第3話 月がキレイだったから

「こ、こんばんは!」

「…………コンバン、ワ。イイヨル、ネ?」


 目があった。

 ような気がして、動転して。

 気が付けば、夜の挨拶を口にしていた。

 憧れの女子に、決死の覚悟で声をかける時のように。

 その声は、上ずっていた。

 驚いたことに、少女を模した“その子”は、少年に挨拶を返してくれた。

 若干、たどたどしくはあるが、間違いなく少女の声だった。

 とても、可憐な声だった。


「こ、ここここここ、こんばんは! はい! いい夜、ですね!」


 直立不動で敬礼しながら、少年は、威勢よく答える。

 すっかり、舞い上がっていた。

 ふふっと空気が揺れたように感じた。

 “少女”が、笑ったのだ。


 学校でみんなの命を奪い、逃げる女生徒の体を奪った、あの球体と同じナニカとは思えなかった。

 だって、こんなにも。

 “少女”の声は、甘く優しく、耳に心地よかった。

 あの“少女”は、人類の敵などではなく。

 満月に誘われただけの、美しい少女の亡霊なのだ。

 そんな錯覚に、陥りそうだった。

 …………だって、その方が。

 ロマンティックだ。


「コッチデ、イッショニ、オハナシ、シナイ?」

「…………ぁ。う、うん! 今、行くよ」


 “少女”が、柔らかく誘いをかけてきた。

 躊躇うことなく頷いた。

 その正体が。

 “光球”でも、“亡霊”でも。

 もう、どちらでもよかった。

 だって、“彼女”は。

 綺麗だった。

 理由なんて、それだけで。

 それだけで、十分だった。


 ジャングルジムを上るなんて、何年ぶりだろうと思う。

 生まれて初めて上った時よりも、少年の胸は高鳴っていた。

 まだ濡れたままのジャングルジムは、ザラザラとした手触りだ。

 ところどころ、錆びているのだろう。

 天辺まで昇ると、“少女”は少年と同じ高さまで、ふわりと降りて来た。


 スカートの裾が翻ったように見えたのは、錯覚だったかもしれない。

 近くで見ると、少女をモチーフにした白く光る彫像のようだった。

 彫像のように整った顔立ちをしている、という意味もあるが。

 文字通り、の意味でもある。

 輪郭しかない“少女”は。

 白く光る彫像の、立体映像のようなのだ。

 実体がない上に、仄かな光を放っているせいだろうか。

 とても、柔らかく感じられた。


 朧げな輪郭から分かる制服のデザインが。

 少年の通っていた中学校の制服とは違っていることに、安堵した。

 別の学校の生徒ならば、構わないということではないが。

 クラスメートの命を奪った元光球と呑気に会話をするというのは。

 さすがに、後ろめたい。


 目の前まで降りて来た“少女”も、少年をしげしげと観察しているようだった。

 それに気づいた途端、ドギマギしてきた。

 慌てて、視線を逸らす。

 女の子と、こんなに至近距離で話した経験はなかった。

 目の前の“少女”が、人間ではないのだとしても。

 少女の姿をしていて、少女の声で話すのならば。

 それはもう、少年にとっては“少女”なのだ。

 しかも。

 “少女”は、綺麗だった。

 そして、その声は。

 甘く、涼しげで、可憐だった。


「ネエ? アナタハ、ワタシガ、コワクナイ?」

「え?」

「ミンナ、ワタシヲミルト、ニゲタ」

「……………………」


 誘った通りに、“少女”は早速、少年に話しかけてきた。

 みんな、とは。

 “彼女”の犠牲となった人たちのことだろうか。

 さすがに、背筋がヒヤリとした。

 何とも答えられずに俯いていると、“少女”は下から覗き込んできた。


「デモ、アナタハ、ニゲナカッタ。アナタハ、ワタシガ、コワクナイ?」

「!」


 驚いて足を滑らせそうになった。

 慌てて、ジャングルジムの棒を掴んでいた手に力を込めて、体を支える。


「き、君のことは、こ、怖くない!」

「ドウシテ?」


 暴れる心臓を宥めながら、“少女”の機嫌を損ねたくない一心で、大急ぎで答える。

 体制を整えることよりも、今、少年にとって。

 こちらの方が、ずっと大事だった。

 “少女”は、重ねて質問を投げかけてきた。

 純粋な好奇心から、のようだった。

 女の子から、こんな風に興味を向けられたことはない。

 生まれて初めての体験だ。

 しかも、こんな至近距離から。

 “少女”が人間だったなら、甘く温かい吐息が感じ取れそうなくらいの至近距離。


「き、ききききき、君が、綺麗だった、から」

「キレイ?」


 動揺のあまり、素直に本心を答えていた。

 平静だったなら、こんなことは恥ずかしくて言えなかっただろう。

 “少女”は、「キレイ、キレイ」と何度も呟きながら。

 少年から、離れていった。

 手を伸ばしても届かない、けれど声は届くくらいの距離で。

 少女は、クルクルと回り始める。

 バレリーナのようなしなやかさだったが、スカートの裾が翻ったりはしなかった。

 落ち着かない心臓を持て余しながら、“少女”を見つめる。

 楽しそう、に見えた。

 綺麗だと言われて、喜んでいるのだろうか。

 だとしたら、本当に。

 まるで、人間の女の子のようだと思う。

 喜んでもらえたのなら、少年としても嬉しかった。

 思い切って、恥ずかしいセリフを口にした甲斐がある。


 一しきり舞うと。

 満足したのか、“少女”は少年の傍へと戻ってきた。

 先ほど顔を覗き込まれていた時よりは、節度ある距離だ。


「キレイ。オンナノコヲ、ホメルコトバ」

「…………う、うん。そうだね」


 本当に、喜んでくれているようだった。

 両手を胸の前で合わせるポーズをした“少女”の声は、何処か弾んでいた。

 それが、すごく気恥ずかしくて。

 忙しなく、視線を彷徨わせる。

 何となく、“少女”との距離が縮んだ気がした。

 そうなると、いろいろと“少女”のことが知りたくなった。

 けれど、相手は“女の子”だ。

 ヘタな質問をして、機嫌を損ねてしまうことを恐れて、一歩を踏み出せずにいた。

 怒った“少女”に食べられてしまうことよりも。

 怒った“少女”が、少年を置いて何処かへ行ってしまうことの方が。

 恐ろしかった。

 心を決めかねていると。

 “少女”が、軽やかな声で歌いだした。


「ココ、ハ、チ、キュウ。アナタ、ハ、ニン、ゲン、オトコ、ノコ」


 不思議な抑揚。

 不思議なリズム。

 ここは地球と“少女”は言った。

 ということは、“彼女”は、“彼女”たちは、宇宙からやって来たのだろうか?

 そう思ったとたん、質問が口から転がり出た。


「君は、何処から来たの?」


 言ってから、まるでナンパでもしているようだな、と思った。

 気を悪くしたりしないだろうかと心配になったが、杞憂だった。


「ワカラナイ」


 特に気分を害した様子のない“少女”の返事は、至極あっさりしていた。

 嘘をついているようには、感じられなかった。

 少し素っ気ない、そんなことに興味はないわ、とでもいうような。

 ある意味“女の子らしい”返事だと、少年は感じた。


「キミハ、ドコカラ、キタノ?」


 次の質問をする前に、“少女”から、同じことを返された。

 学校から……と答えようとして。

 思いとどまる。

 そういうことを聞きたいわけではないのだろう。

 もっと、たぶん、哲学的な。

 きっと、そういう話なのだ。

 人間が何処からやって来たのか、なんて。

 少年は知らなかった。

 そんなこと、考えたことすらない。

 だから、同じ言葉を返した。


「分からない」

「イッショ、ダネ?」

「…………う、うん。そう、だね」


 一緒だね、と言いながら。

 “少女”が、笑った気がした。

 表情に、変化はない。

 どうやら、動かすことは出来ないようだ。

 本物の彫像のように、ずっと、何処か捉えどころのない表情のままだ。

 でも、分かる。

 声が、放つ光が、柔らかく揺れた気がした。

 それだけで、嬉しくなった。

 調子にのって、次の質問をしてみることにした。

 肝心なことを、まだ聞いていなかったことに気が付いたのだ。


「その、君の名前を、聞いてもいい?」


 聞いてから、後悔した。

 “少女”の名前を聞く前に、自分が名乗るべきだった。

 自分の迂闊さを呪いながら、今からでもと、焦って名乗ろうとしたのだけれど。

 “少女”が答える方が、早かった。


「サア?」

「え? 名前がないの? それとも、覚えていないってこと?」

「…………サア?」


 取り付く島もなかったが、揶揄われたり、嫌がらせをされているわけではないようだ。

 本当に分からない上に、それは“少女”にとって、どうでもいいことのようだった。

 どう話を繋げていいものやら分からず、黙り込んで“少女”を見つめる。

 “少女”は、少し考え込む素振りをしてから、ゆっくりと喋り出した。

 人間とは違う発声の仕方なのか、喋るときに“少女”の口は動かなかった。

 その他の仕草は人間そのものなのに、不思議だな、と思った。


「タブン、ワタシタチハ、ウマレタバカリ」

「え?」

「コノスガタニナッテ、ワタシハ、ワタシニナッタ」

「じゃ、じゃあ。光る球だった時のことは、覚えてないってこと?」

「ヒカル、タマ……? アア、アレ。ミタコトハ、アル。ワタシガ、アレダッタ?」


 学校で見た、光球と女生徒の一幕を伝えると、“少女”は浮き上がって一回転した。

 興奮しているようだった。

 “少女”は、すぐまた少年の傍まで降りてくると、今度は早口で話し始めた。


「スゴイ。ハッケン。アナタト、ハナシテ、ワタシハ、シラナイワタシヲ、ミツケタ」

「え、えっと。よかった、ね?」

「ウン。ヨカッタ。スゴイ。タノシイ」


 “少女”は、はしゃいでいるようだった。

 それが、ものすごく可愛らしく感じられて。

 少年は、薄っすらと頬を染めながら、俯いた。


「じゃあ、光る球は、君たちの卵だったってことなのかな?」


 気恥ずかしさを誤魔化すように。

 早口で、思い付きを口にする。

 それは、本当にただの思い付きだったが。

 口にしてみたら、意外とそれが真実のような気がしてきた。

 そうなると、つまり。

 人類は、新たな生命体の誕生に遭遇したということなのだろうか。

 そう考えると、静かな感動すら覚えたが、その代償が人類の滅亡かもしれないというのは、皮肉なことだった。

 どうして、なぜ、“少女”たちが生まれてきたのか。

 それを知っているのは、神様だけなのかもしれない。

 人類に嫌気がさした神様が、新しい生命体を創造した、ということなのかもしれない。


 だとしたら。

 “少女”自身のことを、これ以上聞いても仕方がないのかもしれないな、と少年は思った。

 けれど、“少女”の方は、この議題がお気に召したようだった。

 積極的に、自らの謎を解明し始める。


「アレガ、タマゴ……。ツマリ、ワタシハ、ニンゲンノオンナノコト、ヒトツニナッテ、オンナノコヲタベテ、エイヨウニシテ、ウマレタ?」

「そ、そうなんじゃないかな。たぶん、だけど」

「ソウカモ、シレナイ。サイショハ、ボンヤリシテイタ。サンニンと、ヒトツニナッタ。サンニンヲ、タベタ。タベルゴトニ、ハッキリシテキタ」

「え、と。つまり、食べることで、姿を真似るだけじゃなくて、その子の知識を取り込んだってこと?」

「ソウ……ダトオモウ」


 “少女”の話しぶりからして、人格までは継承していないのだろう。

 ただ、知識だけをインストールして。

 赤子同然だった、“彼女”の頭脳に当たる機関は、一気にここまで成長したのだろう。

 なんだか、少女を模した人工知能と会話をしている気分になってきた。

 人工知能と会話なんて、したことはないけれど。

 そういうイメージがしたのだ。


「タマゴハ、ナニヲカンガエテイルノカ、ワカラナイカンジガシタ。ナカヨク、ナレナソウダッタ」

「そ、そうなんだ」


 “少女”の率直な言い草に、うっかり笑ってしまいそうになった。

 薄情なようだけれど、それが仲間の卵だなんて知らなかったのだから、仕方がないだろう。


「セイチョウシタ…………ナカ、マ……トハ、アワナ、カッタ」

「最初の攻撃で、生き残った人間だけをターゲットにしているみたいだったから、そもそも数が少ないんだろうね」

「ソウカモシレナイ」


 もしかしたら、あの攻撃ならぬ光撃は、エサとなる人間を識別するためのものだったのかもしれない。

 だが、光球の数は、光撃を浴びて生き残った人間よりもずっと多かったはずだ。

 “少女”のように“生まれる”ことが出来なかった個体はどうなるのだろうか?

 現れたのとほぼ同時に、生態ピラミッドの頂点に立ったように思われる光球。

 その光球たちの中でも、生き残るための争いがあるのだろうか?

 気になったので、一応、聞いてみることにした。

 また、分からないと言われる可能性もあった。

 けれど、光球がいなくなったのは、“少女”が生まれた後のことのはずだ。

 だとしたら、行方を知っているかもしれなかった。


「卵は、それなりな数が空を飛んでいたと思ったけれど、何処に行ったんだろう?」

「ンー…………アメ、ガ、ヤンダ、アト、イナクナッテイタ」

「じゃあ、何処に行ったのかは、分からないの?」

「ウン。キョウミ、ナイ」

「そ、そっか」

「ウン、ソウ」


 “少女”はどこまでも素っ気なかった。

 仲間かも知れないと分かってなお、興味がなさそうな“少女”。

 冷淡とすら、言える。

 若干の戸惑いを覚えつつも、薄情だと詰る気にはならなかった。

 そもそも、そういう生き物なかも知れない、と。

 一人で勝手に納得した。


「その、仲間に、会いたいとか思わないの?」

「ウン。キョウミナイ」

「いや、その、卵じゃなくて。君、みたいに、人間を食べて、生まれてきた仲間に」

「アア、ソウイウコト。キョウミナイ」


 薄情さ全開の素っ気ないセリフに、少年は喜びを感じ始めていた。

 仲間には興味がないのに、“少女”は、少年には興味を抱いてくれたのだ。

 そのことが、純粋に嬉しかった。


 たとえ、この会話に“少女”が飽きたら。

 少年も食べられてしまうのだとしても。

 それでも、構わないと思った。

 置き去りにされるくらいなら。

 “少女”に食べられて、終わりを迎えたい。

 一人で生きていくなんて、自分には出来そうにない。

 どのみち、“少女”の仲間に見つかったら、そこで自分は終りなのだ。

 “仲間たち”に食べられるくらいなら、少女に食べてほしかった。

 “少女”と、一つになって、溶けて混ざり合ってしまいたかった。

 “少女”の一部になってしまいたかった。

 それは、とても素敵なことのように思えた。


 でも、今はもう少し。

 もう少しだけ。

 “少女”との会話を楽しみたかった。

 だから、新しい質問を投げかけてみた。


「ここで踊っていたのは、どうして?」

「…………ツキガ、キレイダッタカラ?」


 “少女”の答えを聞いて、少年は息を呑んだ。

 それは、“少女”と出会った時に、少年の心に浮かんだフレーズだった。


「そ、その。満月と、君の仲間の卵って、少し似ていない?」

「ソウ?」


 純粋に月が綺麗だと思った“少女”とは状況が違うが、少年は勝手にシンパシーを感じて舞い上がった。

 それが恥ずかしくて、考えるよりも先に口走っていた。

 口に出してから、満月と球体を見間違えたことが、この出会いに繋がったのだと思いだした。

 “少女”に魅入られてしまってからは、それすら吹き飛んでいた。

 満月に、あの球体を重ねて、恐怖や嫌悪感に襲われることはない。

 月は、綺麗だった。

 だが、それは。

 “少女”の頭上で輝いているからこその、美しさだった。


「その、ほら。丸くて白くて光っている、ところが」

「アア、タシカニ。ソウイウ、キゴウテキナトコロハ、オナジ。デモ、チガウ。タマゴヲミテモ、オドリタクハナラナイ」

「…………そう、だね。確かに。パッと見は似ているけれど、でも、それだけだ」

「ウン、ソウ。ツキハ、オドリタクナル」


 そう言うと“少女”は、宙へ飛び上がった。

 両手をしなやかに頭上にあげて。

 バレリーナのように、空中をクルクルと舞った。

 降り注ぐ月の光は、冷たくて硬質だけれど、何処か優しくもある。

 光球にとって、人間は狩るべきエサだけれど。

 月は。

 人間なんて我関せずの顔で、ただそこにいるだけだ。

 “少女”の言う通り、よく見れば、全然違う。

 人気女優と、その女優の髪形やファッションを真似しただけのその辺の女子くらいには。

 全然、違う。

 月と、月のコスプレをしたスッポンくらいには。

 違っていた。

 

 でも、あの子は月よりもずっと綺麗だ。


 時折、フフッと笑い声をもらしながら。

 楽しそうに夜空で舞い踊る“少女”を見ているだけで、何かで満たされていった。

 溢れそうなくらいに、いっぱいの何か。

 零れだしたそれをどうすればいいのか、少年には分からなかった。

 右手で鉄の棒を掴んだまま、左手で胸の真ん中を抑え、指先に力を込める。

 そうせずには、いられなかった。


 やがて、満足したのか。

 “少女”はふわりと、少年の目の前まで戻ってきた。

 少年の方を向いたまま。

 少年の周りを、ゆっくりと旋回する。

 首を回して、可能な限りその姿を追いかける。

 ジャングルジムの天辺に腰掛けた、不安定な姿勢で。

 完全に“少女”の姿を追いかけることは、難しい。

 “少女”の体が、その足元が。

 ジャングルジムをすり抜けていく。

 それを見て。

 少しだけ、寂しいと感じた。


 “少女”と一つになることは出来ても。

 触れ合うことは、出来ないのだ。

 胸の奥に。

 月の欠片が入り込んでしまったような、痛みを感じた。


 一周回り終えて、少年の目の前に戻って来ると。

 “少女”は、少年に手を差し出した。


「イッショニ、オドロウ? アナタト、イッショニ、オドリタイ」

「あ…………」


 “少女”に誘われて。

 手を差し出されて。

 感覚的には。

 少年は、もうすでに空を舞っていた。

 差し出された、その手に向かって。

 少年も、手を伸ばす。

 胸を抑えていた手は。

 離せそうも、なかった。

 だから、尻の下の鉄棒を掴んでいた方の手を。

 “少女”の掌の上に重ねようとして、出来なかった。


 激しい物音と、衝撃。

 視界が暗転して。

 自分が何処にいるのか、分からなくなる。

 “少女”が呼びかけてくる声で。

  途切れかけていた意識が、戻ってきた。


 目の前には。

 月明かりを照り返す、濡れた地面。

 雑草を掻き分けるようにして。

 自分の、右か左かも分からない手が。

 投げ出されているのが、見えた。


 ああ、落ちたのか。

 少年は、他人ごとのように思った。


 支えもないまま、少女へと身を乗り出して。

 そのまま、ジャングルジムを転げ落ちたのだ。


 少年は。

 少女”と違って、空を飛ぶことは出来ない。

 差し出された“少女”の手を、取ることすら。

 出来ないのだ。


 起き上がるどころか。

 指先すら、動かせなかった。

 視線は何とか。

 動かすことが、出来た。


 “少女”の手が。

 少年の投げ出された手に、伸びてきた。


 “少女”の手と。

 少年の手が。

 本当の意味で、一つに重なる。


 そうだ。

 手を握ったり、重ね合わせたりすることは。

 出来ない。

 でも。

 一つになることは、出来る。


「ねえ。……僕を、食べてよ」

「イヤダ!」


 掠れてはいたけれど。

 辛うじて、声を出すことは出来た。


 何処に、どう怪我をしたのか。

 それすら、分からない。

 けれど、その内。

 そう遠くない内に。

 自分は死ぬのだろうと。

 少年は予感した。


 助けてくれる人は。

 誰もいない。

 そもそも。

 病院が、機能していないはずだ。

 “少女”にも。

 少年を助けるような力は、備わっていないだろう。


 だったら。

 どうせなら。


 このまま。

 ここで、野垂れ死ぬよりは。

 “少女”と一つに。

 なりたかった。


 少女と混じり合って。

 少女の一部に。

 なりたかった。

 

 本音を言えば。

 もう少し、“少女”との時間を。

 楽しみたかった。


 朝が来るまで。

 朝が来ても。

 その先まで、ずっと。


 ずっと、一緒にいたかった。

 もっと。

 “少女”と話を。

 したかった。


 “少女”も、それを。

 望んでくれていたというのに。

 叶いそうも、なかった。

 叶えてあげられそうも。

 なかった。


 だから。

 だった、ら。

 いっそ。


 そう思ったのに。

 強い口調で、否定されてしまった。

 自分が死ぬかもしれないことよりも。

 それは、ずっと悲しかった。


 これまで。

 “少女”が。

 そんな風に。

 声を荒げたことはない。


 自分と一つになることが。

 そんなに、嫌なのだろうか?


 少しは仲良くなれたと思ったのに。

 エサにすることさえ。

 嫌なの、だろうか?

 絶望は。

 すぐに。

 歓びに。

 塗り替えられた。


「ヒトツニナッタラ、モウ、イッショニハナセナイ。ソンナノハ、イヤ」

「……………………ぁぁ」


 少女も。

 自分と。

 同じように。

 思っていて。

 くれたのだ。


 それが。

 嬉しくて。

 やっぱり。

 悲しくて。

 悔しかった。

 自分が、迂闊だったせいで。

 “少女”の願いを。

 叶えてあげられないことが。


 悔しくて。

 悲しくて。

 どうしようもなかった。

 それなのに。

 やっぱり。

 嬉しくて。


 ああ。

 自分は。

 この子のことが。

 好きなんだな。


 今更のように。

 少年は思った。


「ぼく……も、もっと、きみ、と、はなして、いた、かった……」

「ウン。ワタシモ、ワタシモ。ズット、キミトイッショニイタイ。キミト、オハナシシテイタイ。ネエ、モット、ナニカハナシテ?」

「ご……めん、ねむく、なった、みたい……だ」

「ネムル……?アア、ニンゲンハ、ネムラナイトイケナイ……。イキルタメニ、ヒツヨウナコト。…………ワカッタ、ソレナラ、ショウガナイ。アナタガオキルノヲ、マッテル。ダカラ、オキタラ、マタイッショニ、イッパイ、オハナシシヨウ? …………ヤクソク。ソウ、ヤクソクシテ!」

「…………う、ん。やく……そく」


 横たわる少年に、ずいと顔を近づけて。

 “少女”は、約束を強請った。


 半透明な体は、地面に埋まっている。

 顔だけが、地面の上に出ている。

 まるで、生首みたいな状態で。


 恐ろしくは、ない。

 むしろ。

 愛おしかった。

 叶えてあげられないことを。

 予感しつつ。

 少年は。

 “少女”が。

 望む言葉を。

  返した。


 “少女”の表情は、やっぱり動かない。

 地面から突き出た“少女”の顔は。

 美しい無表情を、保ったまま。

 けれど。

 纏う光が。

 弾けるように明るさを増したのが。

 少年にも。

 感じられた。


 自分の体から。

 何かが失われていくのを。

 少年は、感じていた。


 たぶん。

 次が、最後の言葉になると。

 直感した。


 最後に。

 “好きだ”と一言。

 伝えたかった。


 けれど。

 ほとんど動かなくなった唇から。

 転げ落ちてきたのは。

 別の言葉だった。


「つきも、きみも、きれいだ……」


 授業で聞いたはずの。

 その言葉の意味を思い出したのだ。


 “好き”とか。

 “愛してる”とか。

 口に出すのは。

 恥ずかしい。

 たとえ、死の間際であっても。

 少年には。

 ハードルが高かった。

 でも、これならば。

 少年にも。

 言える。


 意味が通じなくても。

 構わなかった。

 ただ。

 伝えたかった。

 想いが届いたかは。

 分からない。

 ただ、その声は。

 確かに“少女”の耳に、届いたようだった。


「ウン。ツキガ、キレイダネ」


 柔らかく返ってきた少女の言葉には。

 おそらく、文字通りの意味しかないのだろう。

 それでも、少年は。


 言い知れぬ満足感に包まれたまま。

 ゆっくりと、瞼を下ろしていった。



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