唯幻論
自分の母親を「殺したいほどに」憎んでいる人、というのは時々遭遇することがある。そうして、事情をいろいろ理解してみると、やはり僕のように「独立を阻害されて」、「自分の思うように支配しようとして」、「利用された」という自覚ゆえに、「人生というか自分の精神生活に重大な瑕疵を刻印した」存在として母親を憎んでいる。
単なるマザコンというよりはこの時はユングのいうような「グレートマザー」のアーキタイプとして精神に母親の存在が影を落としているわけだろうか、とも思う。
僕は心理学者の「岸田秀」氏の「ものぐさ精神分析」その他の著書で展開されている「唯幻論」という思想に思春期からかなり強い影響を受けたのだが、この岸田氏も「殺したいほどに母親を憎んで」いる人らしい。
氏はもらいっ子で、実の両親ではない夫婦に育てられ、その家業を継がせることを強要されそうなって、神経症になったという。そうして母親が優しい養い手ではなく、自分を利用しようとしている鬼子母神のような本性をひた隠しにしているのではないか?そういう疑念との葛藤で苦悩したらしい。そうして悩んだ末に逢着したのが、自らのファミリーヒストリーを人間の存在の本質に敷衍した、「全ては幻想である」という発想だった。
自らの家庭、自分の成り立ちの基盤がそもそも嘘だった、欺瞞の塊だった。そういう苦い認識は、そのままだと自分の人生そのものの否定につながる。そこで氏は自分の高い知性を駆使して思想や哲学を様々に援用して、人類自体を「偽物の存在」だと、いわば理知的に論破し去った?ということだと思う。
そういう思想、「唯幻論」に共鳴したという裏には、僕にもどこかこの世のすべてがなんだか自分というものとそぐわない、そういう居心地の悪さを感じていたのだと思う。そういう自覚は今でもいささかも変わらないと言えばそうだが、それゆえことあるごとに僕は「唯幻論」的な人間否定、社会否定の発想をしてしまう自分に気づく。
それはしかしやはり孤独で、社会的な適応においては不利になる発想かもしれない。
しかしそうした自家撞着が生じてしまったことは運命であり、故無き事ではなく、今では岸田氏と同じような「毒親」に毒されて「ビョーキ」状態だった私が苦しみもがいていた、その事実を反映しているのかもと、今では客観的に理解している感じである。
この世のことは全部嘘、そういう苦い認識に逃避せざるを得ないような不幸な人生…しかしそれは無意味な紙飛行機の放物線の軌跡というよりも、私の家庭という一つの人間ドラマの歴史の実体的な構図から数学の問題の答えのようにロジカルに導き出されてきた結果かもしれないと思う。
「唯幻論」への深い傾倒には思春期の理論武装の一つにとどまらない、深い意味があった、あるのだと思う。
そしてつまりそれが「母」という厄介な存在との根深い葛藤なのだ…
<つづく>
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