藤園の約束

風助

比翼連理と春の小嵐


  


  甘露かんろの香の中、誰かの呻吟しんぎんが聞こえる――――




      *          *          *



 

天にあっては、願わくは比翼ひよくとりとなり 地にあっては、願わくは連理れんりえだとなりたい。

 

 遡るは中国、とう代の詩人、白居易はっきょいによる『長恨歌ちょうこんか』の有名な一節である。

 

 比翼の鳥というのは、雌雄一体しゆういったい、それぞれ片眼片翼という中国伝説上の鳥のことを指す。陸にいる間は二匹の鳥だが、空を飛ぶ際には一匹の鳥となり、互いに欠けた片目と片翼を補い、助け合いながら天を翔けるのだという。

 

 対して連理の枝というのは、愛し合っていたのにも関わらず権力者によって引き裂かれた夫婦の悲劇から生まれた言葉だ。無念の死後、件の権力者の嫌がらせにより、夫婦は程近いが、決して手が届かぬ距離の場所にそれぞれ墓を立てられた。しかし、やがてその二つの墓からそれぞれ木の芽が出てきて、二本の木は片割れを求めるように近づきあい、いつしか枝同士がくっついて一つの枝になったのだという。

 両者とも仲の良い男女を指す言葉だ。

 

  (………だからってねえ)

 

 庭に一人立つ少女は胡乱うろんな顔になった。

 青天井あおてんじょう東風こちが泳ぐ。

 退紅あらぞめのワンピースの裾が、少女の足元で風花かざはなのように踊った。


 少女は、件の連理の枝の前に立っている。ーーーいな、連理の枝のように、枝同士が癒着した二本の藤の木の前に立っている。

 

  ひと月前に越してきた際、真っ先に目に入ったのが広い庭にあったこの二本の藤の木だ。蔦を纏った幹は短く、少女の腹ほどの長さしかない。

 幹の部分はぐにゃりとS字を描くように曲がり、そこから無数に枝分かれしたこずえの先は、どれも素直に重力に従って垂れ下がっている。

 確か、藤の花の見頃は四月中旬から五月の上旬あたりという話だった。

 若い早緑さみどりの葉の間に、ぽつぽつと紫紺しこんの蕾が顔を覗かせ、春を迎えようとしている。次期に閉じた花弁も綻び始めるだろう。


 少女の瞳が、すっと藤の蕾にピントを合わせた。それから、すぐに木の蔦をなぞるように上に滑り、枝の先に止まった小さな鳥を見留める。


 この藤の名を連理藤れんりふじというらしい。らしいというのは、この家の古典好きなオーナーが白居易の詩にちなんで付けた、という話を両親づてに聞いたからだ。

 

 そこまではまだいい。少女が呆れているのは、オーナーの名付けにいたく感銘を受けた両親が、近頃この連理藤に留まりにくる鳥を『ヒヨクちゃん』と呼んでいることだ。

 情緒の欠片もないネーミングである。語感的に名前に向いていないし、なにより『ちゃん』というのが頂けない。

 この『ヒヨクちゃん』はメジロなのだが、奇妙なことに既に咲いている梅や桜の方には見向きもせず、まだ蕾の状態の連理藤の傍から離れないのである。

 もちろん、二匹に別れたり、片眼片翼なんてことはなく、一匹で完成している鳥だ。

 

 どこまでも脳天気な両親らしいネーミングだが、そもそも少女一家がこの家に越してきたこともこの連理藤に関係していた。

 

 半年前、母方の祖父が亡くなった。

 そこで、頼れる親戚も居らず田舎で一人暮らしをすることになった祖母を心配した父の提案で、一家三人で東京から祖母の家の近くへ引っ越してきた。

 家探しをする際に、たまたまこの連理藤を見つけたらしい父が、自身の名字である『首藤しゅとう』と結びつけ、「縁がある」などと言い、ほいほいと新居を決めてしまったのである。父と同じくらい能天気な母も父の行動を咎めるどころか賛成し、あれよあれよという間に少女の転入手続きを済ませて、この祖母の住む海の近い田舎町にやってきたのだった。

 

 家は二階建てのスウェーデンハウスだ。外観も中も綺麗に整えてあり、日差しも良好な4LDKである。三人で住むには少し広すぎるくらいだし、おまけに整備された立派な庭までついている。

 だというのに父曰く、意気投合したオーナーのご厚意で相場よりもずっと安い値段で売ってくれたのだとか。

 .....そんな、都合のいい話あるんだろうか。

最初に聞いたとき、少女はそう眉を寄せた。両親の能天気のお陰で、これまでに何度かトラブルに巻き込まれかけたこともあり、親の持ってきた話に対しては一抹の警戒を覚えるようになった。

 父親を問い詰め、しっかりとした仲介業者を間に挟んでの契約であることを確認させたのは少女である。万が一、事故物件であったりしたらたまらない。


 少女の名は首藤あやめ。現在十六歳の、花の女子高生である。

 涼やかな目元が特徴的な、少々大人びた顔立ちをしていた。身長はそれほど高くはないが、腰まで伸びたストレートヘアを高い位置でくくり、タチアオイのように真っすぐに伸びた立ち姿は、清廉せいれんとした印象を抱かせる。

 

 あやめは転校生として、最寄りから四駅ほどの高校に通い始めた。転校して一週間になるが、クラス替え直後の時期だったこともあり、まだクラスの雰囲気は落ち着きがなく、お互いに出方を見ている感じである。それでも少しずつ話せる友人も出来てきたので、新しい学校生活はまずまずの滑り出しといえるだろう。


 あやめは連理藤の傍に並べられた花壇の花に水を遣りながら、ここ数か月のことに思いをはせていたが、ふと物思いから離れて顔をあげた。

 そして、はす向かいの家の窓辺に誰かが立っていることを見留めると、さっと表情を曇らせて顔を逸らす。


 ――あの人、また見てる。


 

 この家に引っ越してきてから、斜向はすむかいの家の老人がよくこうしてあやめたちの家を見ているのだ。始めは気のせいかとも思ったが、こうも頻繁に目が合うので間違いない。

 稀に、家から出てきて、うちの庭の前に立っていることもある。そういう日は、あやめは裏から回って帰宅するようにしていた。まさか待ち伏せされているなんてことはないと思うが、どうにも気味が悪くて仕方がない。大変遺憾なことに、能天気な両親はあの老爺ろうやの奇行には気が付いていないらしく、言ったところで『考えすぎだよー』と一蹴されるのがオチだろう。


やや待ってから、あやめは顔をあげた。窓辺にはもう老爺の姿はなく、ほっと息をつく。

不意に、なにかが眼前を横切ったような気がして、空を仰ぐ。連理藤の枝に、宙を滑るようにして入ってきたのは、メジロのヒヨクちゃんであった。ヒヨクちゃんは、藤のつぼみをつついてから、あやめの方を振り返り小首を傾げた。あやめはまるで人間のようなその姿に苦笑して、如雨露じょうろを持って立ち上がる。


風にのせて、甘やかな香りが鼻をくすぐった。ジャスミンのようなかぐわしい芳香は、藤の花特有のものだ。藤は元来、匂いの強い花である。満開になるころには、この庭は甘い香りでいっぱいになっているのかもしれない。




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