第33話 氷の騎士アレス
「あなた、愛しています。どうかこの子を……この子をお願い」
アレスの妻テレサはベッドに横たわり生まれた子を愛おしそうにだきながら笑った。
その体はすっかりやせ細っており、誰がどう見ても助からない状態だというのは見て取れた。
アレスと妻テレサは貴族では珍しく恋愛の末の結婚だった。
テレサの身分が低かったけれど、アレスはテレサの気さくな性格とものおじしない強さに魅かれ、周囲の反対を押し切って結婚したのだ。
必ず幸せにすると誓ったのに。
それなのに気が付けばアレスは妻を不幸にしてしまっていた。
子供が生まれるまではアレスもテレサも仲睦まじい夫婦と噂されるほど、アレスはテレサを大事にし、テレサも身分が低いと笑われないように懸命に貴族の務めを果たし夫の仕事を支えた。
すべてが順調だった。
けれど妊娠後期になるとテレサの容態が悪化しはじめたのだ。
魔力差が高すぎるとごく稀におこる、魔力障害。
魔力の高いアレスと身分が低く魔力の低いテレサでは魔力差がありすぎたのだ。
魔力障害にならぬよう、アレスは普段魔力を制御する魔道具をつけて薬をのみ、テレサもそれに見合った薬を飲んで備えた。
万全の準備をしていたつもりだった。
だから妊娠中期までは何もおこらず安心していたのだが、妊娠後期になってからそれは発症してしまった。
もうすぐ生まれるまで育った子を殺す事できず、テレサは生む方を選び――死を迎えようとしている。
「私のせいだ……私と子などなさなけれ……」
アレスが言おうとすると、テレサはアレスの唇に人差し指をそっと添えて微笑む。
「それだけは言ってはだめ。頑張って生まれてきてくれたこの子に失礼だわ。
貴方もこのこ……フローラも心から愛してる。
結婚してくれてありがとう。幸せだったわ。そして――この子の事をお願いねパパ?」
そう言ってテレサは笑う。
それが彼女がアレスに託した最後の言葉だった。
そのままうとうとしだし、眠ってしまってから、意識を取り戻すことなく死んでしまった。
そしてテレサが死に、アレスが悲しみに暮れている中、今度はフローラが魔力過多病で5歳まで生きるのも怪しいと医者に宣告されてしまう。
妻の死と愛した妻の子両方を失ってしまう。
その事実がアレスから冷静さを奪ってしまった。
アレスの事を嫉妬し敵視していた国王デデルにすがってしまったのだ。
彼はフローラの命を救うかわりに従属の契約を結んだ。
アレスが逆らえなくなると、アレスをおもちゃのように扱い、いままでの鬱憤をぶつけるかのように肉体的にも精神的にもアレスを苦しめ始めた。
フローラを愛しているなどと知られたら――デデルの嫌がらせは娘にも向いてしまう。
だから、アレスは娘を憎んでいる父を演じるしかなかった。
妻を奪い、従属の契約を結ぶきっかけとなっている子どもを憎んでいるとデデルとデデルの密偵に思わせるため、使用人たちに悪口を言い、目の前でどなりつけ、粗末な屋敷に隔離した。
自分のせいで娘が使用人たちにも、馬鹿にされていたのは知っていた。
けれどそれを注意などすれば、デデルの密偵がその事実をデデルに告げてしまう。
彼は嫉妬深く強欲で人を苦しむのを楽しむ性癖の持ち主だ。
その標的にされてしまえば、自分のように体に深い傷を負わされ、治すことも許されず、醜悪に笑うデデルの前で何時間ももがき苦しまなければいけなくなる。
こんな事ならたとえ魔力過多症でも、愛を注いで親の愛を感じながら逝かせてあげた方がフローラにとっては幸せだったのではないだろうかー-?
その罪悪感からアレスは病んでいった。
生きているのが嫌になり自害を考えたのは一度や二度ではない。
それでもアレスが死ねば、契約は切れ、デデルは魔力を娘に戻しフローラは死んでしまう。
それならまだいい。
今度はデデルがフローラに従属の契約を結ばせてしまうかもしれない。
だからどんなにつらくても死だけは選べなかった。
魔獣を倒した後。
暗殺者に剣で刺された時、沸いた感情は悦びだった。
やっと生きる事から解放される。
そう――娘が苦しんでいるのに、アレスは愚かにも死を喜んでしまった。
城で辛そうにしている娘の姿に心を痛めなくてもいい。
夜な夜な繰り返される理不尽な暴力に耐えるだけの日々から解放される。
もう何も見ないですむ。
娘の事を心配しなくてもいい、心を痛めることもなくなる。
全てから解放されて楽になれる。
その感情にどうしようもない罪を感じてしまう。
だから薄れゆく意識の中でロイが自分を部下にしたいといったとき、ただ自分が楽になりたくて、フローラの事を頼んだ。無責任に他人に押し付けて楽になろうとした。
フローラが不幸になるというのに守るべき自分がなにもせず逃げ出した。
――パパは私の事なんてどうでもいいんだ――
真っ暗な空間に突如、5歳のフローラが現れる。
フローラが大事にしていた母の形見のぬいぐるみを使用人にぼろぼろにされて泣いていた娘。
その事実を知っていたのにただ何もしなかった自分を責めるようにフローラが言う。
――大事にする? これが貴方の言う大事にするはこういうことだったの? 私を殺しただけじゃなくて娘も守れないくせに――
次はテレサが横に現れ、アレスの事を指さした。
そうだ。どんなに言い訳をしてもフローラが不幸になってしまったのは、全部自分のせいだ。
目先の命を救う事だけに捕らわれ、その後の事が全く見えてなかった。
今だってそうだ。どうしたらいいかわからない。
助けたいのにどうやって助けたらいいのかわからないのだ。
自らがフローラを守ればデデルの悪意がフローラに向いてしまう。
自らが死を選べば、今度は魔力過多の魔力でフローラを脅してアレスと同じ従属の契約を結ばされてしまうだろう。
暗闇に今度は18歳のフローラの姿が現れる。
悲しそうに何か言いたそうに見ているフローラにアレスは苦笑いを浮かべた。
そうだ――。結局自分は娘を一度たりとも笑顔にしてやれなかった。
「……フローラ。
私は間違っていた。
あのまま魔力過多で死ぬことになっても、それを受け入れるべきだったんだ。
例え短い命だったとしても生きている間だけでも精いっぱい愛してやるべきだった。
あんな辛そうな顔で毎日をすごさなければいけない人生を歩ませたかったわけじゃない」
そう言って暗闇に現れたフローラをいとおしそうに手を伸ばす。
「愛していると伝えて、よくできたら頭を撫でて、偉いと誉めて、君が世界に生まれてきて初めて触れ、初めてできた経験を親として見守ってやりたかった。
生まれてきてよかったと、幸せだったと思える人生を送らせてあげたかった」
ぽたりと、冷たい感覚に、アレスは驚く。
--ああ、自分は泣いているのかとアレスは自覚する。
「私は……初めから――父親になる資格などなかったのかもしれない」
アレスは立ち上がり、フローラに手を伸ばす。
「フローラはどうしたい? もし今がつらくて逃げ出したいと君が望むなら――。
一緒に死のう」
そう言ってフローラの首に手をかける。
「……たいです」
フローラがまっすぐとアレスの目を見ながら何か言葉を発した。
「……え?」
「生きたいです。これからはお父様と一緒に」
フローラの手がアレスかけた手を、そっと払いながらそのまま握りしめる。
「フローラ……」
「今までありがとう、お父様。
確かにつらかったこともありました。死のうかとおもったことも。
――でも私よりもお父様の方がずっとつらかった。私のために、我慢してくれてありがとう。
頑張ってくれてありがとう。もう無理をしなくていいんです。」
そう言って愛しそうにアレスの手をみずからの頬に充てる。
「もう、大丈夫です、これからは大丈夫だから一緒に帰りましょう」
フローラが言った途端。真っ暗だった景色が綺麗な花々の咲き乱れる花畑になる。
「……これは?」
フローラと手を握ったまま、急に景色がかわったことに驚いてアレスはあたりを見回した。
「さぁ、帰るぞ二人とも」
ざっと音が聞こえ後ろをアレスが振り返ると、そこにいたのはシューゼルク王国王子ロイだった。
「……ロイ殿下」
「迎えにきたぞ氷の騎士。約束は果たす。
だから貴公にも約束をはたしてもらわなきゃな。おとなしく帰ってきてもらおうか」
ロイがにっこり笑うと、フローラもアレスの手を強く握り手を引いた。
「帰りましょう。お父様。私たちの世界へ」
そう言って微笑むフローラの笑顔は、18歳の少女の純粋な嬉しそうな笑顔だった。
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