯る。あやめの知るソメイヨシノよりも、ずっと白に近い色をしていた。

 鯉の泳ぐ池にも、小さな満月が宿っている。そこから流れる小さな川には丹塗にぬりの橋が跨っており、その更に向こう側には、灯篭に照らされて浮かび上がる小さな四阿あずまやがあった。 

 

 風がよく通る場所だと思った。強すぎず、弱すぎない。

 透明な春風が静謐の庭園を遊んで回る。

 新鮮な風が、あやめのぼうっとした思考を目覚めさせていった。


 ここはどこだろう。どこかよそ様の家にでも入り込んでしまったのだろうか。いや、こんな広い庭を所有できる人間なんてそうそういない。土地代だけでいくらになるか。公園や施設と考えるのが妥当だ。前に行ったことのある東京の御苑のような........。


 ふわふわした気分のままあやめは首を傾げーー傾げようとしたが、出来なかった。

 体がないのだ。体というか、実体がないといったほうが正しいだろう。視覚は生きているし、思考もできる。しかし、手や足の感覚がない。あえて言葉にするなら、風船に目が付いているような感覚だった。

 

(魂だけになったみたい)


 あまりに現実味のない話だが、そうとしかいようがなかった。魂だけとなって、どこかの立派な庭園を漂っている。

 不思議なことに、恐怖心はなかった。

 というのもこの頃になると、あやめは今、自分が夢を見ているのだと確信していたからだ。

 これは夢だ。夢の中なら、突飛なことも支離滅裂なことも、夢だから、の一言で片が付く。それでもやはり夢を見ながら『夢を見ている』ことを自覚していることと、夢にしては思考が正常に機能しすぎている点には引っかかりを覚えた。


 ふわりふわりとあやめは魂のままに庭を漂っていく。風に攫われているのか、何かに導かれているのか、それとも自分の意思で動いているのか、あやめにもよくわからなかった。

 橋の上を通り、石垣の上で目を光らせる猫に見送られ、ゆっくりと庭の奥へ進んでいった。


 どこからか、甘い香りがした。

 ここで、あやめは嗅覚も生きていることを初めて認識する。

 それはとても覚えのある香りだった。ジャスミンのようにかぐわしく、包み込むような優しい香り。

 

(藤の香り)


 やがて、藤の木がたくさん植えられている場所に出た。紫の小さな花々が、房状になって集まり可愛らしい花を咲かせている。何千、何万という紫の花弁が月光にさらされて、薄く透けて光っているようだ。互いの持つ色が反射し合い、あの木のあたりだけ、不思議な紫色の空気が漂っているように思えた。


 あやめはしばしその景色に見とれた。酔いしれたといっても過言ではなかった。満開の藤の木がこうもたくさん並んでいるのは初めて見たのだ。ここに来るまで見てきた日本庭園も、舞い散る桜も美しかったが、息を忘れるような心地がしたのは初めてだった。


 桜と藤の開花が同時に見られるなんて、なんて華やかな庭だろう。だが、この庭の主役は間違いなくこの藤だ。庭の主は桜よりも藤のほうが好きなのだろうか。明らかに藤の数のほうが多かった。


 家の庭にもささやかながらに同じ香りがしているが、ここで香るのは段違いに強い香りだ。むせ返る様な、という表現をしてもいいくらい、それは酩酊しそうなほどに濃く漂っていた。

 薫風くんぷうがあやめの思考を溶かしていく。

 御伽噺おとぎばなしや幻想小説の一片を垣間見ているような気分だった。

 

 なぜか泣きそうな気持ちになっていると、中でもひと際大きな藤の木の下に、誰かが立っていることに気が付いた。


 和装をした男性のようだった。すらりと背が高く、比較的細身で、じっと藤の木を見上げている。あやめは引き寄せられるように、男性のもとに近づいて行った。

 

 

 近寄ると、その人は驚くほど美しい顔をしていた。思っていたよりもずっと年若く、あやめと同い年くらいの少年であることが分かった。着物を来て、長い黒髪を高い位置で結っている。時代劇に出てくる人のような恰好だったが、儚げな美貌を持つ少年にはひどく似合っていた。

 これほど近づいているのに、少年はじっと藤を見つめたままで、あやめに気が付く様子はない。あやめもそのことを、自然なことのように甘受していた。

 白皙はくせきの少年の顔は切なげで、どこか苦しそうに、今にも泣き出しそうに見えた。あやめは少年の姿を見て、胸をかきむしられるような衝動を感じた。どうしてか、彼を見ているとひどく切ない気分になる。彼の苦しみを拭ってあげたかった。


 やがて少年は、藤の花に手を伸ばした。小さな花弁を一枚取り、そのままそっと引き寄せて、瞼を閉じて口づける。その時、少年の目から透明な雫が落ちた。あやめはその姿を見て、今度こそ我慢ならない気持ちになった。なにをしたらいいのか分からないが、とにかく彼の涙を拭ってあげたかった。


 その時だ。ハッとしたように少年がこちらを振り向いた。あやめも驚いて固まる。

 少年はあやめの居るほうを凝視していた。彼の黒曜石のような神秘的な瞳から、真珠のような涙がまた一滴、零れ落ちた。


 (私が、見えるの?)


 あやめはそう問いかけるが、いかんせん口が無いので言葉が発せられない。すると、少年のほうが何事かを呟いた。なにを言ったのか聞き取れず、あやめは焦った。


 (もう一度、云って)


 心の中でそう問いかける。すると、少年が急に笑った。何故だか分からないが、先ほどまでの悲壮な顔が嘘のように、心底嬉しそうな顔になったのだ。あやめはその笑顔にどきりとした。笑うとまた印象が一変する人だ。花が開いたような可憐な笑顔だった。


「あぁ、良かった。来てくださったんですね」


 少年がそう云った。勘違いじゃなければ、あやめに向けて言ったように見えた。なんのことだか分からないが、歓迎されているような言葉に、不思議と胸が高鳴った。


 少年があやめに向けて手を伸ばす。あやめも導かれるように少年のもとに近づいていく。あと少しで手に届く。その時だった。


 バサバサという不躾な音が、静謐な庭にこだました。あやめの目の前に飛んできたのは、うぐいすに似た、黄緑色の小さな鳥。どこか見覚えのあるメジロが、あやめに向かって一直線に飛び込んでくる。


(ちょ、ちょちょちょっと待って。うそでしょ)


 くちばしが突き刺さる―――――――!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る