作品3-12

 誘拐犯が手を止めたところを見計らって、店主は全ての調理を止めた。


「おい。全然腹が一杯にならねぇな。これで、これで金取られちゃ詐欺みたいなもんだ。」


 誘拐犯は声にならない声で、絞り出すようにそう言った。


「そりゃそうだ。ただの湯下だからよ。」


 誘拐犯の左手に力が入っているのが、店主から見てわかった。それに気づいた店主の妻が、その日一番の優しい声で、


「胸は一杯みたいだけどね。」


と言った。するとその言葉でいよいよ誘拐犯は涙を流した。


「コーヒー飲むか?本物のな。」


 店主のその言葉を合図にしたように、誘拐犯は自身の生い立ちを話し始めた。


 聞けば、誘拐犯は幼い頃、大変貧乏な思いをして、それこそかすみを食って生きるような生活を送っていたらしい。何も家庭環境が悪かったわけではない。ただ金がなかった。だから、珍しく食卓に豪華な食事が並んだ時の感動を今でもよく覚えているというのである。


「悔しいけどよ、お前の作るかすみ玉で全部思い出したよ。ハンバーグ。そんな味だったな。」


 鼻をすすった誘拐犯は、顔を上げて店主を見た。


「これ以上何を出してくれるんだ?」


 感極まる誘拐犯は期待を込めて言った。しかし店主はそれを裏切るように言い捨てた。


「勘違いしてもらっちゃ困るな。これが二品目だなんて言ったか?」


 目を点にして物言えない誘拐犯の代わりに、妻が訳を訊いた。そして店主は意地悪そうに答えた。


「俺は本命と言って桜の木の枝を出した。だからそれが二品目で、これが三品目。これも飾りみたいなもんだよ。」


 店主は、片付けをしながら続けた。


「大体、かすみなんて要は空気だろ。それを馬鹿正直に料理にするなんて無理にも程がある。」


 二人は何も言わなかった。


「それなら、桜の香りを噛み締める。色んなことを思い出すよな。それが本当の かすみ だと思った。だから、本当にこれで終いだ。」


 カウンターに座っているのは、仮にも誘拐犯である。店主はその誘拐犯に背を向けたまま、時計を見るように顔を上げた。

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