第十八話 蠢く闇

Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. (怪物と戦う時は自らも怪物とならぬよう心せよ。)

Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein. (深淵を覗く時、深淵もまた此方こちらを覗いているのだ。)


――フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ『善悪の彼岸』より

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 何処どこかの闇の中、国語教師・海山みやま富士雄ふじおは苦痛で目を覚ました。すぐに、自分の服に血がべっとりと付着して固まっていると気が付き、恐怖が全身を奔り抜けるのを感じた。

 これは、覚醒剤の禁断症状が見せる幻覚なのだろうか。いや、確かに自分は真里まり愛斗まなとに自身の悪行、生徒を利用した薬物取引を暴かれ、全てを白状していた時、割って入った何者かに襲われた。


「おやおや、目を醒ましてしまいましたか、海山みやま先生……。」


 聞き覚えのある声が闇の中から話し掛けてきた。姿は一切見えないが、海山みやまにはその正体がすぐに分かった。


「し、聖護院しょうごいん……!」


 声の主が同僚の数学教師・聖護院しょうごいん嘉久よしひさと察すると同時に、海山みやまは自分に何が起きたのかも理解した。全てはこの男の失踪から鶏知けちが付いたも同然だったからだ。


「てめえよくもおれをこんな目に……‼」


 当然、海山みやま聖護院しょうごいんを責めずにはいられなかった。

 そんな彼の怨嗟の声に応える様に、暗闇の中で聖護院しょうごいんの身に着けている眼鏡が光った。正確には、その奥にある双眸そうぼうあかく妖しくきらめいた。


「誤解しないでください、海山みやま先生。わたしとしてもこんなに早い段階で貴方あなたを切り捨てるつもりは無かったのですよ? しかし、貴方あなたは要らぬ殺人を犯してしまったでしょう。」

「それは……あいつらに真里まりの疑いが掛かったからつい焦って……! というか、その情報を寄こしたのはお前だろう。第一、あの二人を売人の後継にするよう言ってきたのだって……!」

「やれやれ、この期に及んでまだわたしに責任転嫁するつもりですか……。そもそ華藏はなくら側で貴方あなたが売っていた覚醒剤が発覚し、戸井といさんの調査能力を侮って噂のコントロールにまで失敗したのが発端でこうなったのでしょう?」


 聖護院しょうごいんは溜息交じりに海山みやまを嘲笑する。


「まあ、今はもうどうでも良いですけれどね。向こうの『逝徒會せいとかい』に『彼女』が付いていると確信出来た事、また、信頼関係への揺さ振りとして……。貴方あなたは充分に役立ってくれました。大変、感謝していますよ。」

「向こうの……セイトカイ……?」

貴方あなたは憶えている筈ですよ、海山みやま先生。記憶が改竄かいざんされる前に、わたしと共に『學園がくえんの闇』に触れたのだから。華藏はなくら學園がくえん本来の生徒會せいとかい役員の事をね。現に、真里まり君の事もちゃんと役員だと認識し、彼から押し付けられた厄介事も忘れていなかったでしょう?」


 厄介事を押し付けた、という意味では海山みやまにとって聖護院しょうごいんの方が遥かに重大な相手だった。しかし、今や二人の関係ではその様な事を追及出来なかった。


 ぼんやりと、聖護院しょうごいんの薄ら笑いが闇に浮かび上がった。それはまるで、幽霊か何かの様に思えた。


「まあ、ついでなので教えてあげましょう。わたしの正体と目的を、冥途の土産にね。」


 冥途の土産。――その言葉に海山みやまは戦慄した。やはり殺されるのだ、と。しかし、その様な事は聖護院しょうごいんの口から紡がれる次の言葉の前では些事に過ぎなかった。

 弓型に口角を上げていた聖護院しょうごいんの唇が世にもおぞましい、荒唐無稽な、しかし圧倒的な真実味を帯びた言葉を海山みやまに告げた。


「だ、だからか……‼」


 痛みと恐怖に震えながら、海山みやまは声を絞り出す。


「お前がおれの秘密を、覚醒剤の事を何もかも知っていた本当の理由はそれか……! 何が『忌位いまいから相談を受けた。』だ。お前は初めから全部知った上でおれを嵌めていたんだな⁉」

「まあ、そういう事になりますね。わたしは常々、貴方あなたの様な教師は栄えある華藏はなくら學園がくえんに必要無いと考えていましたので。」

「な、何故だ……? 何故おれをこんな目に……?」

「その理由は至ってシンプルなものですよ。屹度きっと貴方あなたにも御納得頂ける、極めて明快な一つの理由です。」


 聖護院しょうごいん海山みやまに顔を突き合せた。


貴方あなたは教師として、授業に身が入っていなかった。何か良からぬ邪念に囚われ、散漫な集中力で等閑なおざりな授業を行っていた。そんな教師は華藏はなくら學園がくえん相応ふさわしくない。だから、排除する事に決めたのですよ。」

「たった……たったそれだけでこんな……?」

「嫌なら、初めから覚醒剤にる小遣い稼ぎ等というよこしまな誘惑に乗らなければ済んだ話です。結局貴方あなたわたしの見解をその身を以て証明してしまった訳ですよ。全く、愚かな人ですこと……。」


 そうだ、その通りだ。――海山みやまは今更になって激しく後悔した。


 そもそも、破滅へと突き進んだのは犯罪行為に手を染めてまで生徒を出しに小遣い稼ぎをするなどという余りにも愚か過ぎる選択が原因だ。今から冷静に考えれば正気とは思えない、どうしてそんな先が無いと判り切った愚行を犯してしまったのか。


 海山みやまは思い出す。

 彼を悪の道へと誘ったあの少女の、その声、その仕草、そして何よりその容貌の何と甘美であった事か。それは己の全てを委ねても良いと思えてしまう程、悪魔的な魅力を備えていた。彼女の為なら破滅すらいとわない程、彼は彼女に狂ってしまっていたのだ。


「あ、悪魔……‼」


 海山みやまの口から言葉が漏れた瞬間、聖護院しょうごいんの掌が彼の目の前にぬっとあらわれた。そして海山みやまは紫のもやに包まれ、かつて無い激痛に全身を打ち付けられ、抱き締められる様な感覚に襲われた。


「う、うぎゃああああああっっ‼」


 体中の穴という穴からありとあらゆる体液を漏らし、海山みやまは悶絶した。これぞ正に断末魔、とも言うべき壮絶な苦痛だった。


「闇に沈み、その命を捧げなさい……。學園がくえんの闇へ……。」


 凄まじい苦悶の中にある海山みやまには最早聖護院しょうごいんの声は届いていない。いや、それどころか理性すら失い、たった一つの言葉を反芻はんすうする事しか出来なくなっていた。


「ばで、れえとろ、さあたな! ばで、れえとろ、さあたな‼ ばで、れえとろ、さあたな! ばで、れえとろ、さあたな‼」


 紫のもや海山みやまの口を塞いだ。もう声を上げることも出来ない。更に、まるで牙を剝いて噛みつく様に海山みやまの全身に纏わり着いていく。


「では、さようなら、海山みやま先生。」


 紫のもや海山みやまの体を圧迫し、肉を潰し骨を砕いていく。それは宛ら、もやが無数の頭と口で海山みやまの体を貪り喰らっているかの如き光景だった。

 海山みやまの意識は、存在は、その絶大なる苦痛の中へと跡形もなく消えていく、溶けていく。


 もやが消えた後に、海山みやまの姿はもう無かった。聖護院しょうごいんの表情からは笑みが消え、眼鏡の奥に唯冷徹な光を宿してその場に佇んでいた。

 彼を除き、唯静寂しじまの闇だけがその場に残されていた。




☾☾☾




 真里まり愛斗まなとは窓の外を流れる黄昏たそがれ時の景色を見詰めていた。放課後、すぐのバスに乗らずに部活後の生徒と一緒にバスに乗るのは久し振りだ。

 そして、目の前を何気ない景色が過ぎ去っていくのも。


「今日は出ないんですか、憑子つきこ會長かいちょう?」


 一日大事を取った昨日を除く、月火水の三日間、帰りの窓にはいつも華藏はなくら月子つきこの横顔があった。思えばまだ彼女に取り憑かれてから一週間も経っていないのだが、愛斗まなとにとって今やすっかり馴染みの存在となり、逆に傍らに居ない方が違和感の元となっていた。


會長かいちょう?」


 愛斗まなとは再び呼び掛けた。出て来られない理由は何となく察していたが、逆に尚の事話すべき事があるだろうと思っていた。


「沈黙は肯定、と取られても仕方が無いですよ、憑子つきこ會長かいちょう。」


 三度の呼び掛けに根負けし観念したのか、ようやく窓硝子ガラスにいつもの如く華藏はなくら月子つきこの横顔が浮かび上がった。思っていた通り、伏し目がちな浮かない表情をしている。その多大なうれいを帯びたかおがまた思わず見惚みとれてしまう程に美しい。


真里まり君、きみわたしの事をどう思っているの?』


 桜色の唇から漏れた月子つきこの声に、愛斗まなとは否が応にもどきりとしてしまう。何処どこまでも罪作りな女だと、愛斗まなとは呆れてしまう。否、呆れるべきは彼自身に対してかも知れないが。


「それをお答えする前に、まず貴女あなたの口から聞きたいですね。」


 愛斗まなと憑子つきこに問い掛ける。敢えて問い掛けなければならないと思っていた。


聖護院しょうごいん先生の言葉は事実ですか?」

わたしじゃないわ。』


 憑子つきこは質問を想定していた様に、即座にはっきりと断言した。ならば愛斗まなとにとって、それ以上追及するべき事は何もない。


「じゃあそれで良いですよ。ぼくは元々、貴女あなた學園がくえんの事を想って學園がくえんをより良くするために心血を注いできた、それだけは偽らざる真実だと、誰よりも信じていますから。」


 確かに愛斗まなとにとって華藏はなくら月子つきこは単純に憧れていられるだけではない、様々な気に入らない所が多々あるし、現在進行形でそれに悩まされてはいる。だが、それでも尚彼には彼女を信じ尊敬し敬愛するに足るという揺るぎない確信もまたあるのだ。


『そう……。』


 素っ気ない返事をする彼女の横顔が西日に透けてあかく染まっている。愛斗まなとには憑子つきこが敢えてはっきりとした返事をしなかったように見えた。唯、どんな意図であれどんな言動であれ絵になる程美しい華藏はなくら月子つきこという稀代の美少女の事が少しだけずるいと思えた。


『まあ、何にせよ御苦労だったわね。一先ひとまず、覚醒剤の件は解決と言って良いでしょう。』

「あの結末で、ですか?」

きみの言う事も一理はあるけれど、逆にあれ以上すっきりした結末にはならなかったでしょうね。向こうの逝徒會せいとかいが関わっていた以上は……。』


 向こうの逝徒會せいとかい。――その言葉に愛斗まなとは息を吞んだ。

 今は憑子つきこも彼を労っているが、これは始まりに過ぎないのだ。


「やっぱり、聖護院しょうごいん先生は『學園がくえんの闇』に関わっていて、それが今回の事件とも……?」

『確定でしょうね。わたしとしては初めから判っていた事だけれども。』


 そう、聖護院しょうごいんが彼らの前に顔を見せ、そして忽然と姿を消した事は彼らが真に退治すべき『學園がくえんの闇』がその一端を垣間見せたに等しい。


「そろそろ話してくれませんか?」


 愛斗まなとはずっと疑問に思っていた事を彼女に問い掛ける。


「あの夜、貴女あなた聖護院しょうごいん先生と一緒にぼくを巻き込んで何をしようとしていたんですか? その結果、何が起きたんですか?」

『そうね……。』


 華藏はなくら月子つきこの切れ長の目が愛斗まなとに視線を向けた。


『前者の質問はきみの部屋に帰ってから答えましょう。まだ全部とはいかないけれど、答えられる限りは……。』

「全部は駄目ですか?」

『今はまだ、その方が良いわ。余りに急ぎ過ぎると、きみの中の前提を覆す事になる。それは物事の展開を予想外に変えてしまう賭けよ。相手が本格的に姿を見せていない内からそんな博打は張れない。でも、余り黙っていてもきみからの信用に関わる。だから、可能な限りは話すわ。』

會長かいちょう……。しかして、恐れているんですか? ぼくの信用を失うことを……。」

『当然でしょう。今のわたしきみの助けが無いと何も出来ないもの。きみの好意を知りつつ、そこに付け込んで縋り付く事しか出来ないのがわたしの現状なのよ。』

「字を書かせた時みたいにぼくの体を操るつもりは無いんですか?」

『出来なくはないけれどわたしには限界があるわね。それに、余り積極的にやりたいとも思えない。物理的にも心理的にも、わたしにはきみの自発的な意思による協力が必要不可欠なのよ。』


 愛斗まなと憑子つきこの言葉に、自分の口元が少し緩むのを感じた。彼女が心の中で自分を必要としている、助けて欲しいと思っていると聞かされたのが何処どこか嬉しかった。


『何よ、にやついちゃって。気持ち悪いわね……。』

「済みません。でも、出来れば自分を好いている男の感情の機微としては当然だと思っていただき流して欲しかったですね。」

『流せないわよ。きみの顔色を窺わなければならないんだもの。』

「今まで窺ってたんですか?」


 自分の顔色を窺ってあの態度なら、彼女の理不尽な身勝手さもまた紛れも無く本物だと、愛斗まなとは確信を強めた。


わたしは本来苦手なのよ、そういうのが。』

「そりゃもう、存じ上げておりますが……。」

『だからこの状況が本当に癪なんだけれど、もっと腹が立つのは肝心な経緯いきさつが曖昧でわたし自身余り覚えていないという事ね……。』

「覚えていない……?」


 愛斗まなとは訝しんで窓に映った月子つきこの顔に眼を向ける。


「どういうことですか?」

『そのままの意味よ。何が起きたかという質問に答えると、記憶にないとしか言えない。記憶というものが意識だけに依存するものではないという事を現在進行形で思い知っているわ。』


 愛斗まなとは一瞬目をみはり、溜息を吐いた。

 憑子つきこは事ある毎に現在二人が愛斗まなとの脳を共有している事に言及してくる。つまり、記憶が曖昧なのもそこに由来するのだろうが、彼女は今回ぼかした。

 勝手に巻き込んでおいてその因果を把握していない落ち度まで愛斗まなとのせいにしない、その程度の分別は持ち合わせているという事だろうか。


「解りました。じゃあ、帰ったら話せる事だけ話してくださいね。」

『悪いわね……。』


 また、愛斗まなと瞠目どうもくした。彼女が素直に謝罪したことが極めて意外だった。


 バスは一週間を終えた生徒たちを乗せ、碁盤上の街並を南下していく。




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